国東町立来浦小学校
明治6年創設 平成24年富来小学校と統合するために閉校。来浦中学校もなかなり地区から学校が消えました。東国東郡国東町大字来浦2798明治6年創立

校歌
作詞 葉山 耕三郎   作曲  千本 延隆
1 来浦富士の白い雲 周防の灘には青い波
  希望は高くまみ浄く いつも明るいわが学び舎

2 古い文化の華したい すぐれた人の跡踏んで
  光りある世に進みゆく きまり正しい良い学び舎

3 八坂の森を四季の友 暴風雨ふく日も雪の日も
  休む間もない強い子ら 仲よく励む この学び舎

校訓
 明るく思いやりのある子  深く考える子
 強くたくましい子 物やお金を大切にしよく働く子

   シンプルな二階建て校舎です。ただ、真ん中に少し違った箇所があるのが珍しいです。    国東の小学校の閉校碑は石の大きなのが多いです。
   体育館は、少し古いです。横にプールがあります。    現在は、老人施設になっています。運動場にはソーラー発電所になっています。


沿革史(国東町史より)
来浦村には第一、第二尋常小学校と来浦熊毛組合立高等小学校とがあったが明治41年4月から組合立を廃し三校を合併し来浦尋常高等小学校と称して現在に至る。
来浦第一小学校
明治 6年 6月 2日 本村長野の猪俣和田吉方に開設 徠渓小学校として月村河野満也を聘し教授をする
明治 7年 2月    字来浦竹内喜代太に移り杵築村村沢亀太郎を聘す。
明治 8年 3月    本校から分かち一は字来浦伊勢与の宅、一は長野友成壮治の宅に移し出水小学校と称す。教師は、本村の安田               源太
明治10年 3月    長野河野乙市宅に移る。教師は、杵築村松村録。
明治12年11月    出水校は、徠渓校と合併し長野津先悦太郎宅に移る。当時の教科書は、窮理、図解、図書、西洋事情、四書など               になっていた
明治15年 3月    小串省三宅に移る
明治18年 4月    竹田津村佐藤儀太郎、その後西安岐井上保策就任
            来浦尋常小学校と改称
明治27年       本校舎を七百円で新築
明治33年10月    来浦第一小学校と改称
明治34年       本郡長大沢三郎視察、翌々年県視学来校視察
明治37年 4月15日 岩戸寺葛原に四町八反余を購入して学校基本林造営
明治40年 3月14日より一週間義務教育点呼
明治41年 3月31日 来浦尋常高等小学校となる

来浦第二尋常小学校
明治 6年 1月    浜村里正国広宅を借りる。浜田小学校と称する。教師は、杵築村の河野万尓、国広甚三郎世話役として奔走する
明治 9年       国広忠三郎学務委員となり十七年間勤務
明治17年 3月    来浦川東北岸字松原に校舎新築、生徒二百名余り収容
明治21年 4月    浜尋常小学校と称し二十四年に学級編成をした
明治26年 1月    勅語奉安所を設ける
明治28年 5月    校舎西側に松樹を植え征清記念樹と称す
明治34年 4月 1日 来浦第二尋常小学校と称する
明治39年 3月    前年度就学および出席歩合両校に月運動用具一組賞与
明治41年 3月31日 第一校と合併す

来浦高等小学校
明治27年 4月10日 中部高等小学校来浦分校として宮の本(小串茶屋跡)を仮校舎として開校す。翌年生徒数七十二名
名医30年 4月10日 新校舎九百三十一円にて落成。二学級編成。
明治32年 4月    来浦熊毛両村組合立となり来浦高等小学校と改称 岐部に分教場
明治35年 4月    岐部分教場独立
明治36年       本村葛原ほか一カ所に基本林設置
明治37年 4月    新入生三十七名 校訓制定翌年 三学級 宮崎校医宅借用
明治39年 9月 9日 害虫駆除売収金をもとに、職員生徒出資十八円で運動施設用具            などを完備する
明治41年 3月31日 合併なる

