解決法【佐助】
佐助はいつものようにその場所に近づき、すでに入室者がいることに気づいた。
の床擦れの件だろうと、知っている気配にひとりごちてわざと足音を立て、障子の前に姿を現す。
「失礼しますよっと。床擦れ、ひどそう?」
開けた障子から顔をのぞかせると、顔なじみである黒脛巾の一人と、喜多が佐助を振り返る。
黒脛巾は静かにうなずくにとどめ、喜多は「ああ、真田の」と小さく呟いてから、真剣な表情を引き締めてうなずいた。
「よくもここまで放って置けたものです。爛れていますよ」
「いやー、黒脛巾が世話してるってんで、俺様は一応手出ししない約束になってたからねぇ」
「それでもこれは酷すぎます。気づかれなかったのですか?」
伊達ではなく真田の忍びと分かっても、喜多の口調はきつく視線は鋭い。
どういうことだと佐助が黒脛巾に視線を向けるが、そちらはそっぽを向いて知らん振り。
その様子から、佐助が来る前にすでに締め上げられていたことが垣間見え、佐助は喜多の容赦の無さを体感した。
は、さすが誰かさんの乳母。
畏怖と感嘆をこめて胸中で呟けば、「聞いているのですか」と鋭い指摘が飛んでくる。
「聞いてますよ? んで、俺様にどうしろって?」
飄々とした様子を崩さずに問い返しても、喜多は動じることなく布団周辺に並べられた薬たちを指し示す。
「貴方も出入りが多いと聞きました。一刻ごとに背に薬を塗る必要がありますので、手を貸しなさい」
「うわ、おっかねぇ」
命令口調に軽口を叩くが、喜多のひと睨みで佐助は口を閉じる。
黒脛巾がどこかあきれたようにため息を吐き出すが、佐助が全く怖がっていないことなど先刻承知だろう。
忍びは心を乱してはならない。
忍びは主の命令しか聞かない。
分かりきった不文律だが、佐助は大人しく喜多から薬を塗る状況、順番、経過観察の報告先などを聞いた。
佐助の主ならば何のためらいもなく、正直ほとんど係わり合いにならなくても良いの床擦れ解決に、嬉々として佐助を使うだろうことが目に見えていたからだ。
わざわざ執務の合間を縫って奥州まではるばる通い、の様子を確かめ、佐助をこき使う主は純粋ゆえに鬼だ。
「では、つぎはまた一刻後です。どちらかお願いしますね」
静かに頭を垂れる黒脛巾と、茶化して返答をする佐助。
けれど喜多はそれに反応を返すでなく、一度へ視線を向けただけで、静かに退室して行った。
「容赦ないね。誰かさんの乳母だけあるよ」
「でもすげぇぞ、この爛れ。よくここまで臭わなかったもんだ」
思わず呟いた佐助に、黒脛巾のの飼い主だと自称する忍びは、どこか感心するように返した。
ぬるりとすべるほど皮膚が柔らかく爛れた様子は、見る者の眉をしかめさせるほど。
なのについ先日までは痛いと寝言でも訴えることをせず、臭いも全く感じられなかった。
ああ、女の子なのにかわいそう。
佐助が嘘偽りなく胸中で呟いてしまうほど、その健康的な肌に不似合いな皮膚の悲鳴。
排泄も排尿も行わず、人間として行うはずの食事すらとらないその眠りの不可思議さに、床擦れなどというすぐに思い至るはずのことさえ誰も気づかなかった。それほどの寝相は酷く、寝言は酷かった。病人や怪我人でもなく、「ずっと床に伏せっている」わけではないという認識が共通とされていた。
けれど「ずっと床に伏せている」のは事実だった。だからこそ、の背は床擦れで爛れた。時折大きく動くこともあれば、誰かを蹴り飛ばすこともあるが、やはりその背は始終布団に伏せている状態に近かった。うつ伏せになろうとも、ごろごろ畳の上を転がろうとも、正常な寝姿というものは仰向けだった。
別に佐助の責任ではない。悔やむ要素すらない。黒脛巾の仕事であり、黒脛巾がかくまっていた人間だ。
けれどあんなに様子を見に来ておいて、ちらりとも脳裏を掠めなかった自身が悔しいのは事実。
あんなに寝言とはいえ寝相とはいえ、見守っていたのにその変調に気づかなかったのは事実。
己の目が曇っていた事実は、忍びとしても致命傷である。
「……」
一見すれば常と変わらずを見つめている佐助だが、同業者にはその真意がばれぬわけが無い。
黒脛巾の男はひとつため息を吐き出すと、無造作に寝ているの前髪を撫でた。いくらか汗で張り付いた髪は、男の指をつまづかせる。
「猿飛、手ぇ出すなよ」
「なにに」
互いの声は平常。互いの目線の先は。互いの緊張感は常と変わらず。
けれど互いに伝わってくる心情は、おかしなことに鞘から抜かれた刃のごとく、お互いの首筋に触れていた。
さやさやと外で草木が揺れる音がする。
されど男二人の間に、言葉は無い。
黒脛巾の男の指は、何度も何度もの前髪を撫で額を撫で、流れる髪を指先で遊ばせる。
