モツレク・とぴっくす |
大作曲家モーツァルト・・・名曲レクイエム・・・なんて、どうも聞くたんびにかしこまってしまいますが、そんなにややこしいもんじゃないんですよね。「モーツアルト」を、「モツレク」をより身近に感じるために、ちょっとしたモーツァルトのトピックスです。 えーと、これらはいろいろな資料をあさって調べましたが、私は音楽史の専門家ではありませんので、間違いも多々あると思います。そのあたりも含め、先輩の皆さんにお教えいただければ幸いです。
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bP 「モーツァルトのレクイエム」のCDを聴く モーツァルトのレクイエム、通称「モツレク」といえばなにぶん「古今の名曲」で、数ある「レクイエム」の中でも人気最高の曲ですから、名のある指揮者はたいてい手がけているということです。 このため、現在市販されているCDを見ても30種類以上もあるということで、聴くとしてもどれを選んでいいか迷ってしまいますね。 その中で、カール・ベーム指揮/ウィーンフィルの演奏で、マティスが歌っているものとか、カラヤン指揮/ウィーンフィルでシントウが歌っているものなどが、根強い人気があるようです。 これらはたいていのショップで入手でき、しかも買って損はないお奬め版と思いますが、これ以外にも古い録音ですがワルターのものやジュリーニ、バーンスタイン、さらにガーディナーの新しい解釈のものなどもそれなりになかなか面白いと思います。 ところで、好みは別としてレファレンスとして選ぶなら、前述のカラヤンのものはまずお奬めのひとつではないかと思います。人によって強い好き嫌いのあるカラヤンですが、とにかく録音にはうるさかったそうで、それだけに実際に聞いてみても音質的にはかなりレベルの高いものだと思います。 録音が古くノイズの多いものなどは、感覚を楽しむにはいいのでしょうが、例えば練習のためなど集中して繰り返し聴いたりするとノイズの多いものは疲れてしまいますからね。一般的にはやはり録音は良いものを選んだほうがいいと思います。そういう意味で、リファレンスとしてカラヤンのものをお奨めしています。 また演奏時間もさまざまで、全曲40分ちょっとという超快速版から1時間以上のゆったり版まで、さまざまなものがありますから、いろいろと聴き比べるのも面白いですよ。 とにかく、どれがいいかは好みの問題ですから、自分で聞いて決めるしかありませんよね。 |
bQ 「ジュスマイアー版とは何か?」 前述のように、「モツレク」は30数種類のCDが出ているそうですが、それらをよく見るといくつか「ジュスマイアー版」とか「バイヤー版」とか、「版」の表示があることに気がつきます。これはいったいなんでしょう? 作曲中にモーツァルトは亡くなり、このレクイエムの作曲は途中までしかできていなくて未完成だったことは楽譜の解説にもあるので皆さんもよくご存じのことと思いますが、実は依頼主から作曲料を前金で貰っていたため、奥さんのコンスタンツェとしては、どうしても本人のものとして完成させなければならないという事情があったそうなんですね。 そこでコンスタンツェは完成させるためにいろいろ手を打つわけですが、最終的にモーツァルトの曲想スケッチなどをもとにして全曲を完成させるという困難な事業を成し遂げたのが、助手だった当時25才のジュスマイアーだったわけです。すなわち 「ジュスマイアー版」とは、モーツァルトが未完のまま残し、ジュスマイアーが補筆完成させてこの世に現し、この2世紀にわたって演奏されて来た、オリジナルバージョンの「モツレク」のことなのです。 実は当初からジュスマイアーが独自に追加作曲した後半部分はもとより、オーケストレーションなどについての批判は根強くあり、現実に指揮者の中にはスコアに手を入れて演奏した人も多いようです。 この傾向は今世紀後半に入ってますます強くなり、ジュスマイアーの補筆に対しフランツ・バイヤー教授がよりモーツァルトの様式に近い形で修正を加えて再補筆し、これが「バイヤー版」として演奏されるようになりました。 