山国町立溝部小学校(中学校)

中津市山国町にあった学校です。守実から槻木に行く途中にありました。道路に面した広い学校です。校区には、猿飛仙酔峡があり、自然に恵まれたところです。(閉校すぐに撮す。)明治8年創立平成17年槻木小学校と共に三郷小学校と統合閉校。新制中学校ができた頃、溝部中学校が、一緒の敷地にありました。校訓は不明です。:
下毛郡本山国町大字吉野757番地

校歌
  作詞 嶋 通夫   作曲 真浄 一雄
1 英彦の山にこだまして こんこんひびく
  桜のそのにくみとって 学びの玉をみがくのだ
ぼくもわたしも溝部の子供
みんな仲よく伸びようよ 伸びようよ
  
2 山国峡の川ぎりに すくすく育つ杉の子の
  緑のほこときそいつつ すがしき心つくるのだ
  ぼくもわたしも溝部の子供
みんな明るく伸びようよ 伸びようよ

3 大将陣の朝空を ゆうゆうかける若たかの
  雄雄しい翼あおぎつつ 希望の夢をえがくのだ
ぼくもわたしも溝部の子供
みんな大きく伸びようよ 伸びようよ

   三階建ての校舎です。鉄筋の校舎の最初の頃のデザインのようです。    天井は、低いですが、広さはある体育館です。
   校門は、歴史があります。ただ、道路側からは、狭くて移せません。    プールは、後者から離れ幼稚園のそばにありました。
   平成28年に行きました。建物が一つ増えていました。公民館でした。    外トイレ使われることなく古びていました。

小学校沿革史
明治 8年  3月 溝部区大字草本山の手に草本小学校として創立
            通学区 草本 小屋川 吉野
明治19年     学校制度改正例
明治20年     吉野尋常小学校創立
          吉野神社鳥居下 半日授業 3年生まで
          当時の校舎は、所有者がてんてんとし梶原商店の倉庫になっている
明治25年10月  草本小学校、吉野簡易学校統合
          溝部小学校となる (吉野研堂上山の手) 校舎の建築材は、廃校となった守実小のものを使う
明治40年     学校令改正 尋常小学校6年高等小学校2年制となった。
明治43年 4月  高等科を設置する。溝部尋常小学校となる
          財政 男 122 女 137 計 259
大正12年9月9日 現在位置に移転改築
          モダンな木造二階建て瓦葺き395坪
昭和7年2月28日 失火校舎全焼
         (大正14年3月奉安殿竣工のため御真影は、無事)
昭和8年1月13日 新校舎完成 木造二階建て
昭和16年4月1日 国民学校になる 青年学校本科併設
昭和17年5月16日 増築(一棟)
           草本金山好景気に付き児童数増加
           親会社鯛生金山が寄付
           五五〇名 一二学級 教師15名
昭和22年 4月  学校教育法公布により溝部村立溝部小学校となる   
           あわせて中学校を併設する
昭和26年 4月  三村合併により山国村立溝部小学校となる
            講堂兼公民館新築落成
昭和31年 4月  山国中学校創立により中学校廃止 校舎は、普通教室、特別教室に変換。
昭和33年4月1日 町制施行により山国町立になる
昭和37年10月2日 校歌制定
昭和41年4月15日 鉄筋三階建て現校舎完成 落成式
昭和43年12月9日 体育館完成
昭和45年3月24日 校旗制定
昭和45年6月    耐火倉庫新築
昭和48年7月7日  プール完成 25M×6 鉄板ばり
昭和50年6月1日  校舎前路側帯 自動車進入路 新設
昭和50年12月15日 排水溝設置
昭和51年3月18日  PTA池完成
昭和51年10月5日  屋外トイレ新設
昭和52年3月17日  PTA花壇設置
昭和52年 6月    農園造成
昭和55年10月  土俵設置
昭和56年 4月    校舎外壁塗装
昭和58年12月    特別教室(視聴覚室、生活室)増築
昭和59年 3月    プール脱衣室 体育倉庫新設
昭和59年 9月    運動場整備
昭和62年 8月    遊具設置
昭和63年 3月    体育館屋根塗装
平成 元年 4月    給食車運搬道、駐車場入り口舗装
平成 2年 8月    体育館内装全面改修
平成 5年        玄関改修
平成 6年       校長室改装 校長室保健室エアコン設置
平成 7年       運動場拡張 大型焼却炉設置
平成 8年       運動場フェンス設置 体育館屋根塗装
平成 9年       体育館倉庫新設
平成10年       防球ネット設置
平成13年       土俵撤収
平成17年       閉校 

