変わらない寝顔【小十郎】


 その日、佐助が手を腫らしたの手当てをして伊達側に報告をしたとき、政宗は自室から逃亡した後だった。
 いつものことだと分かっていながらも、政宗不在の室にてため息を吐き出していた小十郎は、その報告を受けて軽く頷くだけに留めた。
 把握はしておかなければならないが、治療は施されている。自分が心配する領分ではない。
 周りがじわじわとに侵食されていくのを肌で感じながらも、まぁ仕方ないかと害のなさを知っている分、今は黙認していた小十郎としては、本当になんでもない報告の一つだった。

「……………………」
 政宗を探して行き着いたその部屋で、小十郎はこれまでにないほど目をかっ開いてその光景を凝視していた。
 閉めきられた障子を開ければ、いつも聞いている穏やかな呼吸音と長年聞いている寝息、その二つがゆっくりと重なって流れ、そしてその体も重なっていた。
 政宗の上半身がの上半身に重なり抱きつき、もそれを抱きしめ返すという一件穏やかで仲睦まじい光景。何も知らない人間からすれば、恋仲か姉弟か。とにもかくにも色艶などなく、微笑ましく笑みを浮かべあってしまうような、そんな光景。
「……」
 けれど小十郎は目をかっ開いたまま硬直し、その光景の意味をどうにか読み取ろうとしながらも、ひどく動揺していた。
 着衣に乱れはない。
 政宗は布団に入ってもいない。
 この二点からも安心してよいと思いたいのだが、小十郎は動揺する自分の額を押さえた。

 落ち着け落ち着け、小十郎。竜の右目がこのくらいで動揺してどうする?

