解決法【小十郎】
の床擦れは、ある意味当たり前のことだった。
が、それに誰も気づかなかったのは、ひとえにの寝相が酷いを通り越して凄惨な現場を作り出すまでに、良い言い方をすれば活発だったからに他ならない。
「だがそれも言い訳、か……」
小十郎は一つ苦笑いをこぼすと、気を取り直して自身の姉である喜多を呼んだ。
喜多は政宗の乳母であり、小十郎としても一番信頼の置ける女性ではあるのだが、今の今までについての情報は一切伝えていなかった。
彼女は彼女で、政宗や小十郎たちがなにやら武田の者も交えてこそこそしているのは知っていたが、その内容を伝えられないということは極秘事項なのだろうと特に詮索もしていなかった。
けれどこのような事態になりそうも言っていられなくなった現状、喜多に頼った方が得策だと政宗たちは判断し、まだなんの事情も聞いていない喜多をの眠る室の、隣の室へと呼び寄せた。
「喜多、折り入って頼みがある」
そう口火を切った政宗は、当たり前のようにの話をした。
黒脛巾組の一人を助けた女であること。
農民でも町民でも武士の娘でも商人の娘でもなく、自身を異界の者だと主張していること。
作為を感じられず、抵抗などは子供のわがまま程度、ただ自分の世界に帰りたいと言っている事。
知識はあるが作法はなっておらず、その体は姫にも町民にも農民にも当てはまらないこと。
見たことも無い織りの生地を持ち、驚くほど深い知識を持ち、広い見識を持つこと。
驚くほど精巧なからくりを所持しており、それら製造技術の高さは政宗も見たことが無いこと。
すでに数ヶ月、誰が何をしても命の危機に陥っても眠り続けていること。
寝言に、政宗をはじめとした伊達家の人間だけでなく、小十郎や喜多たちの名前も出ていること。
奥州のみならず、武田、上杉、北条、今川、豊臣、浅井、毛利、長曾我部、前田、織田、徳川、島津など、あまたの戦国武将たちや身近な者たちの名が挙がっているということ。
それら挙げられた名の者たち全てが、寝言によると、眠っている女と懇意だということ。
けれど分からない言葉が多く、心当たりの無いものも多く、信憑性がないというより、同姓同名の話らしいと検討をつけていること。
同姓同名の話と仮定してはいるが、武将たちとその同姓同名者に共通点が多いこと。
似通った場所はあれど、女が住んでいたと主張する場所などこの世のどこにもないこと。
黒脛巾に出会う前の経歴が、ひとつもみつからないこと。
政宗は話した。全てといって良いほど喜多に情報を与えた。
長い時間向かい合い、政宗の真摯な様子に喜多は一言も口を挟まなかった。
話の内容に疑問が浮かぼうと、不審が頭をもたげようと、喜多は本当に引き締めた表情のまま聴くに徹した。
「女は、名をと名乗ったらしい」
「……左様で」
家名を名乗るということは、すなわち。
思うところはあるが、喜多は静かに相槌を打った。
先ほどすでに「武士の娘ではない」と言った政宗に、喜多は重ねての「武士の家系ではなのか」という質問を殺した。
その喜多に、政宗はようやく目の力を緩める。
吐き出されその呼気は荒かった。長丁場のしゃべりに、喉も口も渇いていた。
「……寝言で、おれはの弟らしいぜ」
ぽつりと漏らされた一言に、喜多が受けた衝撃はすさまじかった。
声を上げたりはしない、主君を凝視などしない、疑うようなまなざしなど向けない。
「…………」
けれど言葉を失い、目を見開いてしまうのは仕方が無いことだった。
思わず喜多は弟である小十郎を見るが、彼はひとつ、はっきりと頷いた。
「俺は女の世話役であり、のちに政宗さまと同名である女の弟の世話役になったようだ」
「……」
絶句とは、このことかとばかりに喜多の口は言葉を発しない。
瞬かれるまなざしは困惑の色が濃く、めまぐるしく思考は働く。
けれど何を爪弾いても答えが出るはずもなく、喜多はゆるゆるとした呆然のていで政宗に視線を戻した。
見たことも無い困惑顔の喜多に、さすがの政宗も困ったように苦く笑う。
「Ah-、まぁ、信じられねぇのも無理はねぇな。ま、そこら辺はおいおい理解してくれりゃ良い」
「……おおせのままに」
言葉は幾分かはっきりしているが、やはりその動きがいつもより格段遅い喜多は、主君だけでなく弟までも困り顔で微笑んでいることに気づくと、静かにその背筋を伸ばした。
なにかまだ話があるのだろうと、長年の付き合いでの催促。
それが分からぬ政宗たちではなく、足を組みなおした政宗が再度口を開いた。
「お前に、そのの世話をしてやって欲しい。ま、力仕事はそこら辺にいる男ども使えば良いしな」
軽い口調で告げられた言葉に、喜多は再度動きを止める。
けれど今度はすぐに正気を取り戻し、深々と主にその頭を垂れた。
詳しいことは黒脛巾組のやつらに聞けと政宗は告げ、喜多が静かに退室する。
