佐田の名所(人物)

賀来 飛霞(かく ひか)


 幕末の三大本草学者のひとり。
 日本初の植物図鑑 『東京大学小石川植物園草木図説 巻一』(明治14年出版)を伊藤圭介と共に著し、日本近代植物学の父とも言われています。

 豊後高田に生まれ、医者である父・有軒を幼くして亡くした飛霞は、兄・佐之と共に帆足万里の薫陶を受け成長しました。
 万里から本草学と医学を学んだ飛霞は、写生画の技法を杵築藩の画人十市石谷に習い、医者として、本草学者としての功績を積み上げてゆきます。
 島原藩の藩医であった佐之の死後は、亡き兄に代わって島原藩医となり安政5年(1858)に大流行したコレラの治療で功績をあげ、藩主から褒賞を受けています。

 また、実地で草木を採取する「実物調査」に基づく研究に没頭した飛霞は、九州、近畿、東北、北陸・甲信越の各地を自ら回り多くの資料を残しました。
 飛霞による写生図は、対象を正確に描くことに徹底してこだわった彼の姿勢を示す、たいへん精緻なものです。当時の本草学ではあまり見向きもされなかった「根」の部分まで細密に描いている所からも、飛霞の目が、「薬草」ではなく「植物そのもの」に注がれていたことがうかがえます。
 60歳になった飛霞は、再び宇佐に戻り宇佐郡公立四日市医学校長と病院長を兼任します。老後を故郷で迎えようとしていた飛霞ですが、盟友伊藤圭介による再三の求めに応じ、上京。明治11年(1878)、62歳の飛霞は小石川植物園取調掛に任命され、後に『東京大学小石川植物園草木図説 巻一』を著します。

 なお、民間で初めて、反射炉による大砲鋳造を行った賀来惟熊は飛霞の従弟であり、飛霞も大砲鋳造に力を貸しています。


  • [参考文献]大分県立歴史博物館(2009)『おおいた発!幕末文化維新-賀来家・華麗なる一族-』
  • [参考文献]安心院町身心すこやか事業推進委員会(1988)『ふるさと佐田』
  •  賀来飛霞 
  •  賀来飛霞墓