石鎚、秋紀行
〜二の鎖元小屋下キャンプサイトに転がったカンビールの謎、その他もろもろ〜の巻
                                                          栗秋和彦
 例によって今回も石鎚への言い出しっぺは挾間である。9月、故 柴田芳夫さんの追悼山行の帰途、「秋の石鎚はいいぞぅ。オレ単独でも10月の連休に行こうと思うちょる。 一人でも行くんぞ!」と一人とは言いながらも、遠回しに同行者を求めて唐突に口走ったのだ。

 彼の真意とするところは『..前略..果たして今の私に行けるだろうか?との不安がよぎる。それでも何か内なる叫びのようなものが厳冬期登頂へと私を駆り立てる。出来れば単独行として成し遂げたいが、仇打ちの助っ人のような気持ちで私を男にしてやろうという仲間の申し入れを断るほどの孤高を保っている訳ではない。..後略..』(注1)に代表される石鎚山厳冬期登頂へのこだわりからくるもので、久方ぶりに無雪期の面河尾根をトレースして、冬での可能性を高めようとのもくろみであろうが、これとは別にボクの方は昨秋のあまりにあっけない土小屋からの登頂に、西日本の最高峰に対してあまりにも失礼な登り方をしてしまったのではないか、との後悔の念を抱き続けていたのだ。タイムリーな提案に食指が動いた。

 一方、この計画を後日聞いて、すんなりと同行を決めたシェルパ・矢野は、もっと純粋に今年2月の石鎚敗退行をベースに未知の頂に対する憧憬を素直に表したに違いない。そして晴れてここに秋の石鎚遠征隊員三名が出揃ったのだ。そしてボクにとってこのメンバーでの山行は、正月の九重、2月の厳冬期石鎚行と、予期せぬ事故や急な仕事に宮仕えの身を嘆き振られ続けてきたことで、3度目の正直と言おうか、因縁の山行となりえるだろう。

 さて今回の目的の一つは、もちろん面河尾根から山頂をトレースすることだが、もう一つは紅葉を愛でながら石鎚山頂〜西ノ冠岳〜二ノ森〜堂ケ森と、石鎚山系を代表するダイナミックで静かな稜線の縦走と位置付けた。ところが当然登り口と降り口とが異なり、バスも通らぬ辺境の地ゆえ車一台では連絡運輸(交通専門用語になってしもうたが、要は異なる交通機関を乗り継いで、スムーズに人を運ぶことかな?)の手段がないという問題に直面した。

 そこでボクは今春の尺岳〜福智山縦走に習って、今様の問題解決方法はMTBの活用しかないと考えた。つまり、降り口の梅ケ市にMTBを一台置き、車は面河登山口まで乗り付け、下山後元気のいい者が空身でMTBを駆って24k離れた、面河渓まで車を取りに行くというプランである。三人ともまさか自分が車を取りに行く役を負うなんて、先のことは考えもしないおおざっぱな性格からして、簡単に合意をみたのだ。 

 そしてここは8日未明、真っ暗闇の山の中。迷いながらもやっと探し当てた梅ケ市集落のどんづまりに『堂ケ森山頂へ4250m』の導標を見つけ、傍らの納屋の軒下にMTBを安置して、まずは一安心である。途中、目星をつけていた工事現場の飯場風小屋まで戻り、潜り込む。時折小雨がパラつきトタンを打つ音と小屋直下の沢の瀬音が交ざり、「こりゃぁ、寝就かれん!」と宣っていた挾間が、一番早く寝息を立てていた模様であった。酔うと突然記憶回路が途切れ、瞬時に昏睡状態に陥る彼の完璧なまでの超人芸に、一種畏敬の念を抱いていたが、普段でも寝付きがいいなぁと改めて思うのだ。そして自分も一年振りに入った石鎚の山塊にコーフンしつつ、無我に陥った。おやすみはA.M2:00頃か。
 さていよいよ本番日の8日朝、どんよりとした空模様の中、黙々と面河渓谷をさかのぼる。緑々の世界に真っ青な水をたたえた深淵と白く飛散する大小の滝の変化に富んだ取り合わせが、深山の趣をよく表している。このあたりでは2〜3週後の紅葉の時期、木々の間から青空がのぞけば、おそらく紅、黄、緑、蒼と入り乱れての満鑑飾の世界が展開するに違いない。そして20分余でいよいよ面河尾根への取り付きに着く。

