佐賀関町立木佐上小学校
幸崎駅から臼杵に抜ける道沿いにあった小学校です。平成27年こうざき小学校に統合し閉校になりました。地区の統合のシンボルであり跡地の利用も多いようです。
北海部郡佐賀関町大字木佐上817番地 明治9年創立

校歌
作詞 渡辺 章   作曲 津野 勝光  
1 樅の木山の雲はれて 明けゆくまどの学びやに
  かがやくひとみ光るちえ 心をみがくわれらの母校
  ああ木佐上はうつくしい

2 みどりの山にかこまれて くすの香かおる校庭に
  きたえるからだ広い胸 力にのびるわれらの母校
  ああ木佐上はたくましい

3 しずかに流る小猫川 長い歴史をうけついで
  あかるいえがおそろうこえ 希望にもえるわれらの母校
  ああ木佐上はあたらしい  

校訓は不明です。

   小高い丘の上にあります。139年の歴史にありがとうとあります。    三階建ての校舎です。正面から見ています。
   平和祈願のための碑です。被爆した広島市役所の敷石を使ってPTAが建立しています。    閉校記念碑です。
   上には、歴史が刻まれています。校区民も入っているところが木佐上らしいです。    下は、沿革史です。裏には校歌がありました。
   体育館の裏にプールがあります。校舎からは見えない位置にあります。    裏側にも校舎があります。こちらは昇降口でしょうか。
   令和4年に行きました。花が綺麗です。地区の方が世話しているようです。    予定表にはいっぱいの予定が書いてありました。


沿革史(佐賀関町史より)
明治 7年       連合清明学校と称するものが県令の許可を得て学区の取り締まり管理をしていたというけれどいまだ学校の体をなして居なかった
明治 9年 2月16日 木佐上学校として創設。木佐上村字岩の下の民家を借り仮の校舎に当て、第4大区用務所区長三浦義礼、戸長渡辺真彦両氏管理す
明治10年 4月    字鍛冶屋畑、藤沢林平氏所有の耕地に長さ12間奥行き三間半茅屋を新築移転した。
        5月    下等小学校五級以下の定期試験を行う。受験者43人
        8月    大暴風雨で校舎崩壊、副区長高橋源九郎、区長三浦義礼外有志の努力で再建された
明治17年       神崎、馬場、木佐上三村合併し神馬木村となる
明治20年 4月    木佐上簡易学校と改め、従来の中等科を卒業として1,2,3年の学期となった
明治26年       木佐上尋常小学校と改称する。本年度大干魃、大洪水、畝着る流行し出席率悪し 
明治27年       日清戦争起こる
明治29年 7月19日 西元峰屋敷に新校舎建設落成式 この日が開校記念日となる
明治32年       春期大運動会を白鷺山腹平窪で行う
明治39年       学制改革 尋常小学校6年、高等小学校2年の修業年限となる明治41年小学校男子教員校舎制服となる
明治44年       六年生収容、純然たる一尋常小学校となる
大正 元年       校舎北側紙障子を硝子障子に宿直室を改修して事務室となす
大正 3年       日豊線幸崎役まで開通、全校児童旗行列 祝歌合唱す
大正 9年       新校舎落成式挙行
昭和11年 4月 8日 本校開校六十周年記念式を挙行
昭和16年       国民学校令布かれ、木佐上国民学校と称する農繁期託児所開設昭和20年裏山に防空壕四カ所設置
昭和23年       職員室、宿直室、便所、炊事場、新築落成 運動場落成
昭和26年       北校舎四教室新築落成
昭和29年       講堂落成、ピアノ購入、西校舎二教室新築落成
昭和30年       佐賀関町に合併 佐賀関町立木佐上小学校となる
昭和40年       保健室4坪新築落成

