耶馬溪町から玖珠方面に行く途中にあった学校です。平成三十年三月三十一日に閉校しました。最後の卒業生が二名。校区に子どもがいなくなるまで学校がありました。中津市は凄いです。一時期耶馬溪町でも多くの児童がいたのに。
下毛郡本耶馬溪町大字山移3318
作詞 原 常雄 作曲 真浄 一雄
1 深耶馬の谷間から したたる水の清らかに
流れてひびく川ぞいに 明るく建った学びやは
山移校わが母校
2 みんな仲よく手をつなぎ はげまし合って学びゆく
いつも楽しい夢をもつ 平和にみちた学びやは
山移校わが母校
3 心をみがき身をきたえ 誰にもまけずおくれじと
足どり高くすすみゆく 希望にもゆる学びやは
山移校わが母校
4 空にきれいな虹がたつ 友よ大きく胸をはり
声高らかに歌おうよ 光あふるる学びやは
山移校わが母校
自ら勉強する子ども
礼儀正しい子ども
平和を愛し思いやりのある子ども
決まりを守り進んで実行する子ども
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144年は、長いですね。 | ![]() |
教室棟が、耐震に耐えなかったので最後はプレハブ校舎でした。 |
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閉校記念碑です。シンプルに感謝という言葉良いですね。 | ![]() |
特別教室棟は、残っていました。 |
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体育館は、新しいです。まだまだ地区のために役立つでしょう。 | ![]() |
100周年記念碑です。こちらもシンプルに作っています。 |
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平成31年に行きました。プレハブ校舎は片付けられていました。 | ![]() |
門柱は、しっかりあるのに児童がいないのは寂しいです。 |
(耶馬溪町史より)
明治7年 6月17日 山移村正副3761番地に設置 学校名不詳50名あまり
明治7年~12年 村共有獄倉を仮校とする
明治12年 4月 上記校舎狭隘にして山移村宮添3318番地西幾三氏所有地を借うけ村内寄付により経費百円にて校舎一棟新築
明治23年12月16日教育に関する勅語を拝蔵する
(校舎村有地になる)
明治25年 山移尋常小学校と称する
明治35年 義務教育制定児童数増により改築着手 明治36年校舎二棟竣工 建坪98坪二合五勺
毎時41年11月16日戊申詔書拝蔵
明治43年 高等科併置一棟増築
4月 山移尋常小学校柿坂高等小学校組合分離に際し校旗を譲り受け校旗とする
大正12年12月 8日国民精神作興に関する詔勅拝蔵
昭和 3年 御大典記念事業として現校舎に改築6月起工
昭和 4年 8月 竣工 経費二万円
昭和 7年 2月15日教育の任にある者に関する詔書拝蔵
昭和 8年 7月14日国際連盟脱退に関する詔書拝蔵
昭和 9年11月 1日小学校教員精神作興に関し賜わりたる勅語を拝載する
昭和14年 8月19日青少年学徒に賜わりたる勅語拝載
昭和15年 体位向上の意図の下に校医矢野七二郎氏の寄付により12月1日相撲場設置
昭和16年 4月 1日国民学校令により山移国民学校になる
昭和16年 6月 校旗設置
昭和20年 9月 山移村立山移小学校
昭和21年11月15日勅語謄本類を返納する
昭和23年 9月 給食場竣工
昭和24年 8月 蟻害個処修理を村民大会にて議決する。9月末までに本館棟葺替え及び蟻害箇所の修理をなす
10月 音楽教室一棟建築
昭和26年 4月 1日村合併。中耶馬溪村立山移小学校となる
昭和27年 5月 8日旧青年学校教室を改築し講堂を建てる。
昭和28年 9月 1日旧校舎一部老朽化のために使用不可となる それにより二階建て四教室増築
昭和30年 3月 旧校舎解体 炊事場物置を建てる
8月 本校舎(昭和4年竣工のもの)二階旧奉安殿跡及び板塀を手ズル壁に修築竣工
昭和32年 5月 堆肥舎を改築職員便所建つ
昭和38年 9月 新館南に一教室増築
昭和39年10月 新館に便所増築
昭和40年 4月 1日町制実施 耶馬溪町立山移小学校となる
昭和41年 4月26日鉄筋校舎新築落成式
昭和43年 3月 校歌制定
昭和45年 8月28日学習池完成 前庭増築
昭和47年 1月22日体育館及び体育館落成式
昭和47年10月 1日校旗副校旗二本備える
昭和48年 7月10日プール完成
閉校誌
明治 4年 廃藩置県・下毛郡は小倉県となる 文部省が設置される
明治 5年 8月 2日 学制発布 日本最初の近代的学校制度で学区毎に各一校を設置し国民皆学を目指した
明治 7年 6月17日 山移小学校創立(山移村大字正福3761番地)村有郷倉を仮校とする
明治 9年 府県廃合 小倉県を廃止し一時福岡県となった後大分県に編入