 登山届けに記入(この連休では我々が初めて。10月1日に1パーティの記述があるのみで、殆どこのコースからは登られていない様だ)し、のっけからの石段の急登に喘ぐ。ディパックばかりの山行に慣らされている我が身には、この登りと山頂泊宴会用飲食材のつまったザックに少々堪えたが、コース自体は効率良く高みに導いてくれるので、時々挾間がわざとらしく読み上げる標高(高度計が組み込まれている腕時計を、ことのほかかわいがる。昔からワタル兄は新しい物好き。彼はこれを最新のテクノロジーと山を愛でる感性の結実アイテムだとほざきつつ、好々爺のごとく目を細め眺め入っている)にボクも「フム、フム」などと力強くうなづき、着実に歩を進めることができるのだ。

 そして取り付きから1時間20分余で面河尾根末端の稜線らしき地点に出る。木々の合間から突然、石鎚本峰の南端、文字どおり天空に尖った岩峰を突き刺した南尖峰が望まれた。挾間、矢野両名にとっては2月敗退行の時、ガスの切れ間から本峰を最初で最後に垣間見た地点でもあるらしく、感慨ひとしおの様である。その後、夏道ではあっけないほどの距離でしかなかった最高到達地点(2月敗退行)までの道中、いかに雪が深かったか、ラッセルが胸まであった!なんぞを修辞的述べ口上で語るは挾間、感慨深げに特徴ある倒木や桟道を確認するように少し照れながら宣うは矢野、と体験した者のみぞ知る臨場間溢るる会話に、ボクは若干の疎外感を味わいつつ黙々と歩いた。

        
 ヒメシャラやダケカンバの森にクマザサが少しづづ現れてくると、愛大小屋は近い。尾根から面河本谷へ派生したいくつかの小沢を回り込むとクマザサとツガの植生に溶け込んだような地味な小屋が見えてくる。まだ面河の駐車場(国民宿舎・面河荘)から歩きだして2時間弱だが早めの昼食を取り、谷を挟んで圧倒的大迫力で対峙する本峰南壁を見入る楽しみに時間を費やそう。時折りパラつく小雨、ガスに見え隠れする南壁、この時期この標高(1600m付近)の割りには生暖かい気温、居心地のいい小屋先の空間、余裕大有りの今日の行程を考えると、このあたりで2〜3時間まどろんでしまいたい誘惑に駆られるが、そうもいかず後髪を引かれる思いで、重い腰を上げる。

        

 そしてほどなくクマザサの絨毯の真っ只中を一直線に高度を稼ぎ、苦もなく面河乗越へ。ここから急に東北面の視界が開ける。瓶ケ森や土小屋、成就社方面の山々は昨秋の記憶に新しいところで見慣れた風景が展開し、もう山頂に立ったような気分になる。その弥山の山頂は指呼の距離にあり、山頂小屋の発電機らしいエンジン音が寸断なく聞こえてきて、好むと好まざるとに拘わらず人間くさい領域に間もなく入るための洗礼と見てとれるのだ。そしてものの2〜3分で三の鎖下の合流点(土小屋、成就社方面からの)に着き、まずは登山者の多さに驚く。

        
 切れ目なく登ってくる人の群れに、遠慮がちに合流させてもらい三の鎖下にトラバースしてまたまたビックリ。巻き道ほどではないにせよ、上部の鎖にまつわりつく老若男女の群れと歓声、しばし人の多さに見とれてしまい、声も出ずといったところであるが、危なっかしい攀じりも多々あり、人ごととは言え気を揉むことしきり。しかし、おもんばかってばかりもおれず、せっかくの機会でもありザックをデポして空身で群れの中に加わる。

 途中ほぼ垂直の部分もあり、結構真剣になって60mばかりの壁を登り終えると、そこは弥山山頂の石嗣であった。そして広くもない頂を占拠している人の連なり。昨秋のこの時期はこれほど多くはなかったのにと訝ったが、よぉく考えて見ると登頂した時間帯の差だったことが判明した。昨年は9時過ぎには到達し、それなりに多くの登山者を迎えていたが、この比ではなかった。これを表して矢野はたちまち、国東に縁が深くこの石鎚を開山したと言われる高僧『役の小角(えんのおづぬ)』(注2)的表情にはまりつつ「憧れの山頂が足の踏場もないような混雑では、崇高なる絶頂のイメージが壊れてしまう! スカイラインならびにロープウェイを利した物見遊山のじいちゃん、ばあちゃん、小うるさい家族連れは去れ」とブツブツ宣い、少し憮然としていたが、気持ちは分かるにしても無理難題というものだろう。しかしこの『役の小角』モドキ氏、ちゃんと心得て目の前の若い女性のグループには矛先を向けないところが、だんだん“おゆぴにすと”らしくなってきたぞ?