来浦尋常小学校
明治41年 4月 1日 村内三校一本となり、第一分校、第二分校有り。4月20日を創立記念日とする
明治43年 4月    生徒数367名 11月5日学校林記念碑建設 五町七反三畝歩に、杉五万九千株を植林
大正10年 4月 1日 町制施行 8月に元田鉄道大臣帰郷展墓
大正12年12月    校舎落成し全校職員生徒一体となる
昭和 6年       生徒数尋常科 三百十九人 高等科八五名
昭和10年 8月10日 青年学校併設
昭和16年 4月 1日 来浦国民学校と称する
昭和21年       生徒数五四三名は開校以来最多。
昭和22年       来浦小学校と改称
昭和29年       町の合併により国東町立来浦小学校と称する
昭和38年       ミルク給食開始
昭和44年 2月 8日 屋内体育館落成

来浦小学校百周年記念誌 詳しいので設備校舎関係を主に抜粋
①来浦第一小学校(徠渓小学校)
明治 6年 2月 長野猪俣和田吉宅民家を借りて小学校を始め徠渓小学校とした
明治 7年 2月 来浦竹内喜太宅へ移転
明治 8年 3月 学校を二つに分け来浦民家を借り徠渓小学校として、長野民家を借り出水小学校とした
        9月 出水小学校を別の民家へ移す
明治 9年 3月 出水小学校を長野民家へ移す
       10月 別の民家へ移す
明治11年 7月 長野民家へ移す
明治12年11月 出水小学校を廃し徠渓小学校と統合長野別の民家に移る
明治13年 4月 本校を長野別の民家へ移る
明治15年 3月 来浦民家に移る
明治18年 4月 校名を来浦尋常小学校と改称
明治19年    尋常科(4年)高等科(4年)の二科となる
明治21年    「君が代」制定
明治23年12月 教育に関する 勅語の謄本並びにこれに関する文部大臣訓示が下賜される。初めて教育勅語奉読式を行う
明治27年 4月 学区改正により大字来浦一杵島神社拝殿に移し13日始業 校舎落成開校式 来浦村来浦字寺中
明治33年10月 来浦第一尋常小学校と改称
明治36年 1月 国定教科書が成立(修身、国語、算数、日本歴史、地理、図工は必ず使用しなければならなかった)
明治39年    暴風雨のため校舎の梁一本墜落 五日間臨時休校
昭和41年 3月 第二小学校、高等小学校と合併して来浦尋常高等小学校となる

②来浦第二小学校(浜田小学校)
明治 6年 1月 浜村旧中村協同で浜村民家を借り浜田小学校と称する
明治17年 3月 新校舎を来浦村大字浜字松原に建築
明治21年    浜尋常小学校と改称
明治24年11月 単級編成となる
明治30年 4月 裁縫科を設置
明治34年 4月 来浦第二小学校と改称
明治35年 8月 校舎東教室の天井を張る
明治36年 3月 便所を増設
        8月 西校舎の天井を張り物置場を増設
明治37年 3月 石門を設立し塀を作った
明治41年 3月 木村学校を合併 来浦尋常高等小学校となる

③来浦高等小学校
明治27年 4月 中部高等小学校来浦分教場が宮本の仮校舎(小串茶屋跡)で開校
明治29年 9月 四月から工事中の新校舎竣工 八坂社参道西現忠魂碑の位置 (来浦2798番地)
明治30年 4月 新校舎落成 二学級編成
明治32年 4月 来浦高等小学校と改称
明治35年 4月 岐部分教場独立 熊毛高等小学校と改称
明治38年 3月 三学級編成 唱歌、裁縫教室は、宮崎校医宅納屋を借りる
        9月 理髪機器購入
明治39年 7月 機械体操場の棚及び遊動円木、庭球用具一切を設備
明治41年 3月 来浦尋常高等小学校に合併される

