野津町立戸上小(中)学校
野津町の犬飼よりにあった小学校です。昔同じ敷地内に中学校もありました。昔この地区は、犬飼に行くか野津に行くかでもめたようです。平成21年閉校となり野津小学校に吸収されました。中学校は、野津中学校が統合される時に閉校になりました。
大野郡野津町大字西寒田3452

校歌
小学校
作詞 後藤 栄   作曲 後藤 初男     
1 若草もえる戸上の 里に朝の陽がさして
  明るい光のまなびやの 流れ清らな野津川が
  希望の歌をのせて来る ああ戸上の小学校

2 小鳥来て鳴く戸上の 丘の若木が伸びるように
  ちえを磨いて伸びて行こう 雨にも風にもたゆみなく
  丈夫な体をきたえよう ああ戸上の小学校

3 みのり豊かな戸上の 鳥嶽の空の青い雲
  仰ぎて日々を育ち行く 父母の心を受けついで
  夢をえがいて育ち行く ああ戸上の小学校

中学校
作詞 後藤 栄    作曲 後藤 初男     
1 朝日直射す西寒田 学びの園にはらからが
  スクラム組めば友情の 若き生命は燃ゆるかな
  あゝ戸上戸上中学校 

2 水清らなる戸上の 烏嶽の嶺の雄々しさは
  自主独立の夢に似て 若き生命を招くかな
  あゝ戸上戸上中学校

3 うましき山河古里の 父母の歴史に惜やみなき
  直利の泉今日も汲み 若き生命をためすかな
  あゝ戸上戸上中学校 

校訓は、不明です。

   校門の門柱は、昔ながらの石柱です。    体育館とプールが並んでいます。この奥に中学校があったそうです。
   運動場も、よく整備されていました。    校舎は、二階建てで南向きです。表と裏で印象が違います。
   二宮金次郎像がありました。    百周年記念碑です。
   閉校記念碑です。こちらの方が地味ですね。    運動場の端に遊具がありました。
   令和4年に行きました。消防団の倉庫が建っていました。    運動場の綺麗さに驚きました。


沿革史(野津町史より)
小学校
明治 7年  御霊園(西寒田)藤小野、千塚(鳥嶽千塚両村)久原(久原村)の各学校が創立
明治11年  藤小野学校を千塚学校に御霊園学校に合併
明治20年  学制、教則改正に依り四ヶ村一学区と成り西寒田尋常小学校と称する(名称は西寒田簡易学校)
明治22年  校区外大寒、柚ノ木の二ヶ村を併せ戸上村と改称し、学校名は依然として改められず。
明治25年  戸野上村を一学区とし戸上尋常小学校と改称し第一分教場(木所)第二分教場(大寒、柚ノ木)を設置し民家校舎を改築す
明治37年  新校舎落成
明治40年  第二分教場落成、通山分教場と改称 本校並びに分教場の新築落成式を執行し本日をもって本校の創立記念日とする
明治42年  戸上尋常小学校と改称す
明治43年  通山分教場を廃止、本校に合併、農業補習校を付設する
大正 6年  校舎増築、運動場拡張
大正15年  青年訓練所設置
昭和 2年  小学校校舎増築(三教室、付属便所)
昭和 4年  五心園奉安殿建設
昭和 8年  第一校舎の大改築
昭和 9年  運動場の拡張及び第三校舎の新築
昭和11年  亀井澄三氏に寄贈により二宮尊徳銅像を建設
昭和16年  犬飼長谷、戸上の三か村組合立青年学校の新設により本国民学校より分離す 昭和28年  町村合併により三月より野津町立戸上小学校と改称し七学級        編成となる
昭和33年  渡廊下の移転改築と便所の新築
昭和34年  町役場支所廃止に伴い公民館を学校管理とすることとなる
昭和35年  新築、宿直室の完成

