床擦れ【かすが】


 武田の者が、奥州の竜の元に長く滞在しているらしい。
 謙信が静かにそのことを呟き、いつもの微笑と共にきになりますねと囁けば、かすがはいつものように自身を差し出し、調査する役目を志願した。
 そして驚くこともなく謙信はかすがの言葉に頷き、あの艶やかな声で持ってかすがに役目を託した。
 感極まりつつも、さっそく道なき道を駆け抜けながら、かすがは一路奥州へと脚を急がせた。

 奥州は甲斐と手を組んでいる。それは重々承知をしているが、かすがにとって甲斐といえば言わずと知れた、あの飄々として腹の立つ昔馴染みの存在が頭をよぎる。
 正直会いたくない。
 けれど調べたところ、滞在している武田の者の中には確かに猿飛佐助の姿もあったと報告されている。
「……これも全て謙信様のため……!」
 かすがは気を引き締めると、城内へと侵入するためにその場から姿を消した。
 謙信様の為でなくば、あいつになど会いたくないというのが正直なところと思いつつも、何をしているのかちょっと気になるのも事実である。かすがは己の使命を全うするため、意識を切り替えた。


「では、失礼いたします」
「ご苦労様」
 かすがは頭を垂れるとかすかな音を立てて退室する。言葉を返した女は、そのかすがに小さく笑みを向けるとすぐさま室内へと視線を戻し、かすがは障子を閉めることで完全に一人きりとなった。
 潜入捜査など造作もない、と言い切りたいものだが、現在かすがが居るのは城の中でも下位も下位。自らの足で日々必要なものを買いにいく羽目になるような、ほとんど雑用係だった。本来ならば変装しても隠し切れぬ美しさも相まって、すぐに位の高いものの世話係くらいにはなれるのだが、今回の奥州は勝手が違っていた。
 城への出入りが厳しいのは当たり前だが、今回の潜入は最初から時間が掛かる厄介なものだった。身元を調べる時間が異様に長く、細部まで確認されていたのだ。普段なら目溢しをする程度の箇所まで、執念深いほど慎重に。
 あからさまに何かが隠されている。
 何度となく出入りしているはずの部下でさえ、その身分の証明を手形と口頭と身体検査にて改めさせられていた。
 これは探り甲斐があるとかすがは背筋を正すが、現在は静かに、けれどかすかな音を立てながら廊下を歩くしかなかった。佐助に見つからず、武田のその他の者にも見つからず、長期滞在の理由を探る。たったそれだけの任務と言いたいところだが、今回は骨が折れそうだと帰還までの遠さにため息を吐きたくなる。
(謙信さ)
 ま、と心の中で呟くより早く、誰かの気配が近づいてくるのを感知する。
 それが顔見知りの武将ならば都合が悪い。
 いくら変装をして顔も変えているとはいえ、気配の微妙なる差異に気づかれてしまえば任務は失敗だ。
 かすがはいくらか顔をしかめそうになり、けれどその気配を表に出すことなく人物を認識する。
 舌打ちしたいのを堪え、残念ながら存在を知られている独眼竜と虎若子に見つからぬよう、ゆるりと足の向きを変えて進路を変更した。向かうは女中の休憩場。
「……、……っ! …………」
「…………。……、………………」
 何かを熱心に話している様子だが、その内容までは伺えない。そこまで近づいてしまえば、今のかすがはただの女中、うっかり話しかけられてしまえば逃げることも叶わない。
 折角やつらの会話が聞ける機会だというのに、舌打ちしたい気持ちを押し隠し、かすがは女中達の中へと身を隠した。