佐助の目線はから動かず、その身体は座ることもなく身動ぎもしなかった。
「……」
佐助がゆるりと口を開く。その表情は常の笑顔そのままで、けれど読み取ろうとすれば感情の色すらない無そのものだった。
黒脛巾の男は、佐助を見ることもなくを見つめ続ける。その指は動き続ける。
「……俺様には、必要ない」
はっきりとしたその言葉は、掠れることもなく途切れることもなく聞こえた。
「未来永劫、そうならいいが」
黒脛巾の男は、喉奥で笑いながら返す。指先の動きはの髪から離れ、の首筋へと移動した。
汗ばむその首筋からはかすかな薬の香りが立ち、先ほど喜多がたっぷりと塗った名残が見える。
健康的に首で脈打つその血潮は、が懸命に生きていることの証のようだった。
佐助の声が、同じような声音で再び届く。
「何が出てくるか、分からない」
感情の込められていない声に、黒脛巾の男は再度喉奥で笑う。
指先は首筋を上り、どれだけ眠っても削げ落ちないふくらとした頬に触れていた。
「だからこそ、面白いんじゃねぇか」
起きている間中、相手してる間中、退屈なんざする暇も無かったさ。
佐助の眉がかすかに揺れる。
黒脛巾の男が出したその声は、その笑いは明らかな愉悦を含んでいた。
優越感に満たされ、他者の愚かを哀れむことすら忘れた、勝利者の感情。
「なにを」
「何を知らずとも、肌で感じ理解している我が主のような方もいらっしゃる」
佐助が細めた目で問い詰めようとするが、黒脛巾の男は動じずさらには言葉まで重ねてきた。
さらには、己の主である政宗の名まで口にする。
そうだ、あれはなぜかに心底気を許してしまっていた。
すでにの存在を明かされた忍びのなかで、政宗の態度を知らぬものなどいない。
それは黒脛巾組の者に留まらず、佐助の部下たち真田の忍びも含まれていた。
国の主を護衛するのは、忍びとして代表的な職務である。
表立ったものではないが、無防備にさせるほど国の主という存在は揺ぎない物ではない。
いつ誰にその命を狙われるか、屈強で最強だと言われるものだとて、一瞬の油断を突かれれば簡単に命を落としてしまうのだ。それは自国の中、自室ですら同じこと。不審者を寝かしている室に行くなどといわれれば、当然護衛の一人や二人を付けている。
政宗が眠るの寝言に付き合い、の弟の振りをしてを抱きしめたという事実は、その日のうちに知れていた。
「……わっかんないなぁ」
心底、佐助は呟いた。
ともすればその口調は拗ねた子供のもので、けれどその目は油断なくを観察している。
佐助だとて、に多少の情を感じている。自覚した上で、政宗とは違うと線引きをしている。
けれど佐助の目の前で、黒脛巾の男はそれこそが愚かだと笑う。その線引きこそが失策だとでも言うかのように、一般的には政宗の行動こそが愚行だと言うのに、佐助が冷静に距離をとっている事実を鼻で笑う。
「わかんねぇのが馬鹿なんだよ」
「言ってくれるね」
「事実だからな」
黒脛巾の男の笑みは、男の主を彷彿とさせるほど余裕が見えて憎たらしい。
見える感情は愉悦を隠そうともせず、けれど佐助への牽制も欠かさない。
佐助を捉えるその目は、冷えた刃のように佐助の命を狙っていた。
「本当なら、お前が近づくことも許したくねぇ」
「へぇ、ずいぶんとご執心なこって」
さすが、己の主に牙を剥こうとしただけある。
からかうために掘り返した事実に、佐助の動きが止まる。男は佐助をその目で見つめたまま、動揺の素振りもない。
むしろ、動揺しているのは佐助だった。
唇は震えない。
指先は軽く握り締められたまま。
声はいつもどおりのお気楽で軽い飄々としたもの。
けれど胸中は動揺に慄いていた。気づいた事実に背筋すら震えそうになる。
しかりと合わせた互いの目線をはずすことなく、佐助はぽつりと呟いた。
「あんた、いつからそんなに執着しだした」
「さて、な」
ゆるりと笑う口元が、また誰かさんと被る。
目の前の男が主に牙を剥いたとき、それは執着というには可愛らしく、けれど確かな情。命をかばうに値する感情だけだったはず。今のように、牽制など。むしろ佐助にを理解しろと語るほどだったのに。
佐助は目の前の男が忍びだという事実を、ほんのりと疑いだした。
まるで忍びではない存在感すらかもし出し、に触れる指先は繊細。時折こぼすへの眼差しは、誰かさんとそっくり同じ。
「なぁ、実は竜の旦那が変装してるとか、……ないよな?」
「……」
男は何も言わずに、楽しそうな表情を崩すことなく視線をそらし、の髪を撫で見つめる。
「さて、な」
小さくこぼされた声には、確かな愉悦があふれていた。