中学校
昭和22年  新学制により戸上村立戸上中学校として小学校に併置する
昭和23年  現校舎落成移転
昭和25年  犬飼町立犬飼中学校と併任校長の発令となる
昭和26年  単独校長の発令となる
昭和30年  町村合併に依り犬飼町立戸上中学校となる
昭和32年  町村分離合併に依り旧戸上村の十四部落、犬飼より分離し野津町立戸上中学校と改称する
昭和35年  小学校と併用の体育倉庫新築

100周年誌
明治 5年 8月 2日 学制が交付される
明治 7年         西寒田村に御霊園学校、藤小野学校、鳥嶽千塚の両村に組合立千塚学校、久原村に久原学校の四校が創立される
明治11年        藤小野学校を廃して千塚学校に合併する
明治15年        久原学校は御霊園学校に合併する
明治19年        小学校令により尋常小学校(4年)高等小学校(4年)とし尋常小学校を義務制にした
明治20年        西寒田村、藤小野村、鳥嶽村、千塚村、久原村の五ケ村を一学区とし西寒田尋常小学校となる 更に西寒田簡易学校と改称する
明治21年        通学の便利を図り鳥嶽字木所に一教場を置く
明治25年        戸上全村を一学区として戸上尋常小学校を発足する 木所の教場を第1分教場、大寒、柚の木簡易学校を第2分教場とする第2分教場の校舎を建築
明治33年        小学校令改正と共に設備準則が発布されたので自然校舎の改築の必要に迫られたが村の経済は之を許さなかった しかし、時勢の進運に伴い就学児童の頓に増加し校舎は狭隘を来たし、応急の策として付近の民家を二戸借りて運営する そして、ようやく新築の決議をし直に敷地3反歩を購入する しかし村内経費の額が莫大なので反対者も多く建築に着手することができなかった
       10月     県教育資金より1500円借り受ける
明治36年 6月     校舎建築の起工をする
明治37年 3月     校舎落成する その設計は設備準則な拠り一つも間然する所がなかった
明治40年 3月     第2分教場も落成し名称も戸上尋常小学校通山分教場と改める
明治41年 4月     義務教育の年限が六ヶ年に延長され第5学年を加設する
明治42年 4月     第6学年を加設する そしてそれまで野津にあった四ヶ村組合立高等小学校を解き高等科を併置して、戸上高等小学校と改称する
明治43年 4月30日 通山分教場を廃し本校に合併する
        6月10日 農業補修学校を付設し12月より始業をする 学科目は修身、国語、算数、農業の四科とする 
大正 6年        戸上青年訓練所を設置する
昭和 2年10月     小学校校舎を増築、三教室(五間、十五間)土間廊下(十五間)便所 一 経費 村費繰り入れ 7200円 二 臼杵市の者が落札 工期百日間で契約する
昭和 3年 8月30日 御真影奉安殿建設 御大典記念事業として青年団が村有林の手入れ奉仕の益金834円の浄金を寄付して建てられた
昭和 8年 9月11日 第一校舎は明治37年の建築にして爾来年月を重ねること30年腐朽甚しく、また児童数の増加等の事情により8・7・15村会は校舎増築の決議をし第一校舎の大改修、第三校舎の増築をする
昭和 9年 5月20日 明神社氏子一同の厚意により神幸地を運動場として無料提供(但し祭典は神幸地として使用)し運動場の拡張をする
昭和11年 1月     二宮尊徳像建設 黒板寄贈
昭和12年        この頃の本校の努力点を挙げてみると一、一般方面 教育の郷土化、実際化の重視 二、教授方面 自主態度の確立とノート指導 三、訓練方面 ・神社寺院墓地参拝並びに掃除の徹底 ・当番任務の遂行の徹底的訓練 ・学級・掃除、学校園、養鶏、養兎、養豚、農場、販売等において ・礼儀作法の実践(特に敬語使用) ・公徳心の涵養 ・団体訓練の徹底 
昭和13年 3月     実習地の開墾をする 開墾地作業に着手して一週間にして完成する 作業に従事した者は、小学校児童、青年学校生徒青年団員、父兄等であった 奉安殿の庭園できる
