主な山といで湯 ・・ 記 録 ・・2001.1 〜 2001.12(未定稿)

1月8日(月) 鳴り物入りでオープンした八幡・河内温泉を論評する!
 昨年11月21日に八幡東区は河内ダム湖畔に河内温泉・あじさいの湯がオープンしたが、早々は混雑していようとの懸念もあったし、世俗事にかまけてなかなか訪れることができなかった。北九州地区は温泉の真空地帯だと云われて久しく、その意味でも待ち望んだ湯なのだ。(本文参照)
参加者 栗秋、悦子(妻)

4月1日(日) 大山町初の温泉・梅の香温泉つどいの湯に浸る
 奥方、寿彦と三人で日田の若宮病院に母を見舞った。ベッドからは離れられぬが、言葉でのやりとりは十分できる。リハビリがうまくいって自分で早く歩けるようになると家へ連れて帰れる、と口癖のように父は宣う。もちろん「御意」であって、老夫婦の団欒(だんらん)が戻ることを願わずにはいられない(※1)。

 さて見舞った後に半端な時間が余ったので、父から聞き及んでいた大山町初の温泉である梅の香温泉・つどいの湯へ足を伸ばした。町役場の裏手、総合福祉保険センター内にあって2月は町民に限って無料で提供して、3月から有料で一般へも開放したばかり。新興温泉の栄誉は地下750mも掘った上で成り立つのだ。それでも泉温45℃(アルカリ性単純泉)を湧出させるところはなかなかエライではないか。町内にはもう一カ所、大久保の台(梅園)にも町営の温泉センターを作るべく工事中だと云う。町や住民の温泉に賭ける期待の大きさが伺い知れるところだが、個人的にはすぐ近くに杖立や天ケ瀬など由緒正しき高名高温自噴温泉があるのに、かなりの投資をして地球の深層まで穴ぼこを穿つには至らないとも思うし、大山町の選択が是か非かの論は別にしても、金科玉条のごとく温泉掘削が町の活性化に結び付くと考えるのはいかがなのか。一村一品運動の草分けでありユニークな発想と実践で町おこしをリードしてきた大山町だからこそ、むしろ金太郎飴みたいにこぞって温泉を掘り当て、ハコモノ行政のお先棒を担ぐような昨今の風潮とは一線を画して貰いたい、と縁(えにし)深き大山町ゆえの思いを吐露してしまうのだ。

 夕刻、たどり着いた玖珠では久しぶりに角埋山の麓に湧く三島温泉にも浸る。
(※1)4/8母の容体は急変し、悪化の一途を辿る。5/7AM.5:10逝去
参加者 栗秋、悦子(妻)、寿彦(長男)

4月15日(日) 下関の東行庵探索と菊川温泉・華陽
 幕末の志士、高杉晋作(1839-67)の菩提所、下関市吉田の東行庵は木造平屋約70uの草深き庵。1884年晋作の眠る清水山のふもとに伊藤博文や山縣有朋、井上馨らが浄財を募って建立。梅処尼となって晋作を弔いつづけていた愛人・うのに贈った。以来、うのは67才で没するまでこの地で瞑目の日々を送ったという。園内はこの時期 シャガ、チュ¬リップ、タンポポ、しだれ桜、八重桜などの花々が盛りで、藤棚の藤も花を伸ばし始めた頃合い。しかし全体的には園内のレイアウトは雑ぱくでまとまりがない。先頃NHKBS−2が放映した「心に残る日本の風景100選」では上位に入っていたが、きっと何らかの組織票が動いたと見るのが妥当であろう。

 さてこの地から6qほど北西方の菊川温泉にはかって奥方と二人で入ったことはあるが、今回は隣の建物に変わっており、菊川温泉・華陽(かよう)と申す。ゴージャスとはいえないが、以前と比べると銭湯っぽいイメージは少し払拭され、温泉センターとしての風情も加わってきた。泉質はナトリウム−炭酸水素塩・塩化物泉と厳しいが無色透明・無臭で若干の炭酸味有りの36.4℃といたっておとなしいのだ。
参加者 栗秋、悦子(妻)

8月10日〜12日(金〜日) 避暑地・くじゅう〜食う、飲む、浸るの三日間
 今年も元職場の上司、JR東海の小林氏が来分した。目的は避暑なので当然、くじゅうは星生倶楽部に逗留することになり、(この暑い時期だからこそ)渡りに舟と栗秋も加わった。昨夏は彼を囲んで旧大分鉄道管理局運転部のOBたちが集い、大宴会と相成ったが、今年はOBの佐々木兄と支配人の須股氏、それに須股氏の部下・ミカ嬢も業務命令?により加わって、よもやま話に花が咲いた。今夏は例年になく暑く下界の酷暑にうんざりしていたので、高原の涼風はまこと心地よい。夜半には隣接するくじゅう倶楽部(星生温泉)の露天風呂もをいただき、満天の星を友とした。