 けれど好機はすぐに訪れた。
 かすがの盛った薬により体調を崩した女中から、比較的真田幸村の室に近い掃除場所を獲得したのだ。
 微々たるものだが前進は前進。
 部下の忍びに女中役を交代し、かすがは素早く真田幸村の室へと身を滑り込ませた。
 いくつか仕掛けが施されてあったが、憎々しいことに佐助の仕掛けたそれらは引っかかった覚えのあるものばかり。屈辱的な経験ではあるが、それの解除方法も元に戻す手順も心得ているため、楽といえば楽だった。
 が、肝心の真田幸村は室に居らず、ならばと室を探るが特にめぼしいものは見当たらない。
 さてどうしたものか、ならば次は独眼竜の室を狙うかと意識を切り替えていると、聞き覚えのある足音が響いてきた。
 どこをどう聞いても真田幸村の足音。本日は比較的大人しめ。
 さてはてどうするか、とりあえずひらりと身軽に天井裏へと身を潜めると、かすがは室に入ってくるその様子を窺った。
 特筆することもなく変わりのない様子であったが、どこか気が急いているようにあちこち室の中をひっくり返し、何度か軽く佐助の名を呼ぶが返答はなし。そのたびに焦る様子はあらわになっていき、とうとう室を走り出てしまった。
(これは……)
 なにかあると思い至らないわけがない。
 走り出したといっても、真田幸村の足は早駆け程度。どたどた走るなどというものではないが、気が急いていることは明白だった。何が起こったのだと静かにつけていけば、かすがでも近づかなければ分からない微細な気配が充満する区域へと足を踏み入れていった。
(……この物々しい警備は、全て忍び、か……?)
 一度気が付いてしまえば容易い者達、気づいても中々居場所が特定できぬものたち、正直人間なのかただの仕掛けなのか分からないものがいくつか。
 実力ならばかすがが基本的に上回るだろうが、ひとつに特化して集中しているものたちは中々手強い。数も多ければ多いほど面倒なものだ。かすがは真田幸村の気配を意識しながら、部下達を静かに呼び寄せて攻撃を開始した。
 思わぬ所から思わぬ警備。
(蛇と出るか、鬼と出るか)
 かすがは自らの任務を全うするため、自らの武器を握り締めた。

 次々と撃破していき、真田幸村が戻ってきたときや他の者が通ったときに不自然でないように、倒したものたちは要所要所隠し、かすがの部下達がそれぞれ居場所を乗っ取った。
 そして真田幸村の気配を追いかけ、その室の天井裏へと忍び込もうとするが、なぜか先ほどまでの警戒のなさとは裏腹に、真田幸村は張り詰めた空気で周囲を警戒していた。
 その警戒の仕方に覚えがあり、どこで知ったものか考えていたかすがは唐突に理解した。真田幸村とは縁のないものだと思っていたため、思考の処理が遅れていた。