④来浦尋常高等小学校
明治41年 4月 1日 第一、第二、両尋常小学校と来浦熊毛二村組合の高等小学校と合併して来浦尋常高等小学校を設置した。元来浦高等小学校を本校として元第一小を第一分校、元台に小を第二分校と呼ぶ。
        4月20日 創立並びに併置祝賀式、本年度入学式を行った。将来この日を学校創立記念日と定めた
明治42年 9月25日 鉄棒を修繕し機械体操場を整備
明治43年 4月 1日 入学式を三校舎全員本校舎に集め行う。
        4月11日 高等科の児童数増のため二学級編成 教室不足になり八坂社社務所を仮校舎として使用
       11月 3日 農業補習学校開校
明治44年 4月 1日 入学式 八坂神社社務所を教室として利用
        6月16日 校舎裏宮崎校医の畑四畝馬屋の南側の畑と共に借用学校園にする
大正 3年 4月23日 校舎狭隘となり二部授業実施
        9月 1日 二部授業を廃し八坂社劇場を高等科1年の仮校舎とした
大正 5年11月11日 仮校舎期限満了 坂本政蔵宅を仮校舎とする
大正 9年 4月28日 農業補習学校を再興し四カ所で授業開始
大正10年12月11日 新校地で地鎮祭
大正12年 4月22日 新校舎二階建て棟上げ
        7月 4日 第一分校尋常1,2年生本校へ移す
       10月18日 肋木・水平棒・体育器具設置
       10月22日 新校舎移りの祝賀
       12月 6日 新築落成式
大正13年 4月    補習学校女子部浜開校式を行う
大正15年 3月25日 農舎焼失
        7月 6日 講堂修繕落成式
昭和 8年 5月 5日 理科教室を普通教室にし講堂を二分し唱歌、裁縫室とした
昭和 9年 4月 5日 学級増のため宿直室を補習男子の教室とする
        9月12日 講堂の地鎮祭
昭和10年 1月16日 建築中の講堂倒壊
       10月20日 講堂落成
昭和11年11月20日 肋木二基、鉄棒七間運動場に設置
昭和12年 2月26日 拡声器一組備え付け 講堂衝立六基寄贈
昭和15年 9月 7日 校舎新築地鎮祭
       10月29日 校門地鎮祭
       12月23日 新築落成
昭和16年 1月 6日 校舎新築落成式
        4月 1日 来浦国民学校と改称 義務教育八年制となる
昭和17年10月17日 相撲道場地鎮祭
昭和22年 4月 1日 六三制 来浦町立来浦小学校校名変更
        7月24日 二階校舎瓦全面葺き替え
       11月20日 相撲道場杉皮葺きにする
昭和26年 3月16日 中学校建築のために小学校へ移転開始
昭和28年 2月15日 講堂大幕二張り水引草張りテーブル掛け一枚寄付
        3月31日 校舎大改修工事完了
昭和30年 8月26日 オルガン二台寄付 校歌制定
       12月 4日 本館大補修工事
昭和31年 4月12日 回転塔設置
       12月14日 二階校舎改築のために解体着手
       12月21日 校舎建築起工式
昭和32年 5月22日 二宮金次郎銅像再建
        5月29日 西校舎基礎工事着手
       10月 3日 小中両校新築落成式
昭和33年 9月14日 水道工事完成
昭和34年 7月 4日 運動場排水工事竣工
昭和38年 8月 5日 鼓笛隊編成
昭和39年11月 9日 給食場新築 完全給食開始
昭和41年 7月14日 サイレン取り付け
昭和44年12月 8日 屋内体育館落成
昭和46年10月31日 プール落成式
昭和48年10月20日 創立百周年記念式典祝賀会 百周年誌発行