さらに、「モーンダー版」、「ランドン版」などの修正版が提案されましたが、「モーンダー版」に至ってはジュスマイアーの補筆をまったく否定する立場に立ち、ジュスマイアーによる「ラクリモサ」の第9小節以降をカットして新たに独自の曲を作り直したほどなのです。 これについて、モーツァルト研究の第一人者海老沢敏氏は、「ジュスマイアーにモーツァルトを求めてはならない。だがそのジュスマイアーがモーツァルトのレクイエムを完成した事実も忘れるべきではない。その後のいかなる試みもこの歴史の重みを変えることはできない。」として、たとえジュスマイアーの補作に拙劣な部分があるとしても、誰もが尻込みした困難な作業に挑みやり遂げたことによってこの名作が世に出たことを忘れるべきでないと指摘し、それ自体を歴史的事実として受け入れるべきだと、著書の中で述べておられます。 私は、この文章を読んでほっとしました。救われる思いでした。ジュスマイアーさんありがとう。 |
bR 「モツレクは626曲目の作品か?」 楽譜の表紙を見ますと、「REQUIEM」というタイトルのほかに「K626」という記号のようなサブタイトルがありますが、これが有名な「ケッヘル番号」だということはご存じの方も多いでしょうね。 「ケッヘル」とは19世紀のオーストリアの分類学者の名前で、モーツァルトの全作品・資料をくまなく調べて成立年代順に整理し、曲の作曲順に番号をふって膨大な作品目録を刊行した人なんですが、このことからモーツァルトの曲については必ずこの整理番号付きで語られるようになりました。これが「ケッヘル番号」です。 ピアノ曲ですと特にタイトルがついていないものが多いですから、たいていはこのケッヘル番号で区別されているんですね。 さて、この曲「モツレク」はモーツァルト自身の手では未完に終わったため、当然最後の曲ということになりますね。で「モツレクにはケッヘル番号としては「626番」がついていますから、当然モーツァルトは生涯で626曲を作曲したことになるはずなんですが、どうもそうではないんですね。 実はケッヘル作品目録の出版後にも次々と多くの作品が発見されており、中には後に彼の作品ではないとされたものもあって、ケッヘル作品目録は何回もの改訂をへて作品番号も変更されています。 しかし一般には当初の番号で数えるのが習慣になっているため、このレクイエムも「K626」のまま変わっていないのです。 それではいったい作品は何曲あるのかというと、モーツァルト研究者の間でも諸説あって確定していないのですが、現在ではおよそ800曲ぐらいと考えられています。しかし正確な数字は出しようがないというのが実情のようです。 |
bS 「ところでレクイエムって、なに?」 「レクイエム」とは、いったいなんのことなんでしょうか? 合唱楽譜の解説では「死者のためのミサ曲」とだけありますが、要するにカトリック教会の中で歌われる「ミサ曲」の中で、特に死者のためのミサで歌われていた曲のことです。詩の冒頭や途中に繰り返し「レクイエム」という言葉が出てくることからこのように呼ばれるようになりました。 もっとも現在ではカトリックの正式の典礼からは除かれているため、特別な機会でもないかぎり教会の通常のミサの中で歌われることはまずありません。 さて皆さんご存じの通り歌詞は「ラテン語」で書かれています。このテクストは1570年に定められた「ローマ典礼」による一定のもので変えようがないものです。 当然モーツァルト作曲のミサ曲ももそれにのっとって書かれているわけです。というよりも、この時代ぐらいまでは有名な音楽家はそのほとんどが大聖堂の楽長、つまり教会お抱えの音楽家だったので、「非典礼的レクイエム」などという実用性のないものが成立する余地はなかったのです。 教会以外で自由な「音楽作品」として演奏される「非典礼的レクイエム」の登場は、ベートーベン以降とされています。 