爪を研ぐ【小十郎】
シャッ、シャッと小気味良い音がの部屋から聞こえてくる。
数日毎に小さく響くその音は、の両手両足の爪が丁寧に磨かれる音。
食事や排泄を行わない分、爪もそう極端に伸びるわけもないのだが、政宗がふと整えられていないその爪と指先を磨いてやろうと新たな暇つぶし方法を見つけてしまった所為で、小十郎は政宗を食い止める意味での爪を磨ぐという数日毎の作業を開始した。
特に伸びるというわけではないが、よくよく見れば形が歪。磨かれてもいない。女とは思えない童子のような丸い指と手入れのされてない指先は、凝り性の小十郎を燃えさせた。
政宗を執務室に追い返し、ほんの少しの時間の爪や指先の手入れをする。
小十郎にももちろん仕事はあるので、本当に些細な隙間時間での作業。ゆえに遅々として作業は進まず、数日ごと細かく分断して行うようになった。
隙あらば政宗自身がの爪を磨こうと飛び込んでくるので、一時期は小十郎が最初からの室にて仕事を行う待ち伏せ方式すらとられた。
「ずりぃぞ、小十郎」
「何がずるいのですか、政宗様」
障子を開いた姿勢のまま顔をしかめる政宗と、書簡に筆を走らせながらため息を吐く小十郎という場面は、場所は違えど良く見られる光景のひとつ。やはりそんな空気の中、目覚める素振りも見せないに、第三者が居れば呆れるのもよくある光景。
爪だけは小十郎の領分となってしまってからは、政宗は以前よりさらに政の処理に要する時間が短くなり、次々と案件をこなしていった。ある意味一石二鳥だとほくそえんだのは小十郎。綱元と成実はそんな双竜に呆れ顔をしながら、寝言で腹減ったとへたりこむをあやしたりした。
伸びぬ爪は、伸びぬのではなく定期的に短くなっていると小十郎が知ったのは、爪の処理をし始めてようやく二週間が経とうという頃。
足の爪にようやく右手の処理が終わり、ささくれていた指の痛ましさも大分薄れた頃、左手に取り掛かった小十郎はその光景に目を見張った。見張ったというものではない。
ゆっくりと消失していく、左手親指の伸びた爪先。刃物か何かが切り取ったかのように消えていき、取られた爪は落ちることなく消えていく。
ばちりばちりと、音がなるほどの勢いで消失していく指先もあった。あっという間に短く切りそろえられる爪は、その後丁寧に処理される素振りもなく短いまま。
小十郎はの左手を研ぎやすいよう持ち上げた体勢で、しばし現実を飲み込む作業に苦労した。
「……」
どういう理屈かは分からないが、勝手に爪が短くなるらしい。
それぐらいしか飲み込めないが、小十郎は一応その事実を受け止めた。以前から面妖な生態のだからこそ、目に見えたものは受け止めるしかないと学習していた。
けれど、解せない。
まるでどこか別の空間より、その爪が切りそろえられているような面妖な光景だった。
今は小十郎の仕事だと言うのに。
責任感の強さからか、小十郎は渋面を作りながら勝手に短くなった左手の爪を見つめ、切られただけの爪を整える作業に入った。
もう少しやりようがあるのではと思うほど適当に短く切りそろえられたそれに、小十郎がやるなら最後まできっちりやりやがれと思ったとか思わないとか。
そして爪を研ぐという作業に、別の意味をも小十郎は見出していた。
その爪が主を傷つけぬように、その爪が自傷へと走らぬように。
今の今までそのような素振りが無かったため、現在はそのようなことをしないだろうと見当は付いていても、色々やりつくした後となればまぁ目に留まる。爪は人間の原始的な武器のひとつである。
やろうと思えば皮膚を削ぎ、穴を穿ち、何がしが抉り取ることも可能となる指と爪は、間合いを詰められているときは凶器となりえる。眠っているは拳や平手、蹴りなどの動き程度で心配無用と分かっているが、本当にもうやるべきことはやった後、ついでにさらなる無力化を執行してみた。は爪を切るとき、どんな体勢であろうとも一応の沈静化を見せる。暴れていようとも寝息を立てていようとも。
もういっそ周りが見えているのではないかと言った反応だが、もうそれこそ今更で小十郎も反応しない。
傍らに常に刃を従えて最低限の警戒は見せているものの、侵入者もの目覚めもなく至って穏やかな空間が広がるばかり。
のんびりとした空間の中、爪を研ぐ音と穏やかな寝息がゆっくりと流れていった。