 翌11日、佐々木兄は下山して客人は小林氏と二人のみ。彼のリクエストに応えて黒川温泉郷に案内することとした。ところが瀬の本高原に下ったあたりから猛烈な雨となり、黒川温泉街では車から降りるのもままならないほど。(我が愛車・日和見ミニ号の電気系統トラブルも重なって......。まっことこやつは豪雨に弱い)そこで小降りになるのを待った上で、街中(の温泉)は取りやめ、この温泉郷から3qほど遡った山の中の一軒宿・山水月の露天に浸り、ようやく人心地ついたのだ。渓流沿いにしつらえた50人は入れるほどの大きな露天は自然の中にしっくりと溶け込んでいてなかなかの風情である。ただ本来清流である筈の沢はくだんの豪雨で濁流と化して趣は異なる。がしかしこれはこれで自然のおりなす現実のシーンであり、その意味ではなかなかワイルドな山の湯であった。さて二日目の夜宴(のメインディシュ)は豊後牛の霜降りを調達してのすき焼き三昧である。ゲストに須股氏の奥方・洋子ママを迎えてこれまた時の過ぎ去るのを忘れるが如く。酔った身体に星生温泉の温もりが心地よかった。
参加者 栗秋、運転部OB諸氏(小林、佐々木、須股)

8月18〜19日(土〜日) 正寿のフォレイカー登頂報告の夕べ IN 星生倶楽部
 今春アラスカ・フォレイカー峰を単独登頂した正寿の登頂報告会を避暑地、九重の星生倶楽部でやろうということになった。例によって夕食(及び大宴会)は涼風爽やかな戸外のバーベキューガーデンで行い、その勢い?をもって部屋に戻りスライド映写&報告会を目論むもので、いつものように食材や調理・宴会備品類の調達からスライド映写機の手配まで、まさにおんぶにだっこで挾間に負うた。ところがである。夕宴の方は海の幸・山の幸豊富で、かつ中島夫妻差し入れの猪鍋も加わり、旬の食材の威力と自然の中のシチュエーシヨンパワーに感じ入るひとときを過ごしたのだが、スライド会の段になって映写機搬入を失念したことが判明。(挾間を)責めるには及ばぬが、何とか所期の計画どおりまっとうできないか、代替機探しに奔走した結果、中島さんのつてで飯田高原の試験所に勤める友人の映写機を借り受けた。しかし人生?はままならぬ。機材は確保できたものの、スイッチオンしても稼働せず(ヒューズ切れか)万事休す。とまぁ悲観するにあらずか、正寿講師のリアリティに満ちた口述説明といくらかの写真を回覧しながら、山旅の臨場感はそれなりに味わうことができたのでヨシとしよう。

 さて正寿と九重まで来て山歩きこそ出来なかったが、高原の爽やかな風に包まれて10qほどのエクササイズランは稼げたし、内湯(星生倶楽部)はもちろんくじゅう倶楽部の露天にも足を伸ばして、この地の自然の恵みをキッチリと享受したことも記しておきたい。
参加者 栗秋、章一郎(父)、正寿(甥)、挾間、高瀬、中島夫妻、ラブ(愛犬)

10月13日(土) みちのく作並温泉と秋の彩りを愛でつつ周辺の山野を駆けるの巻
 何故、唐突にみちのくの温泉地なのか?となれば、宮城秋季国体での輸送交通部門の視察を(大分県国体準備事務局から)仰せつかった出張で、宮城県から割り当てられた宿がこの辺境の地・作並温泉であった。そこでどっぷりと山峡のいで湯に浸り、はたまた早朝のひとときを活用して周辺の山道を駆け巡った。(本文参照)
参加者 栗秋
(奥新川峡へのラン、コースタイム)
宿(地方職員共済組合宮城県保養所・作並荘)5:30⇒林道入口5:40⇒峠5:55⇒河原(芋煮会場)6:10⇒奥新川駅6:18 22⇒(往路を引き返す)⇒宿7:00  走行距離 約13q