おもなレクイエムの作品は、初期のものとしてはラッスス、ビクトリアのもの。18世紀ではハイドン、モーツアルト。19世紀に入るとヴェルデイ、フォーレ。20世紀には、ピツェッティ、デュリフレなどがあります。ちょっと異色なものではブラームスの「ドイツ・レクイエム」や、ブリテンの「戦争レクイエム」などがありますが、これらは典礼とは関係なく書かれています。 レクイエムのことを日本では「鎮魂ミサ」という訳し方をすることがありますが、これは「死者のためのレクイエム」本来の意味からは離れています。それは、冒頭の「Requiem aeternam dona eis Domine −主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ」という一節でもうかがえるように、「レクイエム」とは死者に対する罰を軽くして下さいと神に祈るものであって、直接死者の魂を鎮めるものではないからです。 実は私、幼稚園と大学がカトリックのミッションスクールと言うこともあって、このへんは知識があるはずなんですが、すっかり忘れた。昔の宗教学とか宗教史とか、本あさるのがたいへんだった。 やれやれ。 |
bT 「モツレクはなんのためのレクイエム?」 一般に「レクイエム」という音楽は、「死者のためのミサ曲」という性格上なんらかの目的を持って作曲されたものが多いのです。 このあとロマン派以降は演奏そのものを目的として典礼から離れて作曲されるものが出ていますが、モーツァルトの時代はまだ純粋にカトリック教会の中で使われる以外ありませんから、具体的に誰かを追悼するために、典礼どうりに作曲されたものがほとんどです。 さてこの「モツレク」もその例外ではなく、当時ウィーンにいたフランツ・フォン・ヴァルゼック・シュトゥパッハ伯爵という貴族が、亡き夫人の哀悼のためにモーツァルトに依頼したということがわかっています。 ところがこの音楽好きの伯爵は妙な趣味があって、匿名で作曲してもらった曲を自作のものとして発表するという、今日の著作権の感覚からは考えられないことをしていたんですね。音楽好きでお抱えの楽団までも持っていたというのに、作曲の能力はないことからこういう悪趣味を思いついたのでしょう。このころまでは曲をまるごと買い取るということもあったようです。 もちろん、ジュスマイアーの手で完成した「モツレク」も、この伯爵に渡されて「自作」として披露されたわけですが、実はもう一部の写譜が残されていて、すぐにモーツァルトの作品として発表されます。面目丸つぶれの伯爵は約束が違うとカンカンになるわけですが、争うのもカッコ悪いと思ったのか権利を主張することなくそのままになったようです。 考えてみれば、この伯爵の妙な趣味のおかげで「モツレク」という音楽史上の最高傑作が世に出ることになったわけですね。自分のものとして握りつぶさなかった伯爵さんに感謝。 |
bU 「モツレクはどんな時代に生まれたのか?」 モーツァルトは1756年にザルツブルクで生まれ、ウィーンに移ったあと、1791年12月5日に35歳で亡くなりました。この年の7月に前金で依頼を受けた「レクイエム」は、モーツァルト自身の手によってはついに完成させることはできなかったのです。 モーツァルトの生きた18世紀の後半とは、イギリスの産業革命・アメリカの独立・フランス大革命とヨーロッパの文化・文明が成熟期を迎えて大きく揺れ動き、次のナポレオン時代を迎えようという大きな激動期ですが、その中をモーツァルトは幼いときからヨーロッパ各地を渡り歩き、ラテン語はもちろんイタリア語・フランス語・英語にも通ずるという、当時としては珍しい「国際人」になりました。 さらに1781年に故郷ザルツブルクでのコロレド大司教のもとでの不本意な宮仕えを辞し、ウィーンで自由な音楽家 としての生活を始めますが、彼こそ誰にも仕えないフリーの音楽家として自立した最初の人だといわれています。もちろんその背景には専制社会から「市民」社会へという歴史の流れがあるわけですが・・。 