解決法【黒脛巾】
「の阿呆がまだ目ぇ覚まさねぇ」
男はぶすりと顔をゆがめ、仕事着のまま不機嫌を遠慮なく振りまいて愚痴る。胡坐をかいた足元、床に置かれるのはどう見ても酒。猪口に注がれたそれはゆらゆら波打ち、先ほどまで男が中身を口にしていたと物語る。
「……仕方あるまい」
小さく、けれど確かに言葉を返すのは別の男。
同じく胡坐をかき猪口にて酒を口にしているが、着用しているのは着流し。本日は滅多にない休日ということもあり、くつろいだその姿は数ヶ月前、に助けられた血塗れ姿が嘘のよう。
「主たちはあいつの背、床擦れで膿ませやがったし」
「…………お前も同罪だろう」
自らも黒脛巾の代表として、むしろ率先しての世話を焼きに言っていたはずの男に、着流しの男は呆れた声音をにじませる。
お前が気づかないのならば、主たちも気づきようがあるまいといったその空気に、愚痴を垂れた男はひとつ表情を止め、ゆるりと肩を鳴らして悔しさを隠さずに目を細め、笑った。
「まぁな。でもよ」
そこから先は言葉が続かないのか、自ら片手で自身の髪を掻き回すと、無言で猪口の酒をあおる。
言いたいことはなんとなく判るが、普段から口調の少ない着流しの男はひとつ視線を向けるのみで、手の中で猪口の酒をゆらゆら揺らして遊ぶ。こうしてから酒を飲むと、いつもよりまろやかにお酒が飲める気がすると笑っていたのは、どこの正体不明な女だったか。
考えるまでもなく、着流しの男は一人の女を思い出した。
本当の意味で自分達に馴染み始め、のんびりほろ酔いで猪口に口をつけていた。
基本的に辛口は駄目だとかいいながら、勧めれば口をつけるその姿はいつまで経っても戦々恐々とした風情で、わいわい調子に乗った連中が何度も酒を勧めているのを眺めていたこともある。
そのたびに、自称飼い主であり着流し男の目の前で愚痴っている男が、笑顔のままで蹴散らすように酒を遠ざける光景も、何度となく目にしていた。けらけらと男の取り乱しように笑い、どこか少し安堵の表情で猪口を膳に置くの姿は、やはり断りたくても断れなかったのだと物語る。
ゆらゆら猪口の中の酒を揺らし、口の中で転がすように飲むとまろやかになる気がすると、真面目な顔で酒と対峙するその姿は子供に見えぬがどこか幼く、実際の年齢を聞けばその年齢と比べてしまい、印象はさらに幼くなる。
『その歳でそのような態度だと、お前の旦那はさぞや年上の器のでかい男なんだろうなぁ』
酔っ払いの誰かが口にした一言に、は苦笑いをひとつ。
の口にした情報、その身体から知りえた全ては長の下に集められている。ゆえに、必要とあらばいくつかの情報はその屋敷にて過ごすすべての忍び達に伝わっている。
その場に居て酒をあおっている男達も女達も、それこそ当たり前のようにがいまだ女として成熟していないことは知っていて、共通認識としては、がこのように穏やかなるは今までの生活が幸せだったということで、の相手は年寄りすぎて手も出さないが仲は良好、いわゆる好々爺なのだろうと推測を立てていた。
男を知らぬは見れば分かり、身体に聞いたのだから確実であった。
ゆえに、特にその類の話題を出したこともなかったが、の苦笑いから大体の人間が肯定の言葉を口にするのだと思っていた。
が、の苦笑いは意外なものを吐き出した。
『いや、私くらいの若さで結婚する人、そう多くないですよ?』
『……は?』
『いえ、は、じゃなくて。まだまだ親の世話になる人も多いくらいですし、んー最近の女性で初婚平均年齢は、三十代後半だったとか統計が出ていたような』
『…………はぁ?』
世界が違うと口走ってはいたが、その場の人間の驚きはあっという間に広がっていった。
旦那が居るいない、どのような男か貧乏か金持ちかは女の矜持として隠すことかもしれないが、すでに孫が居るような歳で初婚だとか言う話は、聞いたこともない。
誰もが忍びであるこの屋敷。
多少酔いが回っていようとも、大部分は素面といった有様な室内だというのに、丸くなった目がそれこそ大多数を占めたその空気は異様なものと化していた。
その空気にぎょっと目を見開いて辺りを見回し、おそるおそる口を開くの口は引きつっていた。
『あー、私の世界の歴史でも、戦国時代と称される時代では……えーと、人生四十年とか五十年とか言われていたらしいんですけど、私が暮らしている時代では、平均寿命八十歳ぶっちぎってるんですよ、日ノ本』
『はぁ!?』
『しかも世界中で一番平均寿命長いです。いえーい!』
驚かせたことに面白さが湧いてきたのか、先ほどまでの引きつり顔が嘘のように笑い出したは、二本指を立ててを鋏のように動かす。
以前『ぴーす』という『ぽーず』だといっていたそれは、日ノ本の外の言葉で『平和』という意味を含んだ名称であり、指遊びでも使う『ぽーず』だと言っていた。