明治10年 西南戦争勃発 西郷隆盛を盟主に士族がおこした武力反乱で国内最後の内戦 政府軍が勝利
明治11年 7月22日 郡区町村編制法制定 大区小区制を廃止し旧来の郡町村制に戻し各村に戸長を置く
明治12年 4月 1日 現在地に移転(山移村大字みやぞえ318番地)し敷地133坪に校舎一棟を新築する(経費百円)
9月29日 教育令公布 学制の中央集権的・画一性を改め委ね地方の自由に任せた
明治19年 小学校令公布 小学校を尋常科(4年)と高等科(2年)の2段階にする
明治22年 1月 大日本帝国憲法公布・徴兵令・国民の兵役義務を定める
4月 1日 町村制施行により城井村・津民村・山移村・柿山村・下郷村が発足
明治23年10月30日 教育勅語発布 教育方針を示す明治天皇の勅語 大日本帝国の修身・道徳教育の規範
明治25年 山移尋常小学校と称す
明治27年 日清戦争勃発(~明治28年) 朝鮮半島をめぐる大日本帝国と大清国の戦争
明治36年 4月 1日 学校改築 敷地拡張237坪 校舎2棟
明治40年 3月21日 尋常科を6年、高等科を2年とする
明治43年 4月 山移尋常高等小学校と改称する 同時に柿坂高小組合分離に際し同校旗を譲り受け本校の旗とする
大正 元年 7月30日 大正天皇崩御 元号を大正に改元
大正 3年 第一次世界大戦勃発~7年
大正12年 3月31日 地元馬場出身が訓導兼校長に就任(~大正14年3月31日)
9月 1日 関東大震災 190万人が被災10万5000人あまりが死亡または行方不明
昭和 元年 7月30日 大正天皇崩御 元号を昭和に改元
昭和 3年 御大典記念事業として旧木造校舎に改築(4年8月着工)
昭和15年12月 1日 校医の寄付により相撲場を設置(経費1千円也)
昭和16年 4月 1日 国民学校令公布 尋常小学校は国民学校初等科 高等小学校は国民学校高等科へ
6月 志那事変従軍中の陸軍准尉(山移村の弦出身)の寄付により校旗設置(価格135円也)
12月 8日 太平洋戦争勃発
昭和20年 8月15日 太平洋戦争終戦
昭和22年 3月 教育基本法・学校教育法公布
4月 学制改革 六・三制の実施により国民学校初等科は小学校、高等科は新制中学校に改組
5月 3日 日本国憲法施行
昭和23年 9月 給食場竣工
昭和24年 3月31日 地元持田出身校長就任(~昭和26年3月31日)音楽教室1棟の葺き替えをなす
昭和25年 6月25日 朝鮮戦争勃発 警察予備隊発足(自衛隊の前身)耶馬日田英彦山国定公園指定
昭和26年 4月 1日 津民村・山移村・下郷村が合併し、中耶馬溪村が発足 名称を中耶馬溪村立山移小学校と改称
昭和27年12月 4日 学校増築(4教室)旧青年学校教室を改築して講堂建築
昭和28年 耶馬溪村(城井村)を中耶馬溪村に編入し耶馬溪村となる名称を耶馬溪村立山移小学校と改称
昭和29年 3月31日 深耶馬溪村を編入し旧五か村合併の耶馬溪村となる 二階建て4教室を増築
昭和38年 4月 1日 旧校舎解体 学校増築(1教室と便所)及び二階壁等を修築
昭和39年 2月20日 粉乳給食開始 東京オリンピック開催
昭和40年 町制施行により耶馬溪村を耶馬溪町とする 名称を耶馬溪町立山移小学校と改称する 町制施行記念式典挙行 耶馬溪中学校落成 県立耶馬溪高校独立 深耶馬溪中学校落成
昭和41年 4月26日 鉄筋二階建校舎新築落成 第1回町民慰安の夕べ開催
昭和43年 3月25日 現行校歌制定 前庭造園 豪雪被害
昭和44年 アポロ11号月面着陸
昭和46年 耶鉄廃止(野路~守実間)
昭和47年 1月22日 体育館新築落成
札幌オリンピック開催・特別養護老人ホームやすらぎ荘開設
昭和48年 7月10日 プール完成
昭和49年 3月23日 清流の碑落成(創立100周年記念行事)
昭和51年10月 1日 運動場拡張
昭和57年 2月27日 特別教室4教室増築落成
昭和60年 耶馬溪ダム竣工(着工昭和54年)
平成 元年 1月 8日 昭和天皇崩御 元号を平静に改元 消費税3%施工
平成 4年 9月28日 体育倉庫改築
平成11年 3月 1日 本館屋根改修 防水漏水防止工事
平成12年 3月 1日 プール塗装
平成13年 2月 パリナ工場撤去及び駐車場造成 体育倉庫(テント用)をPTAで建設
平成15年 深耶馬溪小学校と統合 トイレ全面改修
平成17年 3月 1日 耶馬溪町が中津市に編入される 名称を中津市立山移小学校に改称
平成18年 4月 1日 地元馬場出身の校長就任(~平成19年11月13日)
平成22年 8月 プレハブ校舎建築(旧校舎の耐震性付加)
平成25年 鉄筋コンクリート校舎解体
平成28年 5月16日 中津市教育委員会が校区に閉校の方針を示す
11月 4日 閉校式実行委員会設立総会
平成29年 6月30日 歴代校歌を歌う会開催
平成30年 3月25日 山移小学校閉校式挙行
3月31日 山移小学校閉校