閉校誌
来浦第一小学校
明治 5年 8月 学制発布 小学校は、上等小学校、下等小学校の2課程にわかれ修業年限は各4ケ年だった。
明治 6年 2月 徠渓小学校開設
明治 8年 3月 学校を二つに分け来浦に徠渓小学校 長野に出水小学校を開設
        9月 小学校児童の学齢は満6歳から14歳までと定められた
明治12年11月 出水小学校を廃し徠渓小学校と統合した
明治15年 3月 これまでの上等・下等を廃し初等(3年)中等(3年)高等(2年)の八年制となる
明治16年 4月 校名を来浦尋常小学校と改めた
明治19年    小学校令の改正で初・中・高の3分科制を廃し尋常(4年)高等(4年)の2科となった。
明治27年    校舎落成、開校式を行う
明治29年 1月 同窓会発足
明治33年10月 校名を来浦第一尋常小学校と改めた 新しい「小学校令」「小学校令施行規則」が設けられ、尋常小学校を4年に統一し義務制が初めて実現した。2年制の高等小学校を、なるべく尋常小学校に併置することとし義務年限の延長にそなえた
明治35年 8月 同窓会例会には、朗読・理科実験・遊技・武術が行われ馬関海峡の話・一休和尚の頓知・服部中佐の戦争談などを聞き茶話会をした(創立100年誌)
       10月 本郡各小学校連合連合運動会が富来尋常高等小学校海浜で開催
明治36年 1月 同窓会の会則の制定
明治40年 4月 小学校令の改正により義務教育年限が4年から6年となった
明治41年 3月 第二小学校、高等小学校と合併して来浦尋常小学校となった

来浦第2小学校(浜田小学校)
明治 5年 1月 浜村・旧中村協同で浜田小学校を開設
明治16年 3月 新校舎を建築した(位置・来浦村大字浜松原)
明治34年 4月 来浦第二小学校と改称
明治41年 3月 本村学校合併、来浦尋常高等小学校となった 

来浦高等小学校
明治27年 4月 中部高等小学校来浦分教場が宮ノ本に仮校舎(小串茶屋跡)で開校された(生徒数50余名)
明治29年 9月 新校舎竣工 八坂神社参道西忠魂碑の位置
明治30年 4月 単級組織を生徒増加のため2学級編成とした
明治32年 4月 来浦高等小学校と改称し熊毛村岐部に分教場を設置
明治40年 3月 来浦高等小学校に合併された

来浦尋常高等小学校
明治41年 4月 第一・第二の尋常小学校と来浦・熊毛二村組合の高等小学校と合併し来浦小学校を設置した 元来浦高等小学校を本校とし元第一小学校を「第一分校」元第二小学校を「第二分校」と呼んだ。学校創立式典を行い、4月20日を創立記念日と定めた。明治42年10月 秋季大運動会を中の迫海岸で行った。
明治43年 4月 高等科の生徒数増加のため教室不足を来たし八坂社社務所を仮教室として使用した。堅来海岸で富来文渓野球部と試合をした。高小がデザインされる
明治44年 4月 八坂社拝殿を教室として借用した
       10月 来浦・熊毛両村学校連合秋季大運動会を行った。
大正 5年10月 北部連合小学校運動会を伊美小学校で行った
大正 8年 8月 パリ講和会議随員としての講話があった。
大正12年 4月 新築校舎2階建ての棟上げをし上棟式並びに祝賀の宴を開いた
       12月 新築落成式
昭和 3年 9月 校長は、御真影拝載のために町長・巡査とともに自動車貸し切りで伝達式に参列
       11月 御真影を奉迎。奉安殿に奉納した
昭和 6年 5月 北部テニス大会で高等科2組とも優勝
        9月 高等科選手6名で県大会に出場 幼年部が優勝
       10月 国東農学校の運動会に高等科男子参加 800mリレーに優勝
昭和10年 8月 青年学校開校
       10月 講堂落成式

