槻木地区にあった中学校です。一小一中なので同じ敷地にあると思っていました。実際は、少し離れてあります。新制中学校として新しく建設されたのでしょう。毛矢村分校と小学校の間にあります。全体のことを考えて場所を決めていたのだと思います。1992年山国中学校と統合のために閉校。
作詞作曲 上原 弘毅
1 紫匂う山なみに 遠くつらなる英彦山
若い希望の嶺はるか 呼べよ明けゆく
わが朝を
2 水上清くま澄む水 光り輝く川波と
深く真理のかげをとめ 映えよすがしく
わが胸に
3 静かにうかぶ白い雲 槻木しげる山あいに
あおぐ豊かな広い空 晴れよ明るく
わがゆくて
・希望 ・真理 ・純真
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講堂だけが残っていました。 | ![]() |
入り口には生徒手作りの地図がありました |
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何かの記念のものだと思われるものが残っていました。 | ![]() |
気象予報に使うものがありました |
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平成28年に行きました。講堂の扉は閉ざされていました。 | ![]() |
講堂の隣の建物も残っています。電気は、切られています。学校もものでしょうか? |
(山国町史より)
昭和22年 4月 槻木中学校は、槻木小学校内に併設する形で創立
昭和23年 4月 現在地(小原井水口1255番地)球鯛生金山溝部鉱業所を改修し開校する。
昭和25年 3月 外便所設置
昭和26年 4月 合併により山国村立槻木中学校になる。
昭和26年10月 公民館を改築し技術教室にする。
昭和27年 5月 職員室一部改造し放送施設整備
昭和28年 8月 自記雨量計等の観測用具設備設置(建設省中津工事事務所)
昭和31年10月 減税位置で新校舎地鎮祭
昭和32年 7月 新校舎落成 校歌制定
昭和32年10月 ピアノ開き
昭和33年 4月 町制施行 山国町立槻木中学となる
昭和34年 8月 校区民奉仕作業による運動場埋め立て排水工事
昭和36年 2月 自転車置き場建築
昭和37年 4月 3学級 129名 職員6名
昭和37年 9月 運動場拡張工事
昭和38年 9月 校旗制定 教材備品室増設
昭和38年10月 テレビジョンの架設
昭和40年10月 音楽室、家庭科室増築
昭和42年 2月 体育館落成
昭和43年 2月 完全給食開始
昭和47年 8月 校舎内部塗り替え 技術室内部改装 自転車置き場を自動車置き場に改造
昭和48年 8月 体育館裏に自転車置き場新設
昭和49年 4月 3学級 49名 職員7名
平成 4年 3月 閉校
山国町教育百年
昭和22年 4月 下毛郡槻木村立槻木中学校を槻木小学校内に併設し開校 2学級生徒41名職員4名
昭和23年 4月 現位置(小原井水口1255番地)に旧鯛生金山溝部鉱業所改修し開校
昭和25年 3月 便所新設
昭和26年 4月 村名改称(三郷、溝部、槻木三村合併)により山国村立槻木中学校と改称
10月 公民館を改築特別教室(技術室)として使用
昭和27年 5月 放送施設整備され職員室一部改造
昭和28年 8月 建設省中津工事事務所により自記雨量計等の観測用具設置
昭和31年10月 現位置に新校舎地鎮祭
昭和32年 2月 新校舎落成 校歌制定(作成者 山国村草本本教順寺住職上原弘毅氏)
7月 農具庫、体育室の建設
10月 ピアノ開き(寄贈)
昭和33年 4月 町制施行により山国町立溝部中学校と改称 文部省指定産業教育研究校(2ケ年)
昭和34年 2月 文部省指定産業教育中間研究発表会
8月 校区民奉仕作業による運動場埋め立て排水工事
12月 文部省指定産業教育研究成果発表会
昭和36年 2月 自転車置き場の建設 昭和34年度学校管理下において無災害の好成績をおさめたかどにより学校安全優良校として県教育長より表彰を受ける
昭和37年 4月 生徒数の漸増により3学級生徒129名職員6名
9月 運動場拡張工事
昭和38年 9月 校旗制定(寄贈校区民と同窓生一同) 教材備品室の増設
10月 テレビジョンの架設
昭和40年 2月 校区民の寄付による図書充実(16万円)
10月 特別教室二教室(音楽室・家庭科室)の増築
昭和42年 2月 体育館落成 屋内スポーツに利用
昭和43年 2月 図書の拡充(地区民の寄付)完全給食の開始
昭和47年 8月 校舎内部の塗り替え及び技術室内部改装 自転車置き場を自動車置き場に改造
昭和48年 6月 学習指導の現代化のため、OHP(3)VTRの設置
8月 体育館裏に自転車置き場新設
昭和49年 4月 生徒数の漸減により3学級生徒数49名職員7名
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