名山探訪  第1回   挾間 渉

○はじめに
――再び山へ――

 山に対する憧憬が深まり、思慕の情が募り、山に入るようになってもう15年が経過した。その間の大半において私の頭の中のかなりの部分が「山」で埋められていた。日夜、公私の区別なく山は私の頭の中に勝手に入り込んでほとんど片時も離れることはなかった。そんな私にも、山が頭の中から全く離れた――いや消え去ったというべき一時期があった。忘れもしない昭和50年8月、北ア剱岳でのアクシデント、その後6ケ月間の入院生活...。しかしそのことが山を忘れさせたのではない。病院のベッドの中で考えたことのほとんどが山のこと、岳友のこと、山の会のことであった。

 この剱岳のアクシデント=転落=負傷で正直に言って私はホッとした一面がないではなかった。当時所属していた大分登高会がより困難、よりハードなものを求めて日毎に、山行毎にグレードアップし、エスカレートしつつあったあの時期、口に出る勇ましい言葉とは裏腹に既に自己の限界(技術的、体力的な面ももちろんだが、何よりも精神的な面で)を感じ、「今度の冬合宿までだ...いや冬合宿が乗り切れるだろうか」、そんな思いが日増しに募りつつあった。事故はそういう矢先のことであり、私は内心で解放されたと思った。それはあたかも最前線で名誉の負傷をとげ前線を後退する戦士の内心の安堵感にも似たものかも知れなかったが、私は与えられた戦士の休息を内心で喜んだ。しかし回復すれば再び戦線へ復帰しなくてはならない。が、私の6ケ月の入院の間に山の会の中でいろんな事がありすぎた。そしてもう戻るべき戦線はなかった。このままでは終わりたくない、いや終わったと思われたくない。傷も癒えた後、H氏と新百姓山に登った。実質的には回復後の最初の山登りであった。往復わずか4〜5時間の行程であったが、負傷した足首が痛んで登れないのである。それほど険しくも長い行程でもない山を満足に登れない自分が腹立たしくもあり、ナニクソというよりも体の奥から音をたてるようにして山への思いが崩れ去っていく自分をはっきり意識した。

 もう自分には山は登れない...。そんな気持に拍車をかけたのは、結婚、職場、父母――常識的な社会人に戻ってしまった自分には、もうどれ一つも避けて通れないという気持であった。そして頭の中から「山」を消し去ろうとした。ほとんど完全にである。私は「山」を裏切ってしまったのだ。 ポッカリと空白のまま数年が過ぎたある日、久しぶりに先輩のH氏よりひよっこり電話があり「J.A.C東九州支部の記念誌ができたので、お前の実家に預けておくから読んでくれ」ということであった。「お前は一体何をしているのだ」 ―― 山が頭の中から消え去ってしまっている私に対する先輩の叱咤の様にも思えた。40代にして、形、表現方法はどうであれ自己への山への極みを求め続けるH氏に比べたかだか4.5年で燃焼尽くした気分になっている自分が恥ずかしくもあった。が、その本を貰って後、先輩のそういう意図(自分が勝手にそう思っているかもしれないが)に気が付くのに更に時を要した。

 その本の中に、U氏らの試案による「大分百山」があった。つれづれに自分の登った山を数えてみると登ったことのある山が実に少ないのである。自分が生まれ育ったこの大分の地の豊後の山をあまりにも知らなさすぎる自分。折しも幼い息子たちも歩けるようになり、そんな息子たちを連れて近郊の山を少しづつ登り始め、5万分の1図幅に、「大分百山」に自分の足跡が赤鉛筆で塗られ、赤印が増えていくのが段々と楽しみに思えるようになってきた。自分の中にまだ熱い血の一部が残っていたのだ。かって「たとえ対象が何であってもいい、青春の血を激らせるものであれば」と取組んだ山。今にして思えばやはり対象は山でなければならなかったのである。その証拠にその血がまだ残っており甦る自分を感じていたのである。

 戦前〜戦後を通じ常に果敢な登攀を展開したアルピニスト松涛明にも山を忘れようとした一時期があった。そして彼は見事に甦った。その辺の心境の変化を氏は次のように記している。「・・・・・軍隊に入る時は、よもや二度と生きて山を歩けるとは思わなかった。それはまた一つの慰めでもあった。自分自身で決断しきれなかった問題を境遇の変化が強制的に解決してくれることになったから・・・・復員したのが7月・・・・現在の社会情勢からして、家の事情からしても到底山へ行けるとも思えなかった。今度こそ真から山を諦め、忘れることができると信じていた。そしてそうするように無意識的な努力をしていた。山の本など倉の奥へしまい込んで、・・・・・。ある日私は隣村に通ずる橋を渡って伯父の家へ急いでいた。・・・・田園の果てに筑波、加稜の山波が夕日を浴びて黄ばんでいた。その上に山の高さの数倍の高さに、巨大な積乱雲が盛り上がっていた。紅みがかった円い頭は、なおも高く湧き返っているようだった。その姿は突然、私にかっての日の夏の穂高を思い起こさせた。それは烈しい、自分自身ではどうにも抑えられぬほどの山への思慕であった。静かな夏の夕暮れ人気の絶えた奥穂の頂きに腰を下している時、ジャンダルムの上に高く高く聳えていた雲は、この雲ではなかったか。そして今もまた、この雲があの穂高の上でひっそりと黙って湧き上がっているのではなかろうか・・・・」(「風雪のビバーク」“再び山へ”より)