指遊びは小さな勝負事にも使えるとも言っていたが、飼い主と名乗る男がそれを知ると、度々指遊びにて勝負を仕掛けている場面を見かけ、なかなか和やかな場面に遭遇したこともあった。
「なぁ、聞いてんのかよ」
男の愚痴がやみ、少し愉快そうな色を滲ませて話しかけてくる。
回想から戻ってきた着流しの男は、表情を変えることなく猪口を揺らす。
「聞いていない」
「分かって聞いてんだよ」
暗に話せといっているのだろう追求に、着流しの男は視線を向けずに猪口に口をつけた。
ゆらゆらと揺らしただけの酒だというのに、回想の力もあってか幾分か柔らかくなったような気がするその口当たりに、が得意げに笑う姿が想像できて、ひっそりと胸が温かくなる。
愚痴を漏らしていた男は、ひとつ鼻を鳴らすと着流し男の態度も楽しむかのように笑う。
「お前も大分表情出すようになったよな」
「……そうか」
「ん。大分年上に対しても素直になったしな、いいんじゃねぇの?」
愉快そうに喉を鳴らして笑い愚痴を小休止させたのか、一応の年長者の風情で男は酒をあおる。
「誰かさんのおかげなんだか、誰かさんの所為でといおうか、なぁ?」
「……」
頷きもしない着流しの男は、ゆるりとまた猪口に酒を注いで揺らす。
けれどその行動そのものが肯定だと、返事だと分かっている男は笑う。
「退屈しねぇよなぁ」
幾分か間延びした声で、着流しの男から視線をはずして笑う。
縁があり秘密保持の為に拉致をした女は、変な女だった。
噛み付いてくるほど気が強いかと思えば、どこかの雛のように最初に出逢った男の傍を付いて回り、自分が世話を焼かれる立場ということも理解せず、なにくれとなく男の世話を焼こうと動き回っていた。
着物の着方も分からない、箸の使い方も下手、気を抜けばすぐに背筋は丸く縮む。
身に着けているものが奇妙なら、持っている荷物も奇妙。
言っていることがおかしければ、考え方もおかしい。
検めたところ、身体は忍びでもなく町人でなく農民でなく、もちろんどこぞの姫君や遊郭の女ということもなく。
警戒心が強いかと思えば、人見知りの素振りを見せつつも自分から積極的に話しかけてくる。
自分の荷物だと必死で奪い返そうとしたくせに、自分からひとつひとつ用途の説明をしてきたこともあった。
何もかもを取り上げるのはたやすく、嘘を真実と思わせるのもたやすかった。
下手をすれば、どこぞの農民の子の方が賢い。
けれど自分の世界の話だと前置きし、話すことは絵空事なのにどこかずしりとした現実味を持つものばかり。
頭の悪い部類だと自分を卑下しつつ、油断なく自分達から情報を引き出そうとする目は隙を見つけようと必死だった。
感情も、心情も、その身体の波もなにもかも簡単に、手に取るように分かった。
一通り検め終わり監視の力も緩んだ頃、女は一度心を閉ざした。
閉ざして、こじ開けたのは朱色。
見開かれる目、凝ったように光をなくした瞳、がたがたと音がなるほど震えた身体が、現実を拒絶するように恐怖心をあらわにしていた。
『……』
音もなく口を開閉させ、見上げてくる瞳は徐々に感情をよみがえらせていく。
何度も何度も、音もなく呟かれる謝罪の言葉。じわりと滲んでくる涙。幼子のように戦慄いた唇は、縋るようにいたわるように伸ばされた両腕は、必死で健気で愚かだった。
ふと、主の言葉がよみがえる。
猿飛の驚愕に見開かれた瞳の奥を思い出す。
『本当なら、お前が近づくことも許したくねぇ』
間違うことなき、己の口から吐かれた言葉。主の命で、猿飛を牽制する際に用いた言葉。
けれど、その命を遂行している最中に、一欠けらたりとも己の心情が混じらなかったかといえば、答えは決まりきっていた。猿飛に言われるまでもなく、主に命じられるまでもないことだった。
『さて、な』
己の愉悦を含んだ声音を思い返す。
まさしくを己の所有物だと言いたげな、己が有利だと主張した声音。
……の異常に気づけず苛立ち、主の命を良いことに猿飛を牽制し八つ当たった子供じみた自己主張。
そんな風に感情を吐き出した自分は、忍びではないのだろうと気づいている。
いつものように笑って会話して、笑って偵察して、笑って斬り殺して、笑って毒殺して。
猿飛くらいまで切り替えが上手く出来ればいいのだが、面倒なため全ては笑って済ませていた。得体の知れないものを前にしても、死に直面しても、笑って済ませてきた。流してきた。時には浮かべなれた笑顔を活用して、相手の警戒心を削いでいた。
はそんな笑顔を、本物にする。
なんてことない、得体の知れない女。殺すのも生かすのもたやすく、嘘でも本当でも見破れずにからかわれる女なのに、相対することが楽しいがゆえに、見せ掛けだけの感情が本物になっていく。
退屈させない女。
面倒ごとすら、愉快だと思わせる女。
とんだ拾い物をしたものだと、いまだ目を覚まさないを思い、男は小さく息を吐き出した。