 何度か深呼吸を繰り返し、下世話ながら部屋の空気が淀んでいないことも確認する。これで空気に覚えのあるにおいが混じっていたりしたら、小十郎の精神はいきなり極殺モードで凶悪化の一途をたどっていたかもしれない。どこへ向けてよいか分からない憤りに、ちょっと破壊行動に出たかもしれなかった。
「……はぁ」
 けれど現実は大人しいもので、寝込んだ姉に抱きつく弟といった光景にも見えるほど、和やかで穏やかだ。
 人物が政宗たちでなければ、小十郎も少しは笑みを浮かべていたかもしれない。
「……政宗様」
 しかし、現実として政宗の立場がある。も足元が不安定ながら、おぼろげにその人物像が分かってきているとはいえ、不審人物には変わりはない。
 たとえ有り得ないほど位の高い人間達が気に掛けている現状だとしても、はいまだ昏々と眠り続けるただの不審者だ。腕っ節はただの平凡な女だとしても、その動きにキレがあってもただの本当に庶民の域を出ないとしても、不審人物に変わりはない。
 小十郎は意識してその声を低く保ち、主の名前を繰り返した。
「政宗様」
 政宗とは穏やかに眠り、誠に血の繋がった姉弟のような、極々自然な表情を浮かべている。
 けれど小十郎が静かに歩を進め、その場に腰を下ろして障子を閉めて振り返ると、瞼を閉じていたはずの政宗がしっかりとした眼差しで小十郎を見ていた。眠気など些かも感じられぬその眼差しに、やはり狸寝入りだったかと小十郎もなじみの嘆息をこぼす。
 そんな小十郎に表情を変えるでなく、政宗は何も言わずにの胸元に顔をうずめて寝なおそうとする。
「政宗様」
 ぴしゃりと名前を呼べば、煩そうに眉間に皺を寄せた政宗の視線が小十郎を貫いてくる。
 普段の不満げな表情とは違い、本気で邪魔をされたくないのだと伝わってきて、小十郎は困惑する。
 つい昨日まで、このような素振りはなかった。
 触れ合っていたとしても、それは足を掴んでいたとか、手首だったり胴体だったり、残念ながら取り押さえる格好のようなものがほとんどだった。伊達政宗に寝相の始末をさせるなんざ、本当に何者だと頭痛がしたのを小十郎は覚えている。
 政宗もそのときは普段通りだったはず。
 寝相のひどさに大笑いし、その被害を受けそうになって笑い、押さえつけて寝かしつける場面では多少疲れた素振りを見せる。本当にその程度のはずだった。
 なのに、今の表情はどうだ。
「脱走の言い訳と、現状についての説明をお願い致します」
 困惑を悟られぬように言葉を紡ぐが、政宗の表情は変わらない。理不尽なのは小十郎だとでも言いたげなその表情に、小十郎の困惑は増していく。
 政宗の口が動くのを静かに待つが、政宗は小十郎に視線を向けているだけで口を開こうともしない。
 堪えきれずに小十郎が繰り返そうとすると、ふっと一瞬だけ部屋の空気が変わる。
 の手が、政宗の頭をなでていた。
「……」
「……」
 寝言でもなく寝相というわけでもない。
 ただ自分の胸元にある政宗の頭を撫で、くすくすと嬉しそうに笑い声をもらす
 小十郎がその寝言というのか寝相というのか、とにかく驚いて動きを止めていれば、政宗の表情がゆるゆるとほぐれていくのを目撃してしまう。そのまま笑みへと転じ、安心しきった子供のように無垢な微笑みで、の体に抱きつきなおし、その胸元にぐりぐりと自分の額を押し付けていた。
「……くす、ぐ、…………」
 笑いながら優しく抗議の声を上げ、それでも政宗の頭をなで続ける
 それを甘受し、嬉しそうに甘えてみせる政宗。
 昔、本当に昔のまだ小十郎が政宗に仕える前に垣間見た、まだ病にかかる前の政宗が母親に見せていたような無防備で無垢な表情だった。世界の優しさの全ては目の前の人間から発せられているのだとでも言うような、胸が温かくなるような笑み。
 表情を変えずに今度は睨むこともせずに政宗は小十郎を見つめ、上機嫌な声でようやく言葉を返してきた。
「邪魔すんな、小十郎」
 それは本当に嬉しそうで幸せそうで。ついぞ見たことも聞いたこともない政宗で。
 小十郎が何か小言をと考える間もなく、政宗は言葉を重ねた。
「姉上と昼寝中だ」
「……ッ!」
 小十郎の全身が総毛だった。
 なにがどう衝撃なのか。分からないまでも小十郎は怒声を上げそうになった。けれど、守るべき支えるべき主はここ数年見たこともないような幸せそうな笑みを浮かべ、邪魔をすることは小十郎の理性が許さなかった。
 何に対しての怒りなのか。
 政宗の当主として危機管理が甘いことか。
 不審人物を伊達家に連なるもののように扱ったことか。
 そのまままた寝ようと瞼を閉じ、小十郎の言葉を無視したためか。
 自分でも区別が付かない感情に、小十郎はしばし言葉も出せずに固まっていた。


 もちろんすぐに正気付き、駄々をこねる政宗を執務に追いやれたのは習性以外の何ものでもなかった。
 悲しいかな、片倉小十郎は我が侭を言う主を追い立てることに慣れていた。
 そして一息つき、改めて眠りこけているを見る。
 政宗が去り際、頬へと接吻を施していたがそれもくすぐったそうに笑うだけで、接吻を返そうとするような素振りも見せたが、受けようとした政宗は小十郎が即座に追い出した。不審者の唇を受けるのも止めていただきたいが、それ以前に一緒に寝るなど言語道断である。……本来ならばと、枕詞がついてしまうのが悲しい。
 政宗にとって、常識というものは都合のいいもの以外無き物とされている。