控えていた黒脛巾組が音もなく現れ、喜多を隣室である彼女の眠る部屋へ連れて行くのを確認すると、政宗はその場に脱力して崩れた。
「政宗様」
はしたないとばかりに小十郎は名を発するが、畳に崩れこんだ政宗はため息を吐くばかり。
小十郎は仕方がないと自分もため息を吐き、小さくこぼした。
「姉上でしたら」
「分かってる、疑っちゃいねぇよ」
即座に返される声音は真剣で、小十郎は今度こそ大きなため息を吐き出した。
喜多は小十郎の姉であり、政宗にとって信頼の置ける者の一人だということは重々承知しているが、なにも自分の乳母を不審者にあてがわなくても良かったのではと、いまさらながらに心労がかさむ。
政宗も小十郎も、信頼の置ける女と言って喜多を最初に思い浮かべ、口にしたのは同じだったわけだが、その喜多にも伝えなかったほど不審であり身元の知れない女である。
もう大分毒されている自覚のある小十郎も、喜多の身に万が一があればを斬り捨てることなど容易なはずだが、そのような想像をするだけでどこかが軋むような錯覚を覚える。
時折ささやくように寝言で名を呼ばれ、楽しそうに小十郎と同名の男と会話をしているらしい。
幼い頃が垣間見えるような、喜多、綱元、小十郎、三人への呼びかけ方。
ねえさん、にいさんと懐きようが目に見える甘い声音は、きっと喜多をさらに戸惑わせるだろう。
小十郎のことは、時折景綱とめったに呼ばれぬ名で呼ぶこともある。
密やかに穏やかに、それは楽しい隠し事であったり、ただ振り返らせるための手段だったり、弟たちから逃亡中の必死な叫びだったり、真剣みを帯びた凛々しいものだったりと多種多様で、どれだけ日頃から小十郎と密接な付き合いなのかが窺い知れるものばかり。
「……」
小十郎の口が、ひそりと開かれる。けれど音がこぼれることはなく、また静かに閉じられた。
は小十郎の名を呼ぶ。愛しげに呼ぶ。全幅の信頼を置き、時折寂しさを隠しきれない様子で呟く。
まるで政宗の幼少期のように、ひそりひそりと痛みを堪える仕種で小十郎の名を呼ぶ。
『景綱兄さんは、まさの所に行って。そばにいてあげて』
幼い少女の口調で、震える声を押さえつけた命令がこぼれる日もあった。
何があったのかは分からない。それは寝言ゆえ、それはの言葉しか聞こえぬ小十郎には想像するしかない場面。
けれどが幼い口調で、たどたどしく泣き始めたその姿は、己の右目をしっかりと押さえ込んでいた。
『なんで、まさが……ッ! なんで、あたしじゃないのッ!!』
唇をしっかりと血が出るほど噛み締めて、ぼろぼろと閉じられた瞼から涙がとめどなく零れ落ちていく。
ああ、右目が。別世界の政宗様も、やはり右目が。
小十郎にとって、言い知れぬ虚無感と絶望が襲うには十分な衝撃だった。
の弟もまた、その右目を失ったのだろうと想像に難くなかった。
楽しそうに笑い戯れるとその弟たちの様子は、以前弟の一人に右目が無いことなど分かっていたはずなのに、穏やかなもので。
小十郎ははっきりとその当時を思っているのだろうを目の当たりにしたことで、衝撃など受けるはずもないと想像すらしていなかったというのに。
目の前で悔やみ、涙を流すを見てしまうと駄目だった。想像すらしなかった『の弟』である『まさむね』の心痛を思ってしまい、呼吸すら苦しくなっていた。が泣きながら、それでも声を殺そうと唇を噛み血を流すその姿に、目が水滴をこぼしそうになった。
小十郎は静かに思考の海から起き上がり、いまだに畳と仲良くしている自分の主へと視線を向ける。
政宗はうーだか、あーだか呟きつつも体勢を崩したままで、この様子では政宗も意識を内にこもらせているのは分かりきったこと。
「政宗様、執務に」
「Good Ni」
「なりませぬ」
舌打ちをしつつも立ち上がり、部屋を出る際にの眠る室に視線を向けた政宗。
その横顔を、小十郎は確かに見た。
『景綱兄さん、まさ、生きてるね。かえってきたね。うれしいね!』
少女のように泣き笑い喜ぶの寝顔が、小十郎の脳裏に刹那浮かび上がって消えた。
たとえ右目がなくなろうとも、彼女の弟もまた、生きのびた。
我がことのように生還を喜び、右目の損失などものともせず愛してくれる家族がいる。
そのように愛されたいと、その弟に成り代わりたいと瞬間でも政宗が思ってしまうだろうことは、簡単に想像できてしまうほどは喜んでいた。弟を愛していることが伝わってきた。
「……政宗様」
「……ん」
少々覇気のない返事の意味は、から距離が出来ることへの不安だろうと推測できる。
政宗は覇気の無い返事に付随して、少々力なく足を前へと進めだしたが、段々とその歩みが力強いものへと変貌していく。
奥州の独眼竜の姿へと、戻っていく。
己の主の未熟さと、それでも奥州を率いる器であるその姿を、小十郎は静かに見守った。
これ以上小十郎も政宗も、の深みに嵌っては危険なのだと、手遅れ過ぎる警戒音が聞こえていた。