藤沼恵メモリアルコンサート
〜 没後30年記念 〜
1999年12月19日(土) 大分県立総合文化センター 音の泉ホール |
故 藤沼恵先生の残したもの
先生は、県内の秋の主要な文化行事となった県芸術祭にも尽力し、第1回芸術祭では開幕行事として県内外の音楽家を動員して「森の歌」公演を実現した。このほか昭和33年には県の音楽関係者として初めて大分合同新聞社の文化賞を受賞している。またNHK大分の合唱団を造ったほか、昭和25年には第一高女の卒業生中心の合唱団(現大分市民合唱団ウイステリアコール)を結成し、和気あいあいの中にもレベルの高い混声合唱団として県内の合唱活動を盛り上げた。

滝廉太郎銅像除幕式で「荒城の月」を歌う大分上野丘高音楽部と指揮をする先生
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コンサートプログラムから
ごあいさつ
みなさま年末のご多忙の中、ようこそ故藤沼恵先生の没後30年記念のコンサートにおいで下さいました。コンサート実行委員会を代表して心からお礼を申し上げます。
藤沼恵先生が亡くなったのは、1969年(昭和44年)の11月24日のことでした。今年がちょうど没後30年にあたるため、ぜひ記念のコンサートを開こうということになり、去年の暮から発起人が少しづつ集まって計画を進め、まず藤沼昭彦先生をはじめとする諸先生がたに出演をお願いしましたところこころよくお引き受けいただいたことから、今年の1月に実行委員会を発足させて正式に取り組んでまいりました。
せっかくの機会でもあり、できるだけ多くの方に参加していただき、みんなで先生を偲びたいものと考え、記念合唱団を編成することにして昔の名簿などをたよりに呼びかけましたところ、予想をはるかに上回る70人以上の参加者があり、各合唱団からの賛助メンバーも加えますと140人に達する大合唱団
を構成することができました。なお合唱団参加のご案内については、実行委員会も手を尽くしたつもりでおりますが、なにぶん数十年前の記憶を頼りに名簿を作成したこともあり、本来ならご案内を差上げるべき多数の皆さまが漏れてしまいましたことは大変申し訳なく思っております。どうかお許し下さい。
本日は藤沼恵先生ご縁の第一級の演奏者の方々にご出演いただきました。先生にもお喜びいただけるものと思います。どうか皆さまも先生を偲びつつ、すばらしい演奏の数々を最後までごゆっくりお聴き下さいますよう、お願い申し上げます。
藤沼恵没後30年記念演奏会実行委員会 会長 廣瀬幸平
プログラム
1・メゾソプラノ独唱 立木稠子 ピアノ 渡辺朋子
Sanctus グレゴリオ聖歌
あなたはこんな風に F.プーランク 作曲
かもめの女王 F.プーランク作曲
ギターに寄せて F.プーランク作曲
「カルメン」より ハバネラ G.ビゼー作曲
2・バリトン独唱 宮本修 ピアノ 田中星治
歌曲集「冬の旅」より シューベルト作曲
菩提樹 (第5曲)
あふれる涙 (第6曲)
3・合 唱 大分市民合唱団ウイステリアコール
指揮 飯倉貞子 ピアノ 長尾みゆき
Alma Redemptoris Mater Francisco Guerrero作曲
Salve Regina Tomas Luis de Victoria作曲
美しく青きドナウ ヨハン・シュトラウス作曲
− 休憩 −
4・ピアノ独奏 辛島輝治
ソナタ 作品27・第2(月光) ベートーベン作曲
5・ソプラノ独唱 園田みどり ピアノ 花岡千春
北秋の 信時潔作曲
平城山 平井康三郎作曲
母の声 山田耕筰作曲
ふるさとの 平井康三郎作曲
6・テノール独唱 藤沼昭彦 ピアノ 辛島輝治
楽に寄す シューベルト作曲
Ich Liebe Dich ベートーベン作曲
オラトリオ「天地創造」から
アリア ハイドン作曲
7・合 唱 藤沼恵記念合唱団
指揮 飯倉貞子 ピアノ 長尾みゆき
自然における神の栄光 ベートーベン作曲
流浪の民 シューマン作曲
オラトリオ「メサイア」から ハレルヤ ヘンデル作曲
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藤沼恵先生の71年間
故藤沼恵先生は1898年(明治31年)8月11日に姫路市で生まれました。父藤沼良顕氏は当時瀬戸内海一円を巡回するバプテスト教会の牧師だったため、先生は賛美歌を子守歌に育ち、3歳のころから母にオルガンの手ほどきを受けました。その後父の転任で横浜、広島などを経て小学校4年生の時福岡県に住むようになったのですが、すでにそのころには教会でのオルガン演奏を一手に引き受けるほどの腕前になっていたそうです。