「うーん……」
 どこか困惑した、考え込むような呻き声。
 首を巡らせば眠っているの発したもので、その表情は眉間に皺を寄せた真剣なもの。なにか言い出すかと耳を澄ませば、数拍の後にその唇が動き出した。
 止まることを知らない、濁流のようなその怒涛の音の羅列に、小十郎は目を丸くした。
「我々の社会の仕組みとして、男女平等はそのひとつとされていますが、実際にそれが発揮されている現場は少なく、実際に区別し保護しなければならない場面も次々明るみとなっております。女性なら妊娠、出産、育児がもっとも顕著な例ですし、男性の場合は仕事による不必要なほどの重圧への対応、そしてやはり親として育児、社会の軋みをなくすための仕事後の付き合いへの悩みなど、ただ社会生活を送るだけで、心も体も壊してしまう事態も多いのが現状です。仕事への悩みだけなら女性も同じです。この場合は平等に重圧が掛かっている場合もあります。優秀であればあるほど、上のものから睨まれパワーハラスメント、俗に言う権力を使った言葉や肉体への暴力が横行しているのは皆さんご存知のことかと思いますが、それは訴えても仕方がないと諦めている方々が多いのも、やはりご存知かと思います。あの人はああいう人だから、そういって諦めたり、上司の上司すら当てに出来ない現状の場合、心も体も壊して退職しまた別の犠牲者が出る。悪夢としか言いようのない悪循環が出来ています」
「……」
 長々とよどみなく喋り続けるその話は、大勢の人間の前でされているような口調で、の表情は堂々としたものだった。
 小十郎は思わずその言論に聞き入り、それを記憶にとどめておこうと背筋を正した。
 話の流れとしては論点が次々と変わってしまい、まとまりのある答弁といえるものではないし、要領を得ないような部分もある。主観や不確かなものも入っているだろう、なにやら偏りすら感じるがそれは二の次と置いておく。
 は真面目にきりりと引き締めた表情のまま、一度口を閉じると気を取り直すように静かに口を開く。
「父さんいい加減にしてよこの愛妻家。いつまで私の義姫私の義姫って母さんにでれでれしてるつもりなの、このやに崩れた中年男がいい加減にしろよ。お前片倉さんとこの皆さんにご迷惑をお掛けしている現実を直視しろ、母さんがこの前から何回片倉さんとこに頭下げてると思ってんだこの唐変朴のあっぱらぱーめ。輝宗とか格好良い名前付けられておいて、いい加減しゃきっとしろよだからお鉢が片倉のおじさんというか小十郎さんにまで回って来るんだよこの馬鹿親め! 喜多姉さんにも綱元兄さんにも景綱さんにも迷惑かけてんだよこの馬鹿。ばかばかばかばか! おかげさまで姉さんも兄さん達も私達と遊ぶ時間無くなってるじゃないのばぁーか!」
「……」
 先ほどとはまるで違う話題な上、出てくるのは小十郎にとって身近すぎる名前ばかり。しかも、父やら母やら言われた名前たちは、自分の主である政宗の両親の名前と一緒ときている。
 何度聞いても慣れないこの違和感に、小十郎の拳や口元がうずうずだか苛々だかし始めるが、堪えてその寝言を聞き続ける。
 喜多、綱元、景綱とくれば小十郎たち三人の姉兄弟のことだろうと推測できるが、その上で小十郎と名前が呼ばれたということは、父親のことかといっそ感心すらしてしまう。
 口の開閉が、今一度行われた。
「どうしよう、チカ。私ナリ怒らせた、あれは絶対怒らせちゃったよどうしよう! いつも甘えてばかりだから、ちょっと背伸びしたかっただけなんだけど、ナリ私無視して出て行っちゃったんだよ。これ絶対心底怒ってる、視線すら向けられなかった、声かけても居ないもの扱いされた。どうしようどうしようどうしようチカ!」
 一転して動揺したただの女に成り下がった台詞。
 わなわなと震え怯えたように体が揺れる。誰かの腕でも引っ張っているのか、少しの空間を空けてその手が握り締められ、まるで本当にそこに誰かが居るかのように腕を揺らす。何かを掴んでいる手は軽く空中で固定されており、何度見ても面妖な光景だ。
