中津江村立丸蔵小学校
鯛生金山と川辺小学校の間にあった小学校です。運動場が、校舎より上にあります。ただ、最初は、校舎も上にあった気がします。平成7年町内3小学校の統合で中津江小学校になりました。跡地は、中津江村に移住する人の施設になっています。
日田郡中津江村合瀬2233番地 明治11年創立

校歌
作詞 長 順一郎    作曲 高瀬 達之助     
1 綠の木々にかこまれて 深い谷間の瀬音きき
  渡神の山をあおぎ見る ひとみ輝くわたし達
  希望あふれる丸蔵校

2 さぎりは晴れて山なみに そそぐ光は美しく
  すくすくのびる杉のごと 強く明るいわたし達
  からだきたえる丸蔵校 

3 空ゆく雲のかげうつす 清き流れの津江川に
  祖先のわざをしのびつつ 道を修めるわたし達
  歴史かがやく丸蔵校


校訓
光り輝く子 あかるい子 たくましい子

   二階建ての鉄筋校舎です。    体育館です。日当たりは良くないようです。
   閉校記念碑です。    タイムカプセルです。もう開いているかな。
   運動場に上がるところに壁画が残されていました。    運動場です。鉄棒がありました。
   門柱は、歴史を感じます。    体育倉庫がありました。端に遊具がありました。
   令和3年に行きました。校舎もそのままでした。中津江村と丸蔵小学校名が入っていました。    運動場は、鉄棒がなくなり草むらになっていました。
   運動場からの校舎全景です。屋根は、綺麗です。    輝く歴史よ 永遠なれの文字も薄れてきています。


沿革史(中津江村史より)
明治 5年    内田春斎やその高弟教えていたようである。
明治11年    丸蔵学校(猪野為八氏宅の一室)
明治15年    梅野庄屋の後に残っていた殿座敷を丸蔵に移設して初等教育が軌道に乗る。
明治19年    丸蔵簡易学校
明治22年    合瀬村と栃原村が合併し中津江村になる
明治23年10月 教育勅語発布
明治26年    丸蔵尋常小学校
明治36年4月 女子裁縫科設置
明治37年   就学児童増加の為に字山本に移転(真弓宅を借り仮校舎にする)
明治38年   山本に校舎新築移転(森本利雄宅)
明治40年   鯛生分教場独立
明治43年   完全六年制
昭和 2年   現在の校舎の位置に新築移転
昭和11年   四学級
昭和13年   丸蔵尋常小学校
昭和16年   国民学校令により丸蔵国民学校になる
昭和23年   六学級 昭和27年 五学級 昭和28年 四学級
昭和30年   五学級 昭和33年 六学級
昭和33年   現在地に運動場を造成移転
昭和45年   プール建設
昭和47年10月 丸蔵小学校災害復旧工事終了 新校舎落成
昭和55年   創立100周年記念式典
昭和56年   五学級(障害児学級1)
昭和61年   教室の黒板を磁石黒板に変える。 

百周年記念誌
嘉永もしくは安政の頃肥後内田村より医師がこの地に来る。付近の師弟に勉学の道を開く 倅は、咸宜園に学び父の後を継ぎここで教鞭を執る(慶応2年12月)ここで学んだ師弟は後ほど小学校の教師となり活躍した
明治11年 4月 丸蔵小学校を字丸蔵民家に創立
明治13年 3月 地域住民の家を丸蔵に移し校舎とする
明治21年     鯛生に分校を設置する
明治26年     増築して小学校と称す
明治37年 1月 就学児童増加により字山本民家を借り仮校舎とする
明治38年11月 字山本に校舎新築移転2学級とする(二回目の校舎)
明治40年     鯛生分校独立する
明治42年     小学校四年制が六年制となる
昭和 2年 4月 現在の位置に新築移転三学級となる(三回目の校舎)
昭和16年     丸蔵国民学校と称する 裁縫教室新築
昭和22年     新学制により丸蔵小学校となる 6学級編成となる
昭和35年 1月 現在の運動場の位置に新築移転する(四回目の校舎)
昭和36年     方の基づき給食を開始する
昭和42年     校旗制定 当校道路一部舗装(コンクリート)運動器具遊具増設
昭和47年11月 土砂崩れ 文部省建設省の災害適用を受ける
        4月11日 起工現在の位置に新築
       11月23日竣工(五回目の校舎)
昭和48年 1月 8日 へき地集会所(体育館を兼ねる)起工
        5月    現在地に竣工 文部省へき地教育指定を受ける
昭和49年    指定研究(特別活動)二ヶ年を終了する
昭和52年 4月 郡地教委連絡協議会の助成研究(複式指導)の指定を受ける
昭和53年 9月 百周年誌発行
 

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