小倉高等女学校に入学した藤沼恵先生は、そこで音楽学校を出たばかりの若い女の先生と出会い、どうしても本格的に音楽を勉強したいと音楽学校に進むことを決心します。そして両親のゆるしを得て、母の母校である横浜のミッションスクール捜眞女学校に転校し、進学のため音楽の勉強を続けました。1917年(大正6年)、念願の東京音楽学校選科に入学してピアノを専攻しましたが、まもなく母が病気で倒れたため止むなく中退し、福岡に帰って母の看護にあたりました。3年後の1920年(大正9年)再び上京して女子音楽園に入学、1922年(大正11年)に卒業しました。向学心に燃える先生はなおも学校に残って音楽の勉強を続けようとしましたが、父の命で帰郷し小倉の西南女学院に赴任して音楽を教えました。一年後に大牟田高等女学校へ転任し、ここで8年間教鞭をとったのち1932年(昭和7年)福岡市の私立九州女学校に転じますが、このころようやく勉強のための上京をあきらめて福岡に永住することを決意します。
ちょうどそのころ、大分第一高等女学校で優秀な音楽の先生をさがしているので是非にと、久留米高女の松尾校長に紹介されました。私立においておくのは惜しいという松尾校長の好意だったのですが、先生は本当はあまり乗り気ではありませんでした。それでもその年の8月末にいったん大分を訪れたのですが、音楽の香りの乏しい当時の大分でもあり、知人もいないことからどうにも寂しくてたまらず、すぐに福岡に帰ってしまいました。しかしその後、松尾校長から厳しく叱られた上に、大分からたびたびの依頼もあり、父から「大分はお前が必要とあって招いたことと思うから使命と思ってすべてに忍耐し尽しなさい」とさとされ、1935年(昭和10年)10月24日大分第一高女に正式に赴任し、大分での音楽教師としての生活が始まりました。
いやいや着任した大分でしたが、第一高女にはスタインウェイを含む3台のグランドピアノと多数のオルガンがあったことは、先生にとっては嬉しい驚きでした。こうして教壇に立つと、もともと音楽への情熱あふれる先生の、厳しい教えの中にある優しい人柄に生徒たちがしたい集り、やがて音楽学校に進学するものが次々にあらわれはじめました。先生は特に合唱に力をそそぎ、生徒を集めて女声合唱部をつくり、さらに卒業した生徒も集って第一高女卒業生合唱団もつくりました。厳しい戦時下ではありましたが、なごやかな歌声、美しい合唱が大分の地にながれました。また100人以上の女生徒で鼓笛隊を編成して、出征兵士を見送るなどもしています。
1948年(昭和23年)、学制改革によって第一高女は第二高女・大分中学と合併して、大分第一高校(現在の大分上野丘高校)となりましたが、男女共学となったこの時、おそらく全国ではじめての高校生によるオラトリオ「森の歌」からの混声合唱の演奏が行なわれているのは特筆に値します。また西部合唱コンクール(現九州合唱コンクール)でも、大分上野丘高校音楽部は毎年1位、あるいは上位入賞を続けました。また先生は学校教育以外でも音楽活動を積極的に進め、故辛島武雄氏とともにNHK大分放送合唱団をつくって放送音楽でも活躍したほか、1950年(昭和25年)にはしたい集る第一高女時代の教え子を中心にしてウイステリアコールを結成、間もなく混声合唱団となって定期的な演奏会を開き、現在に至っています。
1958年(昭和33年)、先生のこのような功績が認められ、音楽部門では初めての大分合同新聞社文化賞を受賞しました。さらに1959年(昭和34年)1月には大分上野丘高校の生徒300人によるショスタコビッチのオラトリオ「森の歌」全曲演奏会を開いて多くの人を驚かせました。1965年(昭和40年)には第1回の大分県芸術祭開催に尽力し、10月の開幕行事には県内の音楽人を結集した「森の歌」演奏会を自ら指揮して大成功を納め、県芸術祭としての特別表彰を受けています。この間大分上野丘高校のほか大分舞鶴高校、県立芸短大などでも教壇に立ち、多くの教え子に音楽のすばらしさを教えました。教師を退職してからは自宅でピアノ・声楽のレッスンやウイステリアコールの指導に悠々たる音楽生活を送ってい
ましたが、1967年(昭和42年)6月16日病に倒れ、以後2年4ヶ月の闘病生活を送っていましたが、残念ながら1969年(昭和44年)11月24日に大分県立病院で永眠されました。
先生は、1914年(大正3年)16才の時に父藤沼牧師によって洗礼をうけて以来、55年間にわたりクリスチャンとしての敬虔な信仰生活をおくって来ました。大分バプテスト教会では毎日曜日の礼拝には必ず出席するとともにオルガニストをつとめ、執事役員を歴任し教会の礎となりました。1946年(昭和21年)にはご自分の家庭を開拓伝道の場に提供し、それが今日の大分バプテスト教会となっています。
藤沼恵先生を語るとき、忘れてはならないのは、30年にわたり先生の片腕として影のように寄り添い、恵先生をささえていた妹先生、藤沼喜代先生のことです。妹先生は恵先生とともにピアノを教えながら、恵先生の実質的なマネージャー役をつとめていましたが、惜しくも1962年(昭和37年)1月に亡くなりました。常に姉の恵先生に隠れて目立つことの無かった妹先生ですが、みんな気づかぬところでお世話になっているはずです。
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