今西錦司先生との山行 加藤英彦

 御存知、今西錦司といえば、J.A.Cの重鎮であり、かっての業績は大なるものがある。齢82才にしてまだ山に登り続けているが、この先生と山に同行する機会を得た。少しでも先生の山に対する情熱をさぐろうと思い、今回先生の来分する予定を知り、J.A.Cの東九州支部の会員として事務局より参加の打診があったので急拠日程をあわせて参加した。以下その時の報告である。11月9日(金)大分空港着。その足で別府湯狩荘に入られる(一行3名、先生と松阪の山口さん(72才)、吉村さん(70才))。お2人ともかなり高齢であるが先生に比べたらまだまだお若い。

 夜J.A.C東九州支部有志による歓迎の宴をもつ。出席者28名、6時30分より支部長あいさつ、先生のあいさつの後、湯狩荘の料理を十分においしくめしあがりかつまたお酒の方も水割を十分に飲んでいただく。参加者全員が簡単に自己紹介をし、先生の順番の時今まで山に登ってこられたのはやはり山に対しての情熱を持ち続けていたからという意味のことをとくとくと語っておられた。私も初対面でしたので自己紹介をする中に、先生が父数功と一緒に登ったことをいまだ忘れずにちゃんと記憶しているといわれた時は全く感激でした。
 翌10日、朝6:00起床 7時宿発。先生の予定にはなかったが急拠本宮山(608m)に登るようにしたので出発を早める。一行は車3台と取材のため同行したアドバンス大分のカメラマン、三浦編集長とで総員15名となる。中判田より右折、この辺は窪田君のホームグランドで偵察済み、山頂へは車置場より約5分で到着。恒例のバンザイを三唱する。先生の山登りは三角点に執念をもやした登り方であり、それはまた三角点を非常に大事に扱うのである。次に向かった佩楯山はすでに過去2回きているのだが、その時はテレビの中継塔をたてる工事のブルが三角点を踏みたおしてどこにあるかみあたらなかった。その後、N.H.Kに文句をいって三角点をつくりなおさせ、今度新しくできたので、先生が三度日の正直でやっとその三角点を撫でることができたと喜んでいる。

 山頂では天気もよく、やっと念願を達成した喜びか、よく飲むわ飲むわ。そのかわり接待する方もたいへんだ。それ水だ、水だ、ウイスキーだ、(水割しか飲まない)。そしてまた、つまみだ、うなぎだと気をつかうことしきりだ。そうしていったんすわりこんだら、もう一ぱい、もう一ぱいとなる。そして、「恒例によりヤッホーを三唱します。」となると三角点を中心にして全員が輪をつくり、先生は細長いつえがわりの棒をややななめにかまえて、天につきあげるポーズでヤッホー、ヤッホー、ヤッホーと三度やる。それにあわせて老いも若きもヤッホー、ヤッホー、ヤッホーと大声でさけぶ。こうして幸福感と満足感の絶頂のひと時をすごすのである。まったく傍からみればバ力みたいな光景だが本人達はいたってまじめである。だから多少の予定の時間がくるうことぐらいは仕方ないのであるが、竹田に着いての昼食が2時30分をすぎていたのには腹も減りすぎたことだ。野口支部長さん等は先生が山中にて腰をすえてのみだしたので一足先におりていった。

 さてその晩は高千穂を経由して宮崎県の山ふところ、波帰の民宿に宮崎、熊本のJ.A.Cの支部員も集って民宿に分散した形で宿をとる。その夜もまた先生を囲んでの宴会である。日中もあれだけ飲んでいるにもかかわらず、またビールからはじまって飲み続ける。但し民宿の料理は山菜ものとか鮎とかしかなく、昨夜の別府で食った「フグ」の方がおいしかったようだ。

 明けて11日、なんと皮肉な事か天気がくずれている。それでもせっかくのチャンスだ、カッパをきて向坂山(1684m)をめざす。かなりの上まで林道が入っていたが、杉越(白岩峠)まで先生の足で40分位の登り。それから向坂山までがまた40分位。雨降りの悪いコンディションの中全員山頂にて三角点を撫で缶ビールで乾杯。そして恒例によりはじめバンザイ、その後下山まえにヤッホーと三度やる。

 予定ではこのあと杉越より白岩山、水飲ノ頭へとなっていたが雨もはげしくなり、そのまま下山とする。下山がまた時間がかかる。特に雨のためスベリやすくなっているところを一歩一歩下っていく。そして杉越にて一服、また水割を飲む。先生にとってはガソリンの補給か。どうやら車まではころばずにたどりつき、全員波帰の民宿にて濡れたシャツを着替えて昼食をとる。先生は一風呂あびてまた一杯である。よほど気にいったのだろうか。滅多に手にしない筆を民宿の主人の頼みで色紙にサインをしっかりとしたのが印象的であった。こうしてあとは今晩のとまりである熊本組にまかせて大分組は帰っていった。先生の1500山目の山が丁度雨であったが、それもまたいい思い出となった山行であった。ちなみに、いで湯の会としては帰りに横断道路経由で雨の筌の口温泉に入ったことを報告しておく。なお、この時の様子をアドバンス大分12月号のグラビア3ページにわたって紹介している。(昭和59年11月10日〜11日)

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