       10月17日  通山分教場新築落成
昭和14年10月     土俵場落成 校費100円
昭和16年 2月     国民学校制により戸上国民学校となる 国民学校設備充実のため村民に寄付を呼びかける 極めて好感裡に6500円多額の寄付が集まり直ちに備品の購入をする
昭和16年 4月     併設の青年学校を分離する 1本校教育経営の実践 低学年部 国民学校制による新教科書を中心に研究 中学年部 小学校旧教科書に国民学校教育を生かす研究 高学年部 実業科経営の研究 2戦時下国策への協力 ・貯蓄、増産、廃品蒐集、節約など(1)貯蓄3027円7銭 (2)増産、勤労奉仕日数17日 (3)桑條剥皮 一人あたり5貫の目標 総量2756貫(昨年2404貫)金額1624円96銭 その結果郡中3ケ年間第1位 児童の勤労精神の現れであり父兄の協力の賜である
(4)ドングリ拾い 合計12石8斗2升 89円74銭 (5)廃品蒐集 (6)児童の使用する学用品一切の節約奨励
昭和17年 3月     国民学校修了式次第 1一同礼 2国民儀礼 3開式の辞 4国歌合唱(2回)5勅語奉読ー奉答歌合唱ー 6学事報告 7証書並びに賞状授与 8学校長誨告 9来賓祝辞 10修了生総代答辞 11修了生父兄謝辞 12唱歌斉唱(一)仰げば尊し (二)海ゆかば 13閉式の辞
昭和18年 9月     大雨のため各地で大被害が発生する この地区でも戸上大橋が半壊する
昭和19年 3月     二次大戦は激しさを増す 当時の卒業学事報告によると「父兄へ反省を促す」と題し檄を発している 大東亜戦争4年を迎え決戦教育、戦力増強の教育に邁進せんとする時に欠席者非常に多し その理由は(一)病気 (二)事故欠 主として家事に従事させる (三)雨天その他雪等による登校困難 傘 不持 (四)中途より帰る (五)意気地なし 各項の事情を排して登校せしめよ
昭和20年 7月     児童が勤労奉仕に動員された ・この年は多くの提出物、勤労奉仕、作業、応召兵の見送り、英霊の出迎え、村葬など多くもたれ児童も出席した 分散授業が始まった
昭和20年 8月15日 終戦の玉音放送があり、日本は降伏し戦争が終わる
昭和21年 1月 9日 御真影を大野地方事務所に持参し奉遷した
昭和21年        軍国主義・国家主義的教育用具の一掃を完了した
        4月     本年度の本校の教育方針として次のことを挙げている 再建日本の祖国愛に基づく文化日本、平和日本、道義日本の建設信念燃えしむる 2画一主義、形式主義を打破し個性に立脚せる実践的自由主義の教育を実践する 3責任信念を重視する自主的民主的教育を樹立する
昭和22年 2月     児童立案により部落学芸会が行われた 戦後唯一の楽しみでもあった(15~21日)
昭和23年        教育も近代化を目指し放送拡声機が購入され、PTAの結成、児童文庫も開設され本校教育の方針である個性ゆたかな文化の創造をめざす教育の普及の足がかりとした
       10月 5日 教育委員会の選挙が実施された
昭和26年 4月     ピアノを購入
昭和29年 7月25日  校舎を改築する 総工費2997160円
昭和30年 3月28日  町村合併により犬飼町立戸上小学校と改称する
昭和32年 3月28日  町村分離により野津町立戸上小学校と改称し4月より7学級編成となる =校長は卒業式に式辞の中で=本日を最後と致しまして長い間同じ教室で共に学び運動場で共に遊んで参りました子どもたちも二つに分かれて、各々別な学校に通うようになったのでありますが、長い間の懸案もめでたく解決し再び昔と同じ平和な学校、村になることを信じ子どもたちの将来のためにも益々団結を固くして平和を目標とし通う学校は異なっても教育の目標達成のために教科に躾に一層の努力と精神を重ねていく覚悟であります。と述べております。
        5月 1日 野津町立戸上幼稚園を併設する
