未使用の布地【政宗】
ひらりと黒脛巾の手から取り出されたそれは、どこか安っぽく見えた。けれど手にとって見れば中々しっかりとした織り生地で、つむぎが悪いのか手触りは慣れぬ感触だと政宗は判断した。
「おい、こりゃなんだ」
聞けばが最初から持っていたものの一つ、ごく一般的な布生地だと返された。
これが一般的なのかと首をかしげ、眠っているの顔をちら見する政宗の目は、不思議そうに瞬くもので不審な気配はいまやなく、それを感じた黒脛巾がひっそり口元だけで笑うのを誰も察知しなかった。
政宗は何度か両手でその生地をいじくり、軽い力で伸ばしてみたり歪めてみたりと強度や感覚を確認し続け、小さな声でどこか納得しない顔のまま生地を眠っているの布団の上に置いた。うつぶせに寝ているの横顔と黒の色合いの明度差を、政宗の目が交互に見つめる。
の世界では当たり前に存在した黒い布生地は、予定では踝より下までの長さにするか、それとも太ももまでの短いものにするか悩んでいたもので、いわゆるシンプルなパンツになる予定の生地。自分用なのでそれほど高い生地を買っているわけもなく、適度に丈夫で洗濯しやすい物が選ばれていた。
そのため、戦国時代にそのような生地があるはずもない。似たようなデザインの服装は数あれど、基本戦国時代に酷似した世界在住の政宗たちには、その生地が何であるか正確な判別が付かなかった。
けれど黒色というのはもちろんどちらの世界にも存在していて、未使用の布地であることから綺麗なまま。購入してから数ヶ月以上経ったといえども、それなりに管理していた色は美しいままだった。
政宗の目が、ゆっくりと優しく細められる。
「黒も似合うな」
寝ているとはいえ女なのだからと、それなりに華やかな色合いのものばかりを着せていたの寝姿ではあったが、黒も良く似合った。政宗はどこか嬉しげに呟き、頭を垂れている黒脛巾を振り返る。
「他のも持って来い」
「御意」
すでに以前報告は受けていた。興味がわかないからと布生地など見もしなかったが、政宗は当たり前のように命を下した。黒脛巾も文句を言うわけもなく、即座に姿を消す。
その布生地は袴のようなものを作る生地らしいですよなどと、余計なことは言わずに消えた。
「……政宗様、そのように置かれては寝苦しくなります」
「OK,だがもう少しな」
「……もう少しだけですよ」
黒も似合うなら黒地になんの模様をあしらおう、どの華にするか蝶にするか両方にするか、それともこっそり家紋をあしらったものを着せるのも良いかも知れない、さてどうしたもんか。
楽しそうにあれこれ考えをめぐらし、優しい眼差しでを見つめる政宗の姿に、喜多は仕方がないとため息を吐きつつもその危険を肌で感じていた。
誰も彼も頭では分かっているようだが、現在を真の意味で警戒しているのは喜多くらいであろうことを、彼女は強く認識していた。
何かあれば斬ると躊躇わず小十郎は答えた。けれどその目は、そのような事態をありえないものとしていた。
起こるわけがねぇと一笑した政宗に躊躇いはなかった。小十郎よりも明確なる信頼は恐ろしく強固だった。
黒脛巾とは滅多に口を利く事態などなかったが、喜多は躊躇わずに聞いた。黒脛巾の返答は喜多の杞憂だという抑揚のない返答だった。どこか平坦なそれなのに、目は政宗と同じく躊躇う素振りも見せていなかった。
主が信じるものを盲目的に信ずる家臣は、真の家臣にあらず。
けれど彼らの躊躇いのない瞳は、己が目で見極めたのだと告げる。
喜多は、己が目で見てを信じられるはずもない。
当然だろう、眠り続ける人間とどう信頼関係を築くというのか。
己の弟は、主は、どうやってそこまで信を彼女に置けたのか、喜多には皆目見当も付かなかった。
彼らが良く聞くと言う寝言を、喜多は今のところ一度も耳にしたことがない。
むしろ、そのような寝言や寝相の人間なぞ生まれてこの方見たこともない。
喜多は自分が信頼する人間すべてが喜多をだましているのではと、そう思いたくなる日もあった。
彼らが疑わないのならば、信じて尽くさねばならない。もし危険な人物ならば、世話をしている自分がどうこうできる人物でもあるということ。弟や主にどれほどの処罰をされようとも、彼らを守るのは自分の役目だと喜多は心得ていた。
「政宗様」
「ん」
しばし時間も経った頃、喜多が静かに声をかければ抵抗も薄く政宗は黒い生地をの上から退けた。
喜多の目には、嬉しそうに目を輝かせた政宗がなぜそのような表情をするのか、そのように優しくいたわる手つきでの頭を撫でるのかが分からなかった。
喜多の見極めようとする視線は分かっていた。
政宗は存分に目と頭でに似合う着物の模様を照らし合わせ、己の手での存在を確認すると一応の満足をため息にて吐き出した。
女の髪を結い上げることなど政宗には出来ないのだが、今から喜多に習おうか。けれど良い顔をしないだろうことは想像に難くなく、けれどそこらの女中を捕まえるのもあらぬ噂が立ちそうだ。
さて、どうしたものかと政宗は考え込み、己の右目をまず候補に上げてみる。
己の幼少時に髪をいじることなどもしていたはずだが、女の髪はどうだろうか。得意そうには見えないなと、一応保留をした上で政宗は候補から小十郎をはずした。
そのうちあれやこれやと伊達の人間を上げてみたものの、の存在を知らせている者もごくわずか。その中から女の髪結いが出来る者など高が知れている。
「……」
だが、それしか選択肢がないならしかたがない。
