第三十九回
『和久 岩男 鎮魂の賦
その7
』
最終章
平成16年5月27日、広瀬中佐の百年忌祭が、広瀬神社で行われた。
蛇足ながら、日露戦争における旅順港閉塞作戦で、部下を捜し回り砲弾に吹き飛ばされた広瀬武夫を祀る神社であり、福井丸のマストと記念館がある。
知事や作家の阿川弘之氏も出席された。
昭和20年まで海軍記念日であったこの日には、毎年、例大祭が催され、和久先生は広瀬神社を訪れていた。文武両道に秀でた広瀬中佐への尊敬を、単に海軍というだけで語ることはできない。
また、明るく爽やかな声飛び交う総合運動公園で大会会場を見て回りながら、時に、すぐ上にある広瀬中佐の生家を見上げ、何か肯いておられた。
「知識を積んで知性を磨け、品位が付いて来な何にもならん、勉強をせよ、
でしゃばっちゃいかんが物言う勇気を忘れるな、弱いもん下のもんに気を配れ、行かないかん時は一途に行け、回りのもんを皆大切にしよ!
ジャッジは厳しくというのは己に対してじゃ、選手ほどの努力もせんじょいてからいい加減な判断をするんじゃない、謙虚でなけりゃ信頼されるか!」
昭和 21年、佐世保でアメリカ海兵から教えてもらったソフトボール
31年、ふるさと佐伯でソフトボール協会設立
41年、一般のチームなどなかった大分国体で男女総合優勝
48年、西田病院女子ソフトボール部結成、4年後全国優勝を果たした
その後も大分県ソフトボールの歴史に、厳しい姿勢を貫きながら普及と指導に務めてきた。
文部大臣から体育功労者に選ばれたのは、平成10年だったか、当時先生はこう仰られた。
「一番迷惑をかけた家族に感謝しています」
保護司を永年続けてこられ近年保護司会会長を務めていたが、数年前、法務大臣から藍綬褒章をいただいた。
竹田で、記念祝賀会をさせてもらったが、40年前のインターハイ選手たちも参加してくれた。この半世紀の思いが、先生を余計に泣き虫にした夜だった。
尽きぬ思いが次々あるが、いつまでも思い出に浸っている訳にもいかんだろうし、先生も喜ばれまい、うん?いやあ、怒られるか!
県下には先生の指導を受け継いだ審判員たちが、数多く育っています。
来年の国体も、その先のインターハイも、きちんとやってくれるでしょう。
えっ?結果ですか?その内、私がまたお邪魔しますよ。
終わり