来浦国民学校
昭和16年 4月 来浦国民学校と改めた
        6月 生産拡充のため5年生以上芋植えをした
       11月 応召家庭の稲刈り勤労奉仕をした 報国農園の芋掘り作業をした
昭和18年 6月 報国農園の小麦刈り、麦刈り奉仕作業(2日間)出征兵士家庭への勤労奉仕作業・報国農園の芋植え作業・農繁休業(10日間)
       11月 稲刈り奉仕作業・稲刈り農繁休業・落ち穂拾い・稲刈り農繁休業(4日間)
昭和19年 2月 初等科4年生以上が5区の山にある監視哨の煉瓦運搬作業
        3月 満蒙義勇軍の壮行会をした
        5月 胸像応召につき壮行会を行った 女子挺身隊として青年学校生10名 福岡のゴム工場に派遣された 遠足を兼ね供出用のワラビ採りを全校児童で実施した
       11月 麦増産の目的で校庭を2反余耕地とした
昭和20年    決戦教育措置要綱により国民学校の初等科を除く学校の授業を1年間封鎖した。青年学校・高等科男子生徒が奈良原の暁部隊の船艇壕作業に参加した 空襲がひどくなり防空壕掘りや退避訓練をたびたびした。
        8月 太平洋戦争が終わった 進駐軍が学校に来て備品等を調べた
昭和21年     国民学校が廃止 6・3・3・4制が実施されることとなり義務教育9年となった 男女共学が指示された