しかし著作権制度の確立していないその頃、作曲・演奏活動によって生活するというのはほんとうに大変だったのですね。モーツァルトはピアニストとして、あるいはピアノ教師として収入を得ていたようです。 もともと派手な暮らしぶりもあって懐具合はいつも火の車だったようで、彼は生活のために病床にあっても懸命に楽譜に取り組むしかなく、それがまた結果として死期を早めることにもなったのでしょう。 一方そのころの日本はというとまだ江戸時代、徳川幕府も後半の9代家重から11代家斉の時代で、田沼意次・意知父子のもとに迎えた江戸文化の爛熟期が、老中松平定信の「寛政の改革」による徹底した緊縮政策で、火の消えたようになったころのことなのです。 |
bV 「モーツァルトはどんな人だったのか?」 この偉大な「レクイエム」を遺したモーツァルトは、いったいどんな人だったのでしょう。まさに天才というにふさわしい、音楽家として希代の才能はいうまでもなく、演奏家としても、ピアノや作曲を教える教育者としても優れていたことはよく知られていますが、それではどんな容姿でどんな服を着ていたのか、どんな生活をしていたのでしょうか? もちろん200年以上も昔のことですから写真があるわけではなし、正確なところはわかりませんが、当時のウィーンでも特に小柄な方だったのは確かで、だいたい身長160センチ以下と考えられています。 モーツァルトの実の姉がその回想録の中で、「痩せて小柄で貧相だった」というくらいですから、あまり立派な風采ではなかったようですね。 しかし、おしゃれで派手好みの衣装趣味というか、まさに貴族的というべき衣装道楽だったようで、遺産目録にも大量の衣装類が記録されています。 近年の研究では、このような衣装道楽がウィーンでの経済的な生活を圧迫した可能性があるということで、この支出が相当なものだったことは確実です。 一方モーツァルトの収入はというと、これも評価が難しいのですが、現在の貨幣価値に換算して年収一千万円以上と考えられ、ときには年間一億円近い収入を得たこともあるといわれますから、山谷はあったにしてもかなりの高額所得者だったことは間違いないようなのです。 モーツァルトは死の直前には膨大な借金を抱えていたことはよく知られていますが、単に衣装道楽でそれだけの借金ができるとは考えにくいのです。しかし今となっては永遠の謎というしかないようです。 |
bW 「コンスタンツェは<悪妻>だったのか?」 モーツァルトの奥さん「コンスタンツェ」は、多くの伝記の中でしばしば「悪妻」と非難されています。無知でだらしなく、浪費家で家計も切り回せず、夫の死を早めたと・・しかも夫の弟子との不倫の噂すら真実のように語られているほどなのです。 しかし近年の研究によれば、コンスタンツェは夫と音楽についてかなり知的な会話を交わし、部分的には曲を演奏して感想を言うこともできたそうです。実際にソプラノ歌手として歌っていたようですしね。 またなかなか有能な整頓家であって家計もそれなりに切り回していたようです。このことは、最後まで二人の結婚には不満だった父レオポルトも、手紙の中で「つましくやりくりしている」と認めていることからも明らかなようです。 しかも、彼女は夫の死後も楽譜をきちんと整理してなるべく高く売却するなど、短期間に膨大な借金を返済しようと駆け回ったことから見てもも、とても無知などころかなかなか世知に長けた有能な女性だったようなのです。 それではなぜそのような非難の集中砲火を浴びたのでしょうか。それは短い9年間の結婚生活で6人の子供を妊娠(そのうち成人したのはたったふたり)したことから床に着くことが多く、一時期は健康を損ねたりして費用のかかる転地療養をするなどしたことが、浪費として大きくイメージに影響しているようです。調べれば調べるほど、「悪妻」とは思えないのです。 それにしてもモーツァルトがこの世を去ったときコンスタンツェは29歳でした。 レクイエムを歌うとき、コンスタンツェの嘆きが聞こえるような気がしませんか。 |