        

 それにしても面河尾根では4時間近くの間、1パーティに会っただけの静寂の世界だったので、その落差ははかり知れないほど大きい、とボクも認めよう。そこで早々と弥山に見切りをつけ、天狗峰〜南尖峰と水平距離200〜300mの頂稜の縦走にかかったが、こちらも人の流れに身を任せるほどの混雑で、かろうじてどんづまり・南尖峰の鋭い岩峰に身を委ね、やっと周囲の山々を眺め入る時を持つことができた。やれやれである。

 そして復路は更に人混み激しく、交通整理のおじさんまで現れる始末で、ほうほうの体でしかし、しっかりと不足気味の活力飲料(山頂小屋で、缶ビール350ml〔500円〕×6本+ポケットウィスキー250ml〔900円〕×1本を買い求める)の補充を終えて、二の鎖元小屋下のキャンプサイトへ急いだ。ここは稜線上の猫の額みたいな狭いスペースしかないため、一等地である登山路わきの平地は、もう既に先客が数張り設営しており、我々は登山道脇のクマザサが繁茂する小高い丘(とは言っても、2〜3m先は谷底へまっしぐら)にテントを張り終えた。

 そして時はまだ午後2時半を回ったばかりであるが、挾間、矢野両名のたっての希望もあり、さぁいよいよと言うか、図らずも白日下の大宴会の始まりとなった。テントの窓からは、二の鎖元小屋の背後に覆いかぶさるような本峰北壁が迫り、反対側の窓からはなだらかなクマザサの稜線と、もやった天空の果てに成就社方面の名もなき山々を従える、絶好のロケーションが何物にも替え難い、と酔っぱらう前からレロレロ調(人はこれをレトリック調とも言う)の挾間。一方、シェフ・矢野は鳥鍋の準備に勤しみながら、手際よくサラダ風の酒の肴をこしらえ、まずは準備完了。横を通る登山者の垂涎?のまなざしはキッチリと無視して、荷揚げした缶ビール(500ml×6本)から手初めにスタートした。

             

 ところで今回の飲食材の品目、量目をチェックしてみると、まず活力飲料の方はビール5100ml、清酒3合、ウィスキー400mlが全てで、『役の小角(えんのおづぬ)』方面から早くも量目不足の声があがったが、これは聞き流して食材の方に見遣る。調達係の挾間がザックからうやうやしく取り出したるは、地鳥とウインナーの入った発泡スチロールの玉手箱。そしてこれをメインに、周りに野菜類や関門から持ち寄ったフグの干し物等を配し、清貧の趣を残しながらも山上では精一杯の宴であるぞな、と語調を少し荒げて自分に言い聞かせるは挾間なり。

 まだ、3時を少し回ったばかりなのに、もう出来上がりつつあるな。そしてまた一時の歓談、演説、主張を経て、白昼他に娯楽がないにせよ、こともあろうにテント前の路上(登山道)に空の缶ビールを天高く舞い上がらせ、「カラン、コロン」の音色を楽しむという大人げない遊びに興じたが、困ったものである(と表面上、繕ったりするジェスチャーも必要か?)。

 そしてその数は時の刻みに比例して、規則正しく増え続けついに12をかぞえるに至った。中にはその落下点が運悪く、クマザサに吸い込まれる場面もあり、当然この場合は調律師・矢野あたりが拾い上げて、再び放物線を描くという念の入れようであったから、周りの者からは相当なヒンシュクをかったであろうことは想像に難くない。(もちろん翌朝、“発つ鳥跡を濁さず”としたことは言うまでもないが)

 そして夕闇迫る6時過ぎには、既に挾間は宴席に座ったままで昏睡状態にあり、寝床をしつらえ、寝かしつける手間を足してもまだあまりにも早い宵ではあったが、こんな長い夜を経験するのもたまにはいいだろう。我々も心地よい疲労に誘われて、1800mの大地に重なった。しかしである、いやな予感が脳裏の片すみに残り、そして的中したのだ。0時を回ったあたりから、「オレ、喉が乾いた!」とか「もう目が覚めた。寝られん。ゆうべ飯食った?」とか騒々しく自我を主張するオジさん一人には閉口したねぇ。長い夜がますます長く感じられたもんね。