 その警戒の仕方は、まさに動物が生まれたばかり我が子を守るときのそれに似ている。

 だがしかし、ここは独眼竜が城。武田の者である真田幸村の、それも子がいるような場所ではない。
 むしろそれ以前に、真田幸村に子を作るような甲斐性があるとは思えない。
 どう判断すべきかとかすがが悩んでいると、小さくだが女の声が聞こえてきた。
 まさか、囲っている女がいるのかと目を見開き耳を澄ますと、真田幸村は慌てたように何か声をかけ、それに答えるように女の声が再び響く。真田幸村にしては慌てながらも、隠れているとはいえかすがにすら聞き取り辛いほど小さな声で、一切何を話しているかの内容が伝わってこない。
 仕方がなしにまた少しだけ距離を詰めて耳を済ませれば、唸り苦しそうにあえぐ女の声と、それに一々びくついたように情けない声を上げる真田幸村の声。
「う、いたぁ……いた、い」
「ああ、大丈夫でござる。すぐに佐助たちをよ、お、お呼びっ」
「うぅん、っ、ったぁ……」
「こんな時に限って! 黒脛巾の者達もおらぬのかっ!」
 女の方は意識もあるかないか怪しい声音での呻き、真田幸村は優しく声をかけているようだが、その焦りは隠しようもなくあらわになっていた。
 その女が怪我でもしたのだろうか。
 だがそうであるならば、真田幸村が侍医を呼ばないことの方が不自然。佐助は良いとして、なぜ黒脛巾を呼ぶのだろうかが、かすがには解せなかった。黒脛巾がここら一帯を警備していたことと、なにか繋がりがあるはず。
 かすがはさらに距離を詰め、そっと部屋の中を覗き見る。
 決して真田幸村の張り詰めた神経に触れぬよう、ここで失敗などしようものなら、謙信様に申し訳が立たない。
 気合いを入れなおしたかすがは、けれどその光景を見た瞬間目を見開いた。
殿。……殿、殿、殿」
 哀れに思えるほどの情けない声音で、真田幸村が布団に寝かされている女の傍ら、眉根を下げて情けない顔をしたまま声をかけている。戦場での勇猛果敢さなど嘘だったかのようなその光景は、かすがを驚かせた。
 けれど、女の傍ら、というところにかすがは驚いたのではない。
 入れ替えをしているようだが、やはり多少淀んだ室内の空気。
 目覚めを促す香の香り。
 所狭しと並べられる着物や小物、位の高い女達が好みそうな調度品類は目に痛いほど並んでいる。
 けれど何より、かすがは頭痛を感じながら気配を隠そうともせず障子を開いた。
「っ!?」
 勢い良く驚愕の眼差しで振り返る真田幸村に声もかけず、かすがはずかずかと遠慮もなしに無遠慮の勢いで室へと足を踏み入れた。そのまま布団の傍に膝を付こうとするが、真田幸村が素早くとかすがの間に割り込み、先ほどの表情など消し去ってかすがを睨みつける。
「上杉殿の。……何用でござるか」
 すぐさま女を庇う姿勢は、評価に値する。
 などと思わずかすがは意識を別方向に飛ばすが、ため息を一つついて小さく言葉を発した。
「お前は馬鹿か」
「ば、馬鹿!? 某がでござるか!」
 衝撃だとでも言うように、真田幸村の発した大きな声にかすがは片手で自分の頭を押さえ、見開いた目でかすがを凝視しつつ、心外だと叫ぶ目の前の男に同じ言葉を重ねた。
「そうだ、お前だ。馬鹿か、真田幸村。これでは女の具合が悪くなるのも当たり前だろうが!」
「な、なぜそれを!?」
 はっ、まさかそなたが……。いや、上杉殿がそのような卑劣なことをするわけが。
 かすがの言葉に、一人ぐちゃぐちゃと言い出した真田幸村の言葉を即座に否定しつつ、かすがは邪魔だと庇おうとして割り込んできた体を押しのけようとする。
 けれどそればかりは簡単にさせんと腕を広げる真田幸村に、かすがはため息を吐いて呆れを十二分に込めた視線を向けた。
「その女は長いこと寝ていたのだろう? ならば背が痛んでも仕方がない。寝返りもうたせていないのだろう、気の利かない連中だな」
「ね、寝返り? ……体は存分に動かしておるはずだが、背が?」
 真田幸村は、なんの後ろ暗さもない顔で、純粋に不思議がり首をかしげる。
 かすがもかすがで、存分に動かしているという言葉に首をかしげ眉を寄せ、視線を布団の上へと向ける。
 いまだにうんうん唸っているその様子は、男所帯では不憫な有様だったのだろう。身奇麗に見えるが、やはり多少心当たりのある匂いがかすがの鼻先を掠めていた。