昭和33年 3月26日 本年度当初の学校は言葉では言い尽くされず強いて言えば「荒廃していた」と言っても過言でなく長期に亘る行政区域の問題は教育上にも影響すること多大であったと本年度の反省をしている 本年度より合併後の校舎内外の整備充実に米麦の寄付をいただき図書購入費にあてた
昭和35年 5月 4日 県指定保健体育研究校の指定を受ける
       11月21日 同第1回の公開研究発表会を行う
昭和36年11月16日 同第2回保健体育研究発表会を行う 県指定2年次を迎え研究を重ねてきた 体育指定校なるが故に体育学習への偏重を極力さけ国語の読解指導を一方の柱として毎月1回の読解研究授業を実施し例年の大学芸会を取り止め毎学期1回の読書感想発表会をもった 鼓笛隊を誕生させた
昭和37年 7月 4日 県指定体育3年次研究発表会 爾来児童の体位の向上を願って地区に完全給食実施の機運が高まり急速に実施へと推移していく
昭和38年        体育保健優秀校として表彰を受ける
        3月18日 給食室起工式
        4月28日 給食調理室竣工(家屋、備品、185万円)
        5月 2日 幼稚園、小学校、中学校の完全給食を開始する
昭和39年 3月 5日 戸上小学校校歌、校旗の制定をする
        9月     風水害により運動場流失、決壊する
昭和40年 3月     校舎改築期成会が発足し関係方面に請願する
昭和44年 4月     戸上学校給食センターの経営を中止し野津町給食センターに移管合併される
昭和45年 1月     鉄筋コンクリート二階建て新校舎落成する 総工費3250万円
        3月    木造校舎(図書室・家庭科室)二教室を増築する 建設費245万円 家庭科室を幼稚園に貸す
        9月    校庭整地工事を行う
       10月    PTA奉仕作業による前庭造園工事を行う
       11月10日 国道10号線 次第に交通量増加の一途辿り児童の手で朝7時半より8時半までの1時間の車の交通量を調べる 大分行く203台 野津方面行く146台
昭和46年 3月     前庭に観賞池をつくる
昭和47年 3月24日 野津町立戸上中学校廃校式を行う
昭和49年 9月 8日 台風18号襲来し運動場のフェンス142メートル低鉄棒答流失また砂礫等の流入で運動場使用不能の被害を被る
        9月13日 運動場復旧作業(PTA)
昭和51年 7月31日 プール完成し竣工式
昭和52年 2月18日 体育館建設の必要性を痛感し体育館期成会が発足する
昭和53年 7月 5日 体育館建設起工式
       11月11日 体育館竣工式並びに戸上地区教育振興協議会発足する
昭和54年 8月21日 校舎内水道管配敷工事開始
        8月26日 第1回戸上地区教育振興球技大会が開催される
昭和56年 7月22日 校舎の土手を掘削して校庭拡張工事開始
        8月28日 バックネットが完成する
昭和57年 8月10日 戸上地区公民館(講堂)を書いてある写真解体する
        9月 6日 旧中学校技術科室を改修して戸上地区集会所とする 以後地区の社会教育の中心の場として多目的に利用されている
       12月15日 幼稚園舎新築落成
昭和58年 2月28日 初めての試みで祖父母PTAを開催する 祖父母56名が参加した        
               戸上地区公民館を解体その跡地に戸上幼稚園を新築する
昭和59年        運動場にナイター施設をし地区の社会体育推進を図る
昭和61年 6月 1日 アスレチックが完成する
       10月 4日 幼稚園郡幼研指定研究発表をする(地域の環境を生かした保育
昭和62年 5月10日 戸上小学校開校百周年記念式典を行う
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