(1)自然
〇 本地区は、大野川が別府湾に流出する場所に沖積地として形成された三角州で、(南北3q、東西q、面積3.5平方q)本流と乙津川に挟まれたその形は楽器の琵琶に似ていることから一名「琵琶洲」とも呼ばれている。(別の藤島、須賀在などの名もある。)
〇 土地は平坦で、周囲を堤防で囲っており、昔から度々洪水に見舞われたりしたため家屋等輪中の様 相を呈している所が現在でも点在している。
(2) 歴史
〇 高田という地名は、国府時代「豊後国志」の中に高田郷と記されており、豊後風土記には高田荘とも記されている。
〇 大友時代、キリスト教の布教に帰依するものが多かった。豊臣時代、高田郷は熊本の加藤氏の所領となった。この時期  キリスト教弾圧の厳しい措置に対しても改宗する者がなかったもようである。
〇 加藤氏に代わった細川氏(2世)は懐柔の策として名僧を派遣したり、産土神を祀ることを奨励して改宗をはかった。
*本校区に5寺を数える寺がある所以もこのあたりにある。
〇 江戸時代は、細川侯の参勤交代の通路として、また鶴崎港より海路の出発地として、一行の宿場になったりしたとも言わ  れている。
〇 大友時代に植種された西洋思想(窮理の思想)と細川時代の教育の施策による進取の気風、加えて厳しい自然を相手にしての生活から生まれた勤勉、努力の心が、後世多くの偉人や学究の徒を、また多くの商工業での実力者を生み出した所以であるとも言われている。
(3) 産業
〇 江戸時代以降、職業は概ね耕作をもって生計を営むといえど、男子は商工に従事する者や、また一方古来よりの鍛冶職に従事する者もあり、特に鍛冶職ではその道に巧みなる名工を出している。大正時代には養蚕や畜産も盛んである。
〇 昭和28〜30年、 昭和井路が完成してない時代は、肥沃な土地ではあるが、水がないため水田がなく産物は「野菜」と「麦」が中心であったようで、特にごぼうはその味と品質が優れており「高田ごぼう」としてもてはやされた。
〇本校区の人々の進取性は、現在の農家においてもそれが発揮され、昭和51年農業構造改善事業に 最初に着手、本地の特性を生かしてのビニールハウスやガラスハウス栽培を行い、更に現在、先端的な水耕栽培等が行われ、農事が企業 生産方式のスタイルになり、その産物は、遠く関東・関西・日本中に出荷されている状態である。
                           (資料 高田邨志 学校百年聞き取りより)

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<校 歌>

高田小学校第二校歌

一 流れ豊かな 大野川
   緑かがやく 琵琶の州
   光の園に つつまれて
        心と体を 鍛え合う
        我等が高田小学校

二 歴史はきざむ 壱百年
   栄えある学舎 誇るべし
   先人の遺業 しのびつつ
        心と体を みがき合う
        我等が高田小学校  高田小学校第一校歌
一 大野の流れ 東西に
   ゆるくめぐりて びわ州の
   頸南広く 地味肥ゆる
   ここぞ楽しき わが郷土
二 歴史に古き 荘の名を
   永く伝えて 醇朴の
   美風は世々に 俗をなし
   偉人傑士のい出でし 地や
三 明倫校の 昔より
   光栄著き 我学舎
   協同質素 規律よき
   同窓 四百有余人
四 吾等は栄ある 父母の裔
   やがては村を 立て行く身
   やがては国を 承けつぐ身
   磨き修めん 智に徳に
五 勉め励めや 世に立ちて
   国家に尽くす 心身を
   養い鍛え 諸共に
   高く高田の 名をあげん

<学校の沿革>


<児童数の変遷>

年度 明治16 大正5 昭和2 昭和40 平成1 平成5 平成10 平成15 平成20 平成21 平成22 平成23
児童数 254 414 464 248 421 500 517 409 385 393 383 392

<校区紹介>



































<校区地図>



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