来浦小学校
昭和22年 4月 1日 「来浦町立来浦小学校」と校名変更
昭和23年 5月 7日 PTA結成
        7月14日 ミルク給食開始
        8月22日 同窓会(午前中演芸 午後野球 夜盆踊り)
       10月26日 修学旅行(大分・別府に1泊2日)※修学旅行は、昭和36年度まで大分・別府方面
昭和24年 4月28日 PTA総会
       10月 9日 小学校・中学校・青年団連合運動会
昭和25年 9月 9日 文殊登山
       12月 7日 インフルエンザで臨時休業
昭和26年 4月29日 講堂大改修(キジヤ台風による災害復旧工事)
昭和27年        クラブ活動始まる
        5月     月星子ども郵便局開局
昭和28年 2月20日 校舎大修理(ルース台風による災害復旧工事)
        3月 7日 文集「大杉」作成
        5月21日 修学旅行 ※この年から春に修学旅行
        6月10日 小麦刈り休業(~11日)
        6月23日 田植え休み(~27日)
       10月29日 農繁休暇(~31日)※農繁休暇は昭和44年まで続く
昭和29年 4月 1日 町村合併のより「国東市立来浦小学校」と校名変更
       10月21日 国東町合併祝賀会
       11月24日 県指定社会科研究会
昭和30年 8月26日 校歌制定
        9月30日 松本古村・鈴木豊渓の会が寄贈
昭和31年 4月27日 全国一斉学力テスト
       10月27日 大阪劇団上演
昭和32年10月 3日 新校舎落成
昭和34年 1月22日 放送教育研究発表テレビ・実物投影機・幻灯機寄贈される
       10月22日 視聴覚教育研究会(参観者500名) 8mm映写機寄贈される
昭和36年 2月18日 学芸会
       10月26日 集中豪雨
昭和37年 3月12日 生ワクチンを全校児童に投与
        4月30日 修学旅行 ※この年から修学旅行は関門方面に変わった
昭和38年        鼓笛隊編成
       10月20日 町小学校陸上記録会(会場国東小学校)※この年から調理苦情記録会が始まった
昭和39年10月 7日 運動会・新校旗受領式
昭和40年11月 9日 完全給食
       12月11日 国東町音楽祭(会場城崎中学校)※この年から長音楽祭が始まった
昭和41年        大分国体(第21回国体)
       11月30日 県指定PTA研究発表
昭和42年 4月22日 入学式
昭和43年12月 2日 町音楽祭
昭和44年 4月22日 修学旅行
       12月 8日 体育館落成 ※この年から宿日直勤務廃止
昭和45年 4月21日 修学旅行
昭和46年10月31日 プール落成
昭和47年 7月 3日 プール開き※東芝大分の水泳選手が模範泳法披露
昭和48年10月20日 創立100周年記念式典(200名出席)
昭和49年11月24日 器楽合奏大会(4年生以上38名大分文化会館)
昭和50年12月 2日 香々地少年自然の家宿泊訓練
昭和51年 4月26日 修学旅行(5・6年60名)
昭和52年 3月 5日 積雪30cmで臨時休業
       10月27日 鍛錬遠足(低学年長野・高学年文殊仙寺)
昭和53年 4月24日 修学旅行(5・6年)
昭和54年10月28日 地区体育大会 リレー・鼓笛行進で出場
昭和55年 7月16日 大分大学合唱団公園
       10月27日 社会見学(低中学年大分市・高学年竹田・阿蘇)
昭和56年 3月20日 新校舎完成
        4月26日 新校舎落成式・祝賀会
        7月 5日 少女バレー県大会優勝
昭和57年 2月15日 池・庭園完成・門標新設
昭和58年 2月 8日 金銭教育研究会
        4月20日 校歌の碑除幕式
昭和59年 5月28日 修学旅行(来浦・大恩連合)
       10月31日 6年生親子由布登山
昭和60年11月23日 月星子ども郵便局の利子積立金でピアノ購入
昭和61年 9月 7日 築山造成(コロコロ山)
        9月11日 校内水泳記録会
       12月24日 クリスマス会
昭和62年 7月 8日 七夕祭り
       11月10日 郡同和教育研究大会
               鼓笛隊の演目に「いのこもち」を入れる
昭和63年11月 7日 香々地少年自然の家宿泊訓練
平成 元年 6月26日 全校田植え
       12月 9日 収穫祭
平成 2年       子ども神楽結成
        7月16日 期末PTAで大分大学教授講演  
        9月19日 台風19号で臨時休業 県内各地で大きな被害
平成 3年 9月14日 台風17号で前庭水浸し
平成 4年11月18日 ソニー教育資金贈呈式
平成 5年 4月10日 月1回学校5日制始まる(第2土曜日)
        7月16日 大分大学混声合唱団公演
平成 6年 5月11日 3校連合修学旅行(熊本・長崎・福岡方面)
               月星子ども郵便局の積み立て利子でテント8張購入
平成 7年 4月 8日 月2回学校5日制(第2・第4土曜日)
        8月19日 町水泳記録会
平成 8年10月24日 香々地少年自然の家宿泊訓練
       10月27日 夢咲きカップミニサッカー大会4チーム出場
平成 9年11月 7日 文部省指定生活科教育推進校研究発表会
平成10年 5月25日 子どものためのクラッシックコンサート
平成11年 9月24日 台風18号大分県を縦断 暴風で瓦が吹き飛ばされた
平成12年 5月25日 修学旅行 ※この年から修学旅行は1泊2日となる
平成13年        学校評議員制度始まる
        6月30日 いも植え
       11月10日 収穫祭
平成14年        完全学校5日制 総合的な学習始まる 子ども郵便局中央表彰 パソコン19台設置
平成15年 1月14日 佐藤美枝子コンサート
               子ども神楽復活(恵美須神社) 大分県基礎基本定着状況調査始まる 町PTA連合・郡PTA連合会事務局校 「毎日小学生新聞」寄贈始まる※平成23年まで継続
平成16年        九州地区へき地教育研究校(1年次)
        7月10日 親子ふれあいレク活動
平成17年10月 2日 地区との合同運動会
       11月11日 九州へき地教育研究大会
平成18年 3月31日 4町合併で「国東市立来浦小学校」となる
              月星子ども郵便局閉局
平成19年 4月24日 全国学力・学習状況調査始まる 
               小中合同運動会
平成20年 9月23日 小中合同運動会
       10月 6日 大分国体観戦(アスト/ウエイトリフティング)
平成21年        「放課後児童クラブ」設置 理科支援教育配置 校長室・職員室にエアコン設置 電子黒板・デジタルビデオ設置
平成22年 9月     学びの教室始まる
              子ども神楽梅園の里寒月祭出演 体育館耐震工事
平成23年 5月12日 修学旅行 ※修学旅行は、長崎・福岡方面に変更
        8月21日 PTA研修旅行(九州国立博物館)
       10月 2日 運動会・人権の花花風船飛ばし
平成24年 3月 4日 閉校記念式典
        3月31日 国東市立来浦小学校閉校      

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