政宗はまた醜態をさらすのかとうんざりしながらも、喜多に下がるよう一言放り投げる。
喜多は文句ひとつ言わず、頭を垂れて即座に退室をした。けれどその目が、その態度がに油断するなと告げてくる。小十郎まで大分ほだされてしまった今、喜多は己が最後の砦となろうとしている。
その忠義はありがたい。この世ではその目が、心根があり仕えてくれる者など限られている。喜多は政宗にとって、なくてはならない家臣の一人だ。
ゆるりと一人だけとなった空間を確認し、政宗はひとつ声を上げる。
即座に姿を現した己の忍びに、政宗は視線を向けた。
「お前、町人に紛れるような潜入任務はこなすほうか」
淡々と問いかけたその言葉に、ひとつ呼吸を置いて忍びが口にした返答に、政宗は自分の阿呆さ加減に嫌気が指しつつ、次の言葉を言うかどうか悩んだ。
以前醜態をさらし、猿飛佐助に牽制しろと命じた忍びではない、此度目の前に居る忍び。
別の忍びに醜態をさらすのかと思いつつも、政宗は自分の欲求を満たすために口を開いた。
「女の髪は、結えるか」
「………………是」
嫌に間の置かれた返答ながら、政宗の望む返答。
政宗は主としての威厳やらなにやら色々葛藤のさなか、ひっそりと、忍びでなければ聞き取れないほどの小さな声で、小さな小さな命を下した。
政宗の前にて頭を垂れている忍びがに助けられた忍びであり、時折の髪を弄ってやっていたという事実を知る者は、その場には居なかった。
「……」
なんでそんなことなってんだ。
主の命での持ち物の中から、布生地ばかりを抱えて戻ってきた自称他称ともに「誰かさんの飼い主の忍び」である男は、目の前に光景に絶句した。主を前にべらべら喋るほうではないので特に不自然でもなかったが、その光景は予想だにしていなかった。道理でおかしな気配だと思ったと、納得は出来たが絶句は続く。
そんな忍びの姿に声をかけるでなく、政宗の自室にて開かれているのは女の髪の結い方講座。
結われているのはくノ一が一人、結っているのはに助けられた忍び、それを筆にて書きとめ時折覚えるように結わう真似事をしているのは、奥州筆頭であるはずの伊達政宗。
「……」
何が起こってんだこれ。
口には出さなかったが、手元の色鮮やかな布地が笑っているような気すらするほど、とある忍びは絶句した。
胸の中で「猿飛ー、俺と一緒に苦悩しようぜー。目の前の光景信じらんねぇー」と棒読みで乾いた笑いをこぼしたりもした。
「……政宗様、お持ちいたしました」
けれどそこは忍び。内心を押し殺し、命を遂行する。
音もなく入室し、部屋の隅にて頭を垂れる。持っていた布生地が分かりやすいように抱えなおすのも忘れない。
政宗は集中していたのか、小さな声で「ん」とひとつ返答らしいきものをうったあと、しばし髪をひと房結わうことに没頭していた。
けれど簡易にだが結い上げが完了すると、忍びに目をやり頷くというやり取りの後、ようやく視線が布生地に向く。
「それで全部か?」
「御意」
すべての布生地といっても、女一人が持ち運べる量。それほど重いものを持ち運べるわけでもなく、けれどどれもさりげなく長さはある。一部の布地は応急処置に使ったため酷くいびつで短いが、どれも洋服程度なら失敗は許されないが作れるほどの長さ。
どれもシンプルな色の布生地で、柄があっても小振りのものばかり。決して派手ではないが、どれも機械により織られた上、素材はポリやらアクリルやらを含んだものばかり。政宗たちの服装がいかに現代に近かろうとも、革ジャンを着ていようとも迷彩柄であろうとも、リーゼントであろうとも暴走族であろうとも、やはりの一般的なものと製法からして違っていた。
躊躇わずに手に取った政宗は、透かし眺め触れて引っ張りとあれこれ布生地を調べ始めるが、その目は疑いなど欠片も含んでおらず、好奇心旺盛で幼げなもの。
が来てからというもの、表情に無防備なものが増えたなと実感するのは忍びたち一致の見解。
無防備な表情とは言っても、政宗の態度が無防備であるはずもなく、忍び達は何の心配もしていない。逆に主の警戒度は精度を増し、その身のこなしは鍛錬にて速度を増すほど。さらにはひとつの案件を完了させる時間すら、日々短縮されていくほど集中力は増しているらしい。
なんの憂いも無く、なんの問題もない。
喜多の憂いが分からぬ忍び達ではないが、それこそ無用の心配というべきものだと認識しており、むしろ政宗が起きてからのの姿に失望して斬りかかりはしないかという、ある種怖い心配はしている。
普通の女であり、菩薩などの慈悲深い生き物ではないと知ったとき、政宗がどう動くか。今ですら大部分本性をさらけ出した寝相や寝言であるが、起きたときのその普通さを見て、どう感じるか。
主に刃を向けるなど、したくないものだ。
ぽつりとこぼれた胸中の言葉は音とならず、けれど誰かの胸中にて漏らされた。
「これで何を作るんだ?」
「ようふく、と言う異国の衣装とのこと。着物に変わり、身に着ける一般的な服装だと聞いております」
忍び達は、自分達より年下の主にひとつひとつ丁寧にの言葉を伝えていく。
好奇心に目を輝かせ、時折を見つめる政宗の優しい眼差しに温かい気持ちになる。
そのような一連の表情の移り変わりなど、ついぞ見たことが無かったものではあるが、ここ数ヶ月は頻繁に目にする。少し観察していれば、の眠る部屋でならそれこそいくらでも。
できれば主のこの表情が永久に続いて欲しいと、忍び達は己の主の穏やかさに目を細めた。