百周年記念誌・平成6年学校要覧
百周年記念誌
明治 9年 3月 開校願い済みの上木佐上小学校と称し岩の下の民家借り校舎に充て教師が授業に当たる 下等小学校六級、七級、八級に分かれ教科は読書、作文、習字 、算術であった
明治10年 4月 小字岡の藤沢林平所有耕地を借り42坪の校舎新築
        8月 台風のために校舎倒壊し再築 28坪に縮小
明治12年 1月 郡区町村再編法により従来の四村連合を統合木佐上一村になる
明治14年11月 学区改正により本校は10番学区に編入
明治15年 6月 初等3年中等3年に改定さる
明治18年 4月 旧村用務所を借り教室に充てる
        5月 本校初の卒業生 初等科18名を送り出す
明治19年 4月 尋常4年まで義務制になる
       10月 学資積み金行き詰まり公損処理の上解散
明治20年 2月 木佐上学校を木佐上簡易学校と改められる
        4月 中等科は、退学、1~4年生となる
明治21年 4月 本校開校以来の沿革調査をし編纂
明治22年10月 裁縫科設置
明治23年12年 校則を定め児童の風儀改革を図る
明治24年 1月 教育に関する勅語文部大臣の訓示を下賜される
明治26年 1月 木佐上尋常小学校発足 4年複式2学級
       10月 台風被害
明治27年 8月 日清戦争起こる
明治29年 7月 3月より建築の校舎落成し現在地に移転
明治31年 9月 遊歩場を拡張する(運動場)
明治32年 7月 運動場西南隅に井戸を掘る
明治33年 5月 裁縫科再開
明治36年    教科書は国定教科書となる
明治40年 3月 小学校修業年数41年4月より2年延長6年となる決定
明治41年    4,5,6年収容施設をなしたが教育配当なし神崎校に転入させる
明治43年 4月 5学年本年より本校に収容 村立第三実業補習学校を併置
明治44年 4月 6学年まで完成 複式三学級編成
明治45年 3月 6年制となり初めての卒業生を出す 北校舎の紙障子をガラスに取り替える
大正 3年 1月 桜島の火山灰が降る
        4月 幸崎駅開通式旗行列参加
        6月 台風のために校舎東側屋根大被害
大正 8年11月 校舎新築工事始まる
大正 9年 6月 新校舎完成
大正13年10月 運動場に回旋塔を据付する
昭和 6年 9月 青年団が砂場造り奉仕
昭和11年 4月 創立60周年記念式挙行
昭和16年 4月 木佐上国民学校発足する
昭和20年 4月 裏山に全児童収容の防空壕を作る
昭和22年 4月 6,3制により木佐上小学校発足
        5月 校舎新築工事竣工
昭和24年 2月 放出物資による給食開始
昭和26年12月 北校舎改築、四教室完成
昭和27年11月 講堂着工
昭和29年 2月 講堂落成しピアノ、幕等が校区民より寄付される
昭和30年 1月 佐賀関町に合併し校名変更
昭和33年    電話を新設し講堂暗幕設備
昭和34年10月 16mm映写機を中学校区(小3、中1)購入
昭和35年 1月 西校舎山側に池を掘る
昭和35年10月 テレビ一台設置し井戸水を時価水道給水設備にした
昭和38年 1月 牛乳のみの給食開始
       12月 校区内上水道工事始まる
昭和39年 3月 完成
昭和40年 7月 保健室完工
昭和42年12月 宿日直廃止
昭和44年 9月 電話がダイヤル式になる
       12月 石炭式ストーブをオイルヒーターに取り替え 
昭和45年 9月 校旗・校歌制定記念式(明治100年)鼓笛隊発足
昭和46年 3月 幼稚園併設
昭和49年 2月 本校の開校届けを発見し創立の日を明治9年2月15日に変更
昭和50年 7月 開校百周年記念実行委員会発足運動場砂入れ整地
        8月 放送施設取り替え全面整備
        9月 電話自動交換と成り⑥局新設町内外の電話至便
昭和51年 1月 寒波により水道管破裂 教室の一部に照明を増設カーテン整備
昭和54年11月 校舎整備期成会結成町に陳情
昭和57年 3月 新校舎完成
昭和60年 4月 学校事務職員設置
昭和62年11月 養護教諭(町職常勤)が置かれる
昭和63年11月 関教研学校自主発表
平成 元年    土の子少年団結成
平成 3年 4月 県の養護教諭が置かれる
平成 5年 3月 体育館落成
平成 6年 3月 運動場整備・遊具完成         


戻る