 先ほどまでの警戒の視線ではなく、幾分か不思議そうな視線でもってかすがを見ている真田幸村に、かすがは口を開きかけるが、覚えのある空気の振動にすぐさま天井へと退避した。
「旦那、どうせなら捕まえといて欲しかったんだけど、なっ!」
「佐助っ!」
「馬鹿の親玉か」
 佐助のクナイを素早く避けたかすがは、喜色満面な真田幸村の声に多少笑いそうになりつつも、何度か室の中を避け動く。
 その合間に向けられる佐助の視線の鋭さは分かっていたことだが、そこまで情が湧いているならなぜ気を配らないと、かすかは叫びたい気持ちで室の奥で足を止めた。
「……なんのこと?」
 だが、心の中で思っていたはずの言葉はかすがの唇から放たれており、佐助は不快そうに眉間に皺を寄せる。
 かすがは自分が口にしていた事実に驚きながらも、それをおくびにも出さずに鼻で笑った。佐助の眉間に更に皺が寄る。
「わざわざ奥州にて女を囲う手間をかけながら、そんなことも気づかないのか」
「え? ……いやいやいや。ちゃんは囲ってる女じゃないから。違うから」
 一瞬きょとんと目を丸くした佐助は、次の瞬間慌てた様子でわたわたと片手を振って否定する。クナイを下ろしはしなかったが、表情は焦りの色を見せていた。いや、違うから違うからと言い募る言葉は、かすがにとってただの言い訳にしか聞こえない。
「背に床擦れが出来ているのだろう匂いがした。なんでもいいが、寝かせて置くなら寝返りくらいうたせてやれ。無精者しかいないのか、この城は」
 かすがの言葉に、慌てていた佐助がふと視線をそらして考えるような素振りになり、少しして情けなさそうに低い唸り声を上げだした。二人の耳に届くのは、女の呻き声と、慌てた声をかけ続けている男の声。
「あーあ゛ー……。そっか、あれ床擦れかぁ」
「当たり前だろうが、馬鹿か」
 さっぱり候補にありませんでしたとでも言い出しそうな唸り声に、かすがは呆れかえる。
 半眼で睨み続けていると、佐助はあんがとと軽い声で礼を言い、改めて背筋を伸ばした。
「んで? なんでかすががここにいるのかな? 外の黒脛巾やったのも、かすがのとこでしょ」
「ふん、お前の知ったことか」
「あ、寝てるあの子のことなら俺様たち、本当に囲ったり関係とかないからね」
 いつもの調子を取り戻した佐助の軽い言葉に、かすがは半眼を更に細めてため息を吐き出す。
「お前の主が叫んでいたぞ。殿、だったか」
「うわ、旦那なにやってんの」
「お前も今口にしていただろうが! ……謙信様への面白い土産話が出来た。が、女の世話一つ出来ないとは、謙信様も笑われよう」
 鼻で笑うかすがに、佐助は苦々しく笑みを浮かべて後頭部を掻くが、それに頓着せずかすがは姿を消す。
「……あー……」
 本来ならば姿を消すことすら許さず、捕まえ今回の任務内容を吐かせるべきだと佐助も思ってはいたのだが、どうも今回のかすがの様子から本当に、深い意味のある任務ではないらしいことが感じられていた。
 他国にまだはっきり正体の判明していない人間の情報が漏れるのは、手落ちといえば手落ちなのだが、軍神である上杉ならば大丈夫なのではないかと佐助もため息を吐く。
 なぜなら、元々信玄と謙信は好敵手という間柄であるが、酒飲み仲間という一面もある。
 同盟をさっさと結んでくれれば楽なんだけど、という佐助の言葉も聞き流されるがその酒飲み会合というか、大将二人の飲み比べの機会は多く、佐助は何度も上機嫌なその二人に酔い潰されそうになったことすらある。
 今回のことも、ここまで隠していることを知れば、上杉謙信のこと、信玄との酒の肴程度には口にするかもしれないが、他国にはもちろんこと、自分の部下にも容易には言いふらさないだろう。
「良かったんだか悪かったんだか」
 もしかすれば、眠りっぱなしのについて何か情報を持っているかもしれない。
 佐助はとりあえず床擦れを解消させねばと足の向きを変え、が唸っている室へと戻る動作をするが、いまだに異世界説を信じ切れていない自分に苦笑した。
 けれどそれより、今は床擦れが出来てなお意識を取り戻さないのために、どうにか治療を施してやらねばならない。異世界だかが妄言かどうかなど、二の次だ。
 どたどたと駆け込んでくる独眼竜の足音と、それを叱り飛ばす竜の右目の怒声を耳に引っ掛けつつ、佐助はいつもの飄々とした笑顔を浮かべて室へと瞬時に駆け戻る。
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