解決法【幸村】
殿が、初めて自身の状態を訴えた。
目覚める予兆かと期待した某は、なんと愚かだったのだろう。
「殿……」
本来は家名もあるを、殿と呼ぶのが相応しいかと思うのだが、女子を家名で呼ぶのはやはり違和感を生じさせる。
殿の世では、親しくなれば名を呼び合うことも当たり前であるが、まずは家名での呼び合いが通例であるらしいと聞いた。
女子が家名を名乗るような世でも、やはりそのような通例は同じなのだなと妙に感心したのを覚えている。
佐助が黒脛巾の者たちから聞いた殿の話は、不思議に満ちておる。
起床時間、就寝時間の差異。その差異を生み出す、『でんき』という灯り。
武士も町人も商人も農民も、さらには女子も男も差なく努力すれば好きな仕事に就けるという話。
天下は統一され、国同士の出入りが自由になり、戦もなく豊かになったという情勢。
日ノ本の端から端まで、一日ほどで行きつけるという『ひこうき』という移動手段。
至る所に備え付けられ、ひとつ捻るだけで水が使える、井戸を改良した『すいどう』というからくり。
知識を分け隔てなく与えるために制定された、『ぎむきょういく』という教育制度。
誰でも文字が学べ、歴史を見聞きでき、数字をはじき、武芸に傾倒できる世の中。
経験を積み年齢を重ね人望を集めれば、武の者でなくとも女子であろうとも政に関われる世界。
海を渡った遥か異国の地では、女子が血を継ぎ、当たり前として国を治めている世もあるらしい。
不思議で面妖な話ばかり。
職人の代わりにからくりが糸を紡ぎ機を織り、着物を作り続ける仕事もあるらしい。
の世では、手織りや手刺繍の方が高価だとか。某の世で当たり前のことが、希少だと言われる世があるとは思いもよらなかった。
そのような世で生まれ、育ち、気が付けば傷つき倒れた黒脛巾のそばに居たという殿。
どれほど戸惑ったことか、どれほど恐ろしかったか。
話を聞けば聞くほど、の住まわれる国の豊かさと穏やかさが伝わってくる。戦が世から消えたわけではないと口にされても、その身に刃が迫らぬは事実。時折そのような事件もあると言う話だが、殿は黒脛巾の者を治療した際、初めて『人を傷つける為の道具で傷ついた者を見た』と言ったらしい。
穏やかなる世で生まれた殿。
寝言にて紡がれる言葉達も、喜怒哀楽はあれど穏やかな世としか思えないものばかり。
『ゆき、ゆきくん、ゆきむら』
時折呟かれる名に、某と同じ名が混じることも幾多とあった。
それは幼子をなだめるような口調であったり、友人と交わす気安い口調であったり、……懇意にする者、との、口調であったりと種類も多く、けれどどれも厭わしさなど微塵も感じられぬものばかり。
それは佐助と同じ名のものでも同じ。政宗殿たち、他国の武将たち、はてはお館様と同じ名の者も。
多くの者を愛し、多くの者に愛されている殿が垣間見える。大きな争いなど垣間見えることのない、平穏な世。
「殿……、殿は」
目覚めぬほうが、幸せなのであろうか。
ふと湧いて出でたる選択肢は、酷く甘美なものに思えた。
某がその目を見て話すことも、その声と共に会話をすることも出来ぬが、恐ろしいものも見ずにすむ。
この世は戦にて意志を通す、刃にて道を切り開く、血の道を進みて太平の世を築かんとする。
眠りに落ちていれば、その一切を体感せずにすむ。鼻の利かぬ血塗れの大地を知らずにすむ。笑顔で常に優しい者達が、戦にて人を殺す姿を知らずにすむ。傲慢不遜な者達が、戦にて正気を失い首が飛ぶのを見ずにすむ。
日常に必ず潜む、剣呑な戦の香を覚えずにすむ。
黒脛巾は確かに忍びの者。率先し、情報を集め敵の命を奪うもの。
けれど黒脛巾たちが暮らす屋敷まで、血の香りは届かない。大量に失われた魂の叫びを聞くこともない。
それこそ痕跡など残すはずもなく、殿に不穏な気配は悟らせまい。
そこまで考えずともよいのだと、分かっていても思考はめぐる。
「殿」
彼女の意識に、武将である幸村の存在はない。
触れて話しかけても、応えるのは彼女の世界の者に対してのみ行われる。
時折世界が交錯し、色よく返答をもらえても会話などというものにはならず、ただ少しの悲しさとほほえましさを植えつけて、彼女はまた己の世界へと意識を向ける。否、常に意識は彼女の内に向かっている。
だからこそ、彼女がその背に出来たものの苦痛を訴えることなど、目覚めの予兆くらいにしか思えなかったのだ。
悪いことをした。
うろたえ声を上げていただけの己が、どれだけ矮小な存在かと落ち込んだ。
けれど、いの一番にその彼女と言葉を交わせたらと思ったのは、恥ずべきだが本心。
……されど、言葉を交わすにいたらなかったのは、今までと同じ。ただ、彼女の痛みを長引かせてしまっただけに過ぎなかった。
「…………」
未熟者だ。未熟者過ぎて、眩暈がする。
歯をゆるく食いしばり、けれど口から言葉をこぼすことも出来ない。
目が覚めたら、いの一番に謝罪を。彼女に謝罪をせねばと急く心は、どう転んでも彼女の目覚めに立ち会いたいという本心を隠す素振りもない。そんな己の思考に笑いすらもうこぼれない。
せめてまだ目覚めぬ彼女の為、手伝いにやっている佐助に負担が行かぬようにと、己の政務を処理しておくことしか出来ることがない。なんともどかしい事か。
ひとつ物憂げなため息を吐き出し、己の城から届けられた紙の束を見やり、幸村は乾ききった墨をすることから再開した。