私の故郷の山・福智山  高瀬正人

 過日、所要で福岡に行く機会があり、その帰路、列車待ちの間書店へぶらり立ち寄った。そこで最近地元の葦書房より出版されたある写真集が目に留まった。「筑豊万葉録」と題されたこの写真集は、ヤマの作家で有名な上野英彦氏が監修されたモノクロの飾りけのない写真集であったが、ヤマを知る者にとってあの懐かしいボタ山が、炭住街が、そして真っ黒になって遊ぶヤマの子等が....そう私の少年時代の風景が展開されていた。

 私の故郷・筑豊は福岡県の中央、直方、飯塚、田川、山田の4市、それらの周辺に位置する嘉穂、鞍手、田川の各市町村の総称、遠賀川川筋一帯を指す訳だが、筑前、豊前の中間に位置するところより筑豊と称された。
 この筑豊を囲む山々は、古くから修験場で有名な英彦山、釈迦岳、その西に古処山、馬見山、屏山(馬がコショ食って屁ひった、と覚えた)、四十八ケ所巡りで有名な篠栗の若杉山、そして砥石、三郡、宝満と続く山並み。それらの山々の中でもひと際、鮮やかに優美なスカイラインを持ち、北に尺岳、皿倉、南に香春岳を従える雄大な山容、筑豊の名山と呼ぶにふさわしい我が故郷の山、「福智山」がそびえ立つ。標高901mと若干低いが、その眺望の良さで今なお多くの岳人、ハイカーを迎えると聞く。

 私の「山」への指向はこの山と共にあった。当時、私の住んでいた嘉穂郡庄内町よりこの山は、丁度大分市街から由布岳を見る程度に位置していた。恒例の中学福智山遠足は、ただきつかったことのみが頭に残っている。昨今のバス遠足と違い、本当の鍛練遠足だった。上野(あがの)峡の登山口まで約4時間歩き、そして山頂まで2時間の苦しかった事。しかし福智山に登れた喜びで勇躍帰ったのを覚えている。その頃、転校していった初恋のT子、あこがれの君の事を思い出し、福智を眺めては深いため息をつき、憂いに落ち込んでいた。

 福智山の登山口は直方の内ケ磯、田川上野峡、それに鱒淵の3ケ所だが、いずれも2〜3時間で登れ、小さな沢もあり、四季を問わず楽しい登山だ。そしてこの福智山に一番近い高校に行くことになるとは思ってもみなかったのだが。その高校の校庭に「秀麗比なき福智山、山の気に触れ雲に触れ、近津の川のせせらぎに、清き真心たぐえつつ.....」とある。高校3年間、福智は常に静かに、悠々と、手を伸ばせば届く位置に存在していた。クラスマッチに「福智山登山」があり25sの荷を4人のメンバーで交互に背負い、チェックポイントを通貨し、所定時間に戻る、というルールで行われた。私のクラスには山好きが3人いた(但し、山岳部には所属していなかったが)。今西(名は錦司ではない。留年生でドイツ傾倒者)、小川(名は信之ではない。陸上部)、渡辺(熱血漢、通称カバ)と私の4人。前日のペーパーテスト(山岳に関する)では今西のカンニングが功を奏し満点で他をリードした。翌日、我々4人はキャラバンシューズにニッカーホースのいで立ち。他のトレシャツ、運動靴組を圧していた。「勝利は我らに」、見るからに山のベテラン風の我々4人は自信に満ち溢れていた。25sは当時はかなり重荷だったが、先にへばるのは我々以外だ....。そう確信していた。一斉にスタート。学校より上頓野、内ケ磯、大塔の口を経て福智山(チェックポイントの鷹取山)を目指す。

 順調に順位をキープしていた。ところが大塔の口を越え、鷹取山到着寸前にメンバーの渡辺(カバ)が突然、不調を訴え倒れた。カバが泡をふいたのだ。貧血症状だったが、我々はただ彼を木陰で安静にさせるより手がなかった。後続のクラスは続々我々を追い抜いて行った。彼の回復を待ったが、時間は刻々と過ぎて行く。遂にどんじりとなり我々は勝負を諦めていた。

 .....約1時間、「カバ」がよみがえった。そして今から頑張って所定時間内に帰ろうと言い出した。常識から言ってもとても無理な時間だった。普通の倍のスピードなら可能性ありと言う残り時間だった。「よし、ベストを尽くそう!!」、我々は二つの荷(25sとカバ)を背負った。チェックポイントの鷹取山までの急登、激しい息遣いだが、もう小休止する間も惜しい。汗は目に入るが、25sが、カバが背に食い込む。ようやくポイントを通過し、復路に入りカバもどうやら歩けるまでに回復する。

 復路、下りになると皆駆け出す。互いに励ましあい障稜校舎を目指す。可能性が出てきた。残り5分、校舎が見えてきた。皆全力疾走....そしてゴール。当然トップで帰ってくると思っていた級友達が目に入った。制限タイム1分前のゴールだった。我々4人はそのまま倒れ込んだ。....天を仰ぎ、全身で息をし、しばらく身動きできなかった。

 或る者はゲロし、また或る者は私と同じように死んだように動かなかった。....そして何故だか涙が溢れてどうしょうもなかった。我々は全力を出し切った満足感、充実感に浸った。―― 16年前の思い出である。

 春夏秋冬、10数回登った福智、或る時は素足で、或る時は下駄履きで、山頂に立った時にいつもある方向を見つめていた。それはあこがれの君、T子のいる方向だった。そしてその方向はその後、八ケ岳へ向き、穂高へ向き、ヨーロッパアルプスへと向いていった。日常の些細な出来事に、また己の無力さに腹立しくなり憂った時、何故か無償に福智山に登りたい衝動にかられる。――― 福智山は私の希望に満ちた時代の心の山、故郷の山なのである。

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