第三者【甲斐】


 鍛錬に精を出し、己の肉体を鍛え上げるだけでなく精神も修練を積む。
 どの国にて寝起きをしようとも、幸村の日常は変わらない。
 奥州から甲斐に戻っても同じことだと、幸村は移動時の疲れなど知らぬ素振りで鍛錬を繰り返す。
 振るわれる槍の先に見えるのは、昨日の己であり明日の我が身だと言い聞かせ、繰り返す動作は鋭さを増しその速さは虚空を斬る。けれど目に見えぬ敵へと振るわれるそれは、いささかのゆがみも無く次の動作へと移り、また別の動きへと移行していく。
 幸村のその鍛錬の様子を、縁側にて眺める信玄はゆるりと口の端をあげた。
「あやつも男となるか」
「そりゃどうでしょうね」
 旦那のことだからと、軽口を叩きながら音も立てず佐助が縁側の傍、土の上に舞い降りる。
 前触れも無く降り立った佐助に、信玄は面白そうだと感じる心を隠すことなく、目に乗せて佐助へと視線を向けた。
 その目は気安い同胞に向けるような、悪友に向けるような、二人の立場を忘れたような無邪気な目。
 佐助はその目に悪い予感を覚えながら、何を言われるのかと一瞬身構える。
 信玄はその佐助の様子に愉快さを隠さず小さく笑い、信玄にも佐助にも反応しない幸村へと視線を映す。
「幸村より重症の者がおったか」
「大将、お疲れ気味?」
 なんのことやらと笑みを浮かべた佐助に、なんのことじゃろうなと笑い返す信玄の声は愉快さを増していて、佐助の反応に満足していると伝えてくる。
 その反応に佐助は脱力して肩を落とすが、信玄は撤回する様子も見せず楽しげに笑うのみ。
「たいしょー」
「忍ぶ道とは、険しいのう」
 茶目っ気たっぷりにからかってくる口調は、佐助を叱るでなく煽るでなくからかう楽しげな雰囲気のみを伝えて、佐助の眉はますます力なくうなだれた。


 幸村はそんな二人の会話に耳を傾けることもなく、一心不乱に己を高めていたのだが、ふと振り切った槍の先をそのまま地面へと突きたてた。ひとつ息を吐き出し、近くに置いてあった手拭いで額の汗を拭う。
「……っは」
 こぼした呼気は荒いものだったが、外界を映すその眼は迷いのひとつもなく澄んでいた。
 肉体の疲れは、幸村の精神を研ぎ澄ませるだけで、口元に浮かんだ笑みは晴れやかに引き締められる。
 手拭いを洗おうと背後の手桶へと視線を向けた幸村は、そこでようやく己へと意識を移した。
「お館様! いかがなされましたか、このような時分」
 先ほどまでの一心不乱さはなりを潜め、嬉しさを隠そうとしない満面の笑みに、眺めていた信玄も佐助もつられて笑みがこぼれていく。
「いやなに。……幸村、精進しておるようじゃな」
「っ! お、お館さばぁああああ!!」
「幸村ぁああああああああ!!」
 信玄が己の様子を見に足を運んだのだと理解した幸村は、感激に震え即座に聞きなれた歓喜の雄たけびを上げる。信玄も嬉々として同種の咆哮を響かせた。
 かと思いきや、佐助がため息をこぼす間もなく拳同士での語り合いが始まった。
「……やれやれ」
 いつもの事だと多少気疲れしながらも佐助は笑うが、ゆるりと思考に流れ込んでくる先ほどまでの会話にしばし意識を傾けていた。
「重症、ねぇ」
 信玄の言うことだ、自身が意識していない何かがあるのかもしれない。
 笑って流した会話だったが、何か佐助自身隙や油断などが出ていたのならば、認める認めない以前に仕事に支障が出てしまう。それだけは、自分の存在意義としてなによりも認められない。
 目の前でのある種微笑ましいやり取りを眺めながら、佐助は信玄の言葉を反芻していた。



 幸村が奥州へと足を運ぶ機会が多くなった。
 それと同時に、政に対する逃げの態勢が少なくなったことも、耳に挟んだ。
 報告する者達は皆、前者を苦々しく告げ、後者を誇らしげに口にしていた。
「ふむ」
 己の立ち位置を再度認識し、気を引き締めただけならば問題ないのだが、数ヶ月前に聞いた報告から関連する事柄だと分かっているがゆえに、信玄もおいそれと幸村の事だからと受け止め嬉しがることは難しかった。
 佐助の報告から、幸村が自身の未熟さを知ったのも聞いている。
 具体的に天下統一・統治された世の平和さに、何か心打つものがあったのだろうという推測も容易に出来る。
 女子一人の戯言と、全てを信ずるは危なしと言われようとも、幸村が見定め見据えるものを信玄は間違いだとは思わない。
 ゆるりと己の顎を撫で、信玄は目を細めて笑いを浮かべる。
 佐助も影響されていることは、明らかだった。
 主の成りようを目の前でつぶさに見ているのだ、影響されぬはずもない。
 けれど、その成りようは幸村とはまた違う方向からだというのを、信玄は知覚していた。
 感覚が鋭ければ鋭いほど、あらゆる情報を吸収し、判断しようというのは当たり前のこと。
 だがしかし、それだからこそ影響力が強いというのも、また然り。
「過信しておったか」
 くっくっくと笑いを漏らし、息子というには若い忍びの姿を思い起こす。
 幸村は戦いの嗅覚においては、やはり信玄も信を置くほどのもの。それゆえの暴走もあるが、結果は必ず出している。信玄が目こぼしをしても周囲にしかたがないと思わせるほど、幸村が実直であるということも一因となっている。
 が、側近である佐助はまた違う思いがあるのだろう。微笑ましいやり取りや、それでも従い指示以上に動く様がまた信玄の笑みを誘う。己の意を無言で汲み取る部下など、金をいくつ積んでもなかなか得られるものではない。
 幸村が警戒心の薄いと思われる部分は、自らが警戒しようという姿勢も好ましい。
 幸村だとて名のある武将。薄いといわれる警戒心を人一倍持ってはいる。けれど忍びである佐助から見ると、まだまだなのだと呆れ顔をされているのも、仕方がない。

 そんな佐助が警戒していたはずの女子に、眠ったまま懐柔されているというのが、信玄にはなんとも愉快だった。調べても調べても怪しい箇所しか出ないはずの女子に、ともすれば四六時中監視した日々もあっただろうに、起きてもいない女子の心配をするまでにいたった心理を思うと、面白くてたまらない。
「起きた暁には、話をしてみたいものよのう」
 うっそりと愉快さを隠そうともせずつぶやかれた一言に、気配もなく護衛として控えていた忍びが小さく笑いと共に、己の意見を返した。
 含まれた意味は、もちろん同意の一言。
 若き武将と忍びに変化をもたらした異世界の、ある種異邦の民と会話する日を、慎ましやかな風の流れる自身の館の一角で、信玄はひっそりと心待ちにしていた。
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