 比ぶべくもない偉大な先人と対象こそ違え、山への思慕の情においては類似の「巨大な積乱雲」を私自身も心のどこかで追い求めようとしていたのであろう。

  ―――― 静観的登山 ――――
 先日、ある書店で久しぶりに「岩と雪」に目をやると、その中のグラビアには上半身裸の男が頭にハチマキ、腰に小袋(いずれもちゃんとした呼称がありそうだが)を引っ提げて「ここにもあったぞ!エルキャピタンルート」などとケッタイな名前のついた壁を攀じていた。「山」から「岩」のみが遊離し勝手に進化した状態がそこにあった。本多勝一は冒険論の中で「山は死んだ」としている。「山イコールアルピニズム」の中にパイオニワパークがなくなったとして(註:エベレスト南壁、ジャヌー北壁、・・・・無酸素、厳冬期etc例えいかなる困難なルートが征服されようと、それはエベレスト初登頂を超えるパイオニアワークではないとしている)彼は山を離れていった。しかしアルピニズムが即パイオニアワークであるべきかも知れないが、「山」はアルピニズムのみではない。山に対する今の私の気持を最も的確に表現してくれている深田久弥の文章を引用しよう。彼によると山とは「登山は普通の肉体的スポーツに比べてもっとも広い精神的分野を含んでいる。美しい山河に対しての感動、予想されない自然現象の変化に対する頭脳的処置、複雑な地形の判断、同伴者との微妙な気持の反映、そして動植物や地質や気象などの観察とその収穫。ルールに規定されたりレコードを争ったりするスポーツとは大いに違うのである」(「山頂の憩い」より)なのである。大島亮吉、松涛明、加藤文太郎・・・・・我々の愛した先蹤者たちはもう我々の心の中にしか存在しない。そして青春の血をたぎらせたかっての大分登高会の青春群像はもう化石となってしまった。少々年寄りじみているのかも知れない。「山」に対して深田久弥のいうような境地になるにはまだ20〜30年早いのかも知れない。

 本当は今現在は岩や雪に対する気持はかなり強いものがある。衝動にかられることも多い。しかしそれを実践しないのは、できないのではなく、今はそれをやるべきではないと考えているからである。自分が感ずる安全の許容限界を超えたとき、それより先に進むことは今の自分にとっては父母、妻子に対する裏切りなのだ。恐らく許容限界は誰しももっている筈だ。ただこの許容限界が個々でかなり尺度に差があるであろう。自分が自信さえもっていればいいのであるが、何度も失敗を犯した私にとってそんな自信などあろう筈もない。だから私は岩登りに興ずるとか、垂直の散歩を楽しむとかいうことはできないのである。今私にできることは深田の言うように「美しい山河に対する感動」を覚えるようなそんな山登りなのである。伊藤秀五郎は自身の「山」が新しい方向に脱皮する過程を次のように記述している。

 「・・・・・低い薮山ばかりであまり興味を感じさせなかった北海道の山は、むしろ惰性で登っていたわけだ。そしていつの頃か僕は山登りに対して懐疑的となり、むしろ山登りが苦痛なものとさえ感じられてきたのであった。・・・・・しかし幸か不幸か、ある時に僕はいわば精神的な覚醒ともいうべきものを経験したのである。・・・・おのずからひらけて来た心の視野は平凡な山からも、言い知れぬ深い味わいを映し出し、北海道の山にも新しい魅力を感じるようになったのである」そして彼にとって山登りは決して苦痛なものではなくて、「静かにも潤いのある、実に気楽な心の対象」となっていった。(伊藤秀五郎「北の山」〜静観的とは〜より)―――伊藤の言うような「静観的覚醒」にはほど遠いが、結果として私の「山」も、「静観的な境地」の中に次第に入り込もうとしている。

 我が郷土大分の地の「豊後の山」、我が愛する日本の名山の数々、自分自身の山登りにおける「静観的な境地」を目指すために登らねばならぬ山々の何と多いことか。そこには未知なるが故に与えてくれる新鮮な感動があるであろう。美しい日本の山河より得られる素直な感動――それらがかもし出す深い味わい、そしてその山ふところに抱かれた、いで湯の数々が与えてくれる束の間の安らぎ。これまでの動的な「山」から静的な「山」へ脱皮することにより、私は新たな自身の「山」を今、見い出そうとしている。                            
                                 (以下次号)

back