山国町教育百年
明治 8年 3月21日 溝部区大字草本、山の手に草本小学校を創設する。当時の校舎、地積、創立関係者の氏名、児童数、学年組織等は一切不明であり沿革史への記入がない。通学区域は現在の大字草本、小屋川、吉野の三部落であり平小野部落は、守実小学校区となっていたものと思われる。
明治19年        学校制度改正令
明治20年        吉野簡易学校が創設される。場所は吉野神社の鳥井下であり半日授業で三年生までの児童を通学させていた。当時の校舎は廃校后他の場所に移され所有者も転々として現在は梶原酒店の横に倉庫として使用され梁横木等に僅かにその面影を残している。
明治25年10月    草本小学校吉野簡易学校を統合して溝部尋常小学校を吉野県道上、山の手につくる。当時の校庭は現在広い水田になっている。尚この時の校舎建築材は廃校となった守実小学校のものを使用している。
明治40年        学校令改正により尋常小学校6年、高等小学校は2年生になった
明治43年 4月     高等科設置、溝部尋常高等小学校となる この時の在籍児童は男子122名女子137名の計259名 昭和49年4月現在の児童数137名に比べると倍数近い 明治末年の子沢山と共に現在の過疎の減少が数字の上で読み取れる
大正12年 9月 9日 現校舎の位置に移転改築 盛大に落成式を挙行する。校舎は川沿いに県道に向かって建てられ当時としては、モダンな木造校舎であった。二階建て瓦葺きで建坪は395坪の本格的な校舎であった。
大正14年3月     下毛郡ではトップを切って奉安殿が竣工した
昭和 7年 2月28日 夜、失火により校舎全焼する 文書諸帳簿の多くを焼失したが御真影は幸いにも奉安殿に格納されていたので事なきを得た。
昭和 8年 1月13日 火災後丸1年を経過して新校舎完成、落成式を行う。校舎は、県道に沿って南向き、木造二階建築であった。この時の記念に植樹した桜が十数本、約40年を経過した今日大樹となって春は桜花、夏は緑陰を校庭に濃く落として人々に憩いを与えている。
昭和16年 4月 1日 戦時体制の下に教育審議会の答申によって小学校改めて国民学校と改称することとなった。これは初等科高等科の二つの段階を持ち青年学校の本かを併設した
昭和17年 5月16日 新校舎の増築完成 落成式を挙行する。これは、当時の日本が国策として貿易のための金を保有する必要があったので金山への奨励金を惜しげも無く放出した。そのため全国の採金所は好景気に沸き返った。日田の鯛生金山会社は溝部金山に注目し草本に鉱山区を置いて大々的に操業を始めた。従って各地から入り込む金山関係者やその家族によって溝部都区の人口は急増し児童数もまたふくれあがり従来の教室では児童の収容ができないほどになった。そこで会社側では自費を投じて校舎を一棟建築士村に委譲した物である。当時の児童数は550名12学級教師15名であった。
昭和22年 4月     戦後の民主教育の発足によって6・3制ができ従来の国民学校を改め溝部小学校の名に帰った。高等科が廃止され、溝部中学校が併設された。
昭和26年 4月     三郷、溝部、槻木三村が合併しため、山国村立溝部小学校となる。この年、講堂兼公民館の新築落成を見る
昭和30年 4月     町村合併に続く学校統合によって溝部中学校、三郷中学校は統合され新しく山国中学校として発足した。溝部中学校の廃止によって残された校舎は小学校の普通教室又は特別教室として使用された
昭和33年 4月 1日 町制施行により山国町立溝部小学校と改称される
昭和37年10月 2日 校歌を制定する
昭和41年 4月15日 従来の木造校舎が老朽校舎となったため取り壊し、新しく鉄筋3階建て現校舎完成落成式を行う
昭和43年12月 9日 屋体鉄筋コンクリート見地屋の工事完成、落成式を行う
昭和48年 7月 7日 鉄板鍼コース25米のプール完成
  

溝部中学校沿革史
昭和22年 4月 溝部村立溝部中学校を小学校に併設し開校 6教室新築 3学級 120名 職員5名 
昭和26年 4月 3ヶ村合併により山国村立溝部中学校となる。
昭和30年 3月 三郷中学校との統合で閉校

山国町教育百年
昭和22年 4月 下毛郡溝部村立溝部中学校を溝部小学校内に併設開校 三学級百二十名職員5名
昭和24年 2月 郡指定、ガイダンスの研究発表
昭和26年 4月 村名改称により山国村立溝部中学校と改称

戻る