槻木から山の方へ行き、中学校跡地をさらに行くと左側にあります。公民館のような感じです。中を覗くと、分校のままかなと思えます。
周りの遊具などはないです。運動場もないのでかなり前になくなった気がします。大きさから1年生か2年生まででしょう。溝部小学校と共に三郷小学校と統合のために2005年閉校
明治34年創立
下毛郡山国町大字槻木1783
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一棟だけのかわいい校舎です。遊具もありません。 | ![]() |
平成28年に行くと校舎はそのままでしたが、毛矢村分校の名が壁にありました。中は、そのままでしょうか。 |
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平成28年に行きました。門柱にも表示なく寂しい感じです。 | ![]() |
運動場は、草むしていますが結構広い感じです。 |
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裏側です。トイレでしょうか? | ![]() |
西側です。まだ、備品が中にあるようです。 |
(山国町史より)
明治34年 5月 分教場設置(小林家の墓地)校地70坪茅葺き平屋一棟(建坪
17坪5合)明治38年就学率76%
大正 6年10月 字檜鶴の現有地に移転のために敷地を寄付
大正 7年 校舎竣工 桑原、坂内、中畑を加え授業開始
昭和 5年 2学級編成
昭和23年10月23日 校舎改築
平成 5年5~8月 校舎外装工事
平成15年 1月 分校側溝工事
山国町教育百年の歴史
明治34年 5月 毛矢村分教場が字毛矢村に設置される(現在墓地になっているところ)校地70坪 茅葺き平屋1棟、間口5間 奥行き二間半 玄関 炊事場 便所等建坪17坪5合
※毛矢村分校創立の由来
毛矢村部落は、本校にへだたること一里半、しかも道路が悪く,児童の通学が大変不便なため子ども達は、就学しなかった。わずかに以前鍋倉校舎で先生をしていた老人が民家の物置で塾を開いたり、しいたけ作りの監視に来ていた人にときどき字を習う程度であった。毛矢村に住む人(村会議員や学務委員を歴任した)は、「これからの」世の中は、学問がなくてはだめだ、毛矢村の子どもにも教育を受けさせなくては」と考え隣接の泉、合使の両部落を説いて歩いて分教場設置を申し合わせ村会に建議すると共に郡長にも交渉し遂に毛矢村分教場設置が認可された。分教場設置により二学級となり訓導兼校長として7月23日付けで発令された。なお引き続いて毛矢村分校の基本財産として三部落民協力のもとに字高畑(通称松尾)に杉苗と杉穂千本を植林した。明治38年10月29日 郡視学官が実情を調査した。分校設置により就学率向上76%(男88%、女62%)交通不便な当時の分校勤務は並大抵のことではなく教師は短期間で転勤している。
大正 6年10月 毛矢村分校を字絵鶴の現在地に移転するための敷地を村会議員寄付
※当時泉出身の議員は要の戸の石橋に建てよと主張したのに対し,桑原,坂内、中畑の部落民は二反田を主張、対立して決まらなかった。そこで元議員の方が両者の中をとり自己の田を寄付して字桧鶴に落ち着いた。
大正 7年 春 毛矢村分校竣工 青年団が餅つきをして祝う 桑原,板内、中畑を加え4月から授業開始
大正 9年 4月 高等科を併置し槻木村立槻木尋常高等小学校と改称
昭和 5年 4月 毛矢村分校が2学級となり本校とも6学級となる(1・2年、3・4年、5・6年、高等科1、分校1・2年、3・4年)
昭和16年 4月 1日 国民学校令施行により、槻木村立槻木国民学校と改称する
昭和22年 4月 1日 学校教育法施行により槻木村立槻木小学校と改称する
昭和26年 4月 1日 村合併により山国村立槻木小学校と改称する
昭和29年10月23日 毛矢村分校を改築する この年本校6学級、分校1学級 計7学級
昭和33年 4月 1日 町史施行により山国町立槻木小学校と改称する
昭和35年 8学級編成となる(本校6学級、分校2学級)児童数226名昭和38年 3月13日 校歌を制定する
9月28日 校旗を制定する