 さて場面は替わりぐっと真面目に翌9日、面河乗越から西ノ冠岳、二ノ森方面への縦走路に分け入った我々を待っていたのは、再びの静寂の世界であった。三連休のこの時期に、この縦走路を経て、下界の梅ケ市までに出会ったパーティは僅かに3、追い越したパーティ1の計4に過ぎない。もちろんボクは『これではあまりにも寂しいから、もっとこの山稜に入られたい!』と言いたいのではなく、むしろ逆である。面河乗越から西ノ冠岳、二ノ森を経て堂ケ森を踏み、標高1200m付近の雑木帯に入るまでの延々5時間もの間、ずっと見渡す限りクマザサの絨毯を鳥瞰しつつ、この胸中を貫く縦走路に身を置いた者でなければ、雄大なこの山嶺を語ることはできないだろうし、この情景を独り占めしたいという欲望を押さえることはできない。そしてまた、昨日石鎚本峰から眺めた西ノ冠岳や五代ケ森の頭のたおやかな容姿とは、まるで違って西側から見たそれは、意外にも荒々しく長大な北壁(稜)を視界に捕らえることができる。

        
 変化に富んだ、このコースの醍醐味たりうるところである。そして充分尾根歩きを堪能したところで、堂ケ森山頂直下の愛大小屋(今は朽ち果てて、土台が露出しうら寂しい。かって利用もし、愛着心と愛校心旺盛な挾間を嘆かせていた)に到達した。ハイピッチで踏破した山嶺を振り返りながら、ここいらで大休止として小屋(跡)の傍らに涌く水場で昼食のラーメンを作り、おそらく最後になるであろう雲上のまどろみを満喫した。残すところ登りは背後の堂ケ森のピークだけになり、後は下界を目指してひたすら下るのみなので、いっそうこの地のこの時間をいとおしみたいと、しおらしく挾間が宣う。しかしボクの見たところ、ただ単にお腹が減っていただけで、ゆっくり、たっぷりと昼飯を食いたいとの意思表示に見えたが、この風光明媚なロケーションの真っ只中で、それを聞くのはヤボというものだろう。

 こうして秋の長大な石鎚山塊に新たな足跡を残せたことに、自分自身大いに満足している。それぞれの思惑からスタートした今回の山行だったが、良きパートナーに恵まれて、石鎚の懐に抱かれ、その魅力と感動を共有できたものと思っている。これでようやく3度目の正直と相成った訳であるが、この愉しかり山旅の後には、必然的に厳冬期の石鎚に対する挾間のこだわり顔がだぶってくる。さて今年の冬はどうするか、である。この山行を契機に益々挾間の攻勢は強まりそうである。

 それはさておき下山後、『MTBで面河渓の登山口まで車を取りに行ったのは誰か?』の質問に答えなくてはなるまいが、それはコースタイムの項をご覧いただきたい。観光客であふれる面河渓の雑踏の中を赤シャツをはためかせ、自分の齢も考えず颯爽?と走りたがる、目立ちたがりやがいるものなのです。

(コースタイム)
10/7 大分(大分駅)20:40⇒(車)⇒佐賀関港21:30 22:00⇒(フェリー)⇒三崎港23:10⇒車・(内子〜久万経由)⇒面河村・梅ケ市(堂ケ森登山口)  MTBを置く1:05 10⇒(車)⇒面河村・そま野(飯場小屋)1:20(泊)
10/8 そま野6:45⇒(車)⇒面河登山口(国民宿舎・面河荘)7:10 26⇒下熊淵(面河尾根取付き)7:46 51⇒面河尾根上(石鎚・南尖峰を望む地点)9:14⇒愛大小屋(昼食)10:22 50⇒三の鎖下12:05 20⇒石鎚・弥山山頂12:30⇒天狗〜南尖峰を巡り再び弥山14:00⇒二の鎖元小屋下キャンプサイト14:15(泊)
10/9 キャンプサイト7:07⇒面河渓・二ノ森分岐7:27⇒シコクシラベの森の水場7:35 46⇒面河渓・二ノ森分岐7:55 57⇒西ノ冠岳8:30 35⇒ 二ノ森T峰(1929mピーク)10:00 10⇒五代ケ森の頭(1886mピーク)10:31 48⇒堂ケ森直下の愛大小屋(昼食)11:30 12:09⇒堂ケ森12:20 33⇒梅ケ市13:49 51⇒(by MTB 24k・栗秋)⇒面河登山口14:48 15:00⇒車(栗秋)⇒梅ケ市(3人合流) 15:35 55⇒(車)⇒古岩屋温泉入湯(国民宿舎・古岩屋荘)16:35 17:20⇒車・(久万〜内子経由)⇒八幡浜(小宴会)19:00 50⇒車・三崎港20:40 21:30⇒(フェリー)⇒佐賀関港22:40⇒車⇒大分(松ケ丘)23:30 
(注1)おゆぴにすと第6号(平成6年7月1日発行) P10 『厳冬期石鎚山への憧憬〜その2、天狗岳は更に遠  く〜』挾間渉記 参照
(注2) 同上 P18 『厳冬期石鎚山と嵯峨山温泉』矢野誠治記 参照                    (平成6年10月7〜9日)

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