10月20〜21日(土〜日) 久住山〜中岳〜硫黄の湯、九重・秋色の時を刻む
 運輸部登山隊の定例山行を九重でと目論んだが、遠征決行日の一週間前にようやくお披露目が出来た体たらくでは、やんごとなき雑用に追いまくられている会員諸兄の参加は疑わしい。事実、Okサインを寄こしてきたのは門司時代の名(迷?)パートナー・金子兄のみとあってはいささか淋しいではないか。ならば山(の実力)は未知だが、宴会時のエンターテナーとしての実力を見込んで、芦刈氏の同行を願った。彼には大分から九重までの輸送班長(運転手指名&車両提供)も兼任してもらわなければならない事情もあったが、これで星生倶楽部をベースに、一泊二日の九重物見遊山遠征隊の陣容が定まったのだ。おっともう一人、賄い兼宴会接待係として荒金嬢を呼んでおけば万全だ。但し、彼女はいつものように夕方宴会前の合流である。もちろん久しぶりの山歩きで疲れた足腰は、例によって内湯(星生倶楽部)とくじゅう倶楽部の露天の二か所でキッチリと癒したことは言うまでもない。(本文参照)
参加者 栗秋、荒金、他2名(金子、芦刈)
(コースタイム)
10/20 大分⇒車(湯平温泉経由)⇒牧の戸峠 10:40 50⇒久住山 12:20 55⇒天狗ケ城13:16 20⇒中岳13:30 35⇒白口・稲星分岐13:45⇒久住分かれ14:05⇒すがもり越14:45 50⇒硫黄の湯15:01 43⇒長者原(星生倶楽部)16:45
10/21 長者原(星生倶楽部)10:35⇒車⇒大分11:47

11月23〜24日(金〜土) 晩秋の九重には寄せ鍋が似合うの巻
 盆以来、世俗事にかまけて日田へはとんとご無沙汰しているし、一人住まいの父からの電話のトーンは「たまには帰って来い」とも受け取れる。それなら久方ぶりに帰省も厭わぬが、田舎でじっとしているのも性に合わぬので、挾間と打ち合わせの上、晩秋の九重は星生倶楽部で非日常に浸ろうということになった。もちろん父を誘ってのことだが、食材・料理・賄いは挾間夫婦に頼み込んでの一泊行なので、栗秋はラクチンかつ温泉三昧の孝行旅である。さて高原は既に紅葉の盛りは終え、セピア色と化していたが、雲一つない快晴の下では、冬枯れを目前に控え侘しげな風景の筈が、陽光に映えてまっこと暖かく、まだまだ衰えるには早い印象さえ抱く。

 で夕刻に食材運搬班(挾間夫婦)と合流し、メインディッシュの寄せ鍋準備に勤しむ。カニ、エビ、カキ、つくねなどの海の幸実力武闘派?が、シュンギク、シイタケ、エノキ、トーフなどの陸上系個性派集団と絡み合い、芳潤な薫りを醸成して我々を迎える。一方、暮れなずむ窓外に目を転じると澄んだ視界の中央に硫黄山の噴煙がまっすぐ立ち昇り、平和でたおやかな九重を演出しているのだ。そして父はすっかりこの光景に魅了され、しばし感嘆の表情で眺め入っていたが、まさに非日常を感じ取って貰えたなら誘った甲斐があろうというもの。そしてよろず調達、雑用等々を一手に引き受けた挾間夫婦の労力に謝々。
参加者 栗秋、章一郎(父)、挾間夫妻

12月30〜31日(日〜月) 年末は厳冬の九重で温泉三昧の忘年会開催!
 年末もいよいよ押し迫った30日、日田に集まった姉と姪も含めた日田年越し組で忘年会をやろうということになった。もちろんシチュエーシヨンは山のいで湯であらねばならず、真冬の九重は星生倶楽部が最適であろう。加えて母の急逝など激動のこの一年を忍んだ父への慰労会的色彩もにじませたので、日頃になく和彦も積極的に賄い方面に参入したのは言うまでもない。でさすがに標高1000mの凍てつく高原だけのことはあった。やまなみハイウェイは除雪されていたものの側道に入ると氷雪に恐る恐るの体。宿の周りも20〜30pの積雪とあって、まさにこの地は厳冬真っ只中であったが、しんしんと冷える雪景色の中でこそ山のいで湯の有り難さが分かるんであって、湯上がりのほてった身体を一級の寒気にさらすことが何よりの贅沢なのだ。しかし父・姉には(気づくことは)求めまい。激動の2001年も締めくくりはのんびりと湯浴み三昧で過ごして貰えばそれでよしとしたい。
参加者 栗秋、章一郎(父)、坂東母子(妙子&愛)、ラブ(愛犬)

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