「おお、日輪よ助けたまえ……! ナリ怒らせたら中々元に戻ってくれないの、チカだって知ってるでしょ! うわぁああばばばばどうしようどうしようそうだここは光秀先輩に特性の薬を貰って嘘です冗談です元就様いやだなあははははそんなところから睨み付けないでくださいよなんでこの距離で私の声が聞こえているんですか私は貴方の声が聞こえない程度に離れているはずですけど口パクなんて読めねぇよ馬鹿!」
「……」
 誰と会話をしているというか、よどみなく出てくる馬鹿馬鹿しい台詞たちに小十郎は深くため息を吐き出す。
 けれど冷や汗を浮かべて引きつり笑いを浮かべているは、勢い良く振り向くとまた顔を少し上向きに傾ける。
「鬼の元親様、お願いです日輪の申し子の毛利元就様のお言葉を翻訳していただけませんか」
「……」
 今度は四国と中国か。
 思わなかったといえば嘘だが、小十郎は口にされる名前と同一人物の存在を確認している。本当に、この女は何者なのだ。
 いま、切実にその鬼の返答を聞きたい。
 何を言ったかは小十郎に伝わらなかったが、の表情は一変、きらきらと輝くように満面の笑みとなり、大きく腕を広げたかと思えば布団に力強く抱きついた。
「……」
「ありがとう姫若子! あ、ごめん嘘ですはしゃぎましたありがとう元親! さすが私の親友、わかっていらっしゃる! いつでもお嫁においで! 苗字は伊達でも元親んとこでも良いよ! 大歓迎さ! って元就様なんで飛び道具使ってくるんですか怖い怖いやめてやめてノー! 元就様だって私の親友じゃんいつものスキンシップじゃんなんでそんなに怒ってんの怒髪天突く勢いでやめてやめてあ顔赤くなってきてぎゃー! 本当にごめんなさい顔赤くなってるよなんて指摘してごめんなさい笑うなチカマジ助けてあの人般若の形相でこっちに向かってきてるんですけど助けてこじゅーろーさぁあーん!」
 聞いているうちになんだか愉快な友人関係らしく、小十郎の顔にも困ったような、呆れたような笑みが浮かんでいた。……が、それは自分の名前を叫ばれたことで一切の動きを止めた。
 時折混じる自分の名前は、それは大層親しげだった。だが、それもちょこちょこ頼られているような兄貴分のような、まるで政宗と小十郎といったような、それぞれ微妙に感じの違う言葉だったりもして、ここまで力いっぱいいないだろう自分の名前を呼ばれたのは初めてだった。
 動揺する小十郎に気づくはずもなく、布団に抱きついているはぐずぐずと鼻を鳴らす。
「こじゅーろーさんの方がチカより大人だもん。きもいって言うな。小十郎さんもう私の世話役じゃないけど、大事な人だって言ってくれたからかけつけてくれぎゃー! 日輪こえー!! 焼け焦げたくないです焦げるなら恋の炎って決めて止めてチカ笑うな放置するなもうこうなったら」
 一旦唇を閉じたは、胸いっぱいに空気を吸い込むような深呼吸をする。胸を膨らませて軽く布団の上で胸を張り、力いっぱいの叫び声を上げた。
「必殺! オカンの助力だ猿飛佐助私の幼馴染兼ゆきとまさの保護者! しょーかん! あだっ! 殴ることないでしょ結局駆けつけてくれるくせにっつーかさっきから物陰にもしかしていましたか今すぐ助けろ日輪がきたー!?」
 忍びが一人、屋根裏で頭を打つ音が聞こえた。
『愚か者め……』
 どこからか毛利元就の声と共に、苛烈な衝撃音が聞こえた気がしないでもない。
 小十郎は笑いを堪えることが出来ず、しばし肩を震わせて文句を言い連ねるのこまっしゃくれた、どこか幼い言葉達に聞き入った。


「よしひめー! よしこー! ごめんなさい義姫さまお母様言ってみたかっただけですだって呼ばせてくれないじゃんかどう読んでもギヒメって読むよ普通はギヒメって! ごめんなさい調子こきましたお母様ごめんなさいマジすんませんマイマザー! ちょっと笑ってないで助けてよ小次郎ちょっとこっちこい政宗お前今笑っただろうなんて姉不幸な弟たちなんだ二人揃ってぶっ飛ばすぞ小次郎は笑い地獄の刑ね政宗が泣いて謝ったくすぐり地獄をお見舞いしよう政宗も逃げるなよユーシー?」
「今度は義姫さまにも食って掛かってんのか。親子らしいとは言え、怖いもの知らずな女だな」
 とりあえず面白いのと報告のために、小十郎は紙や墨や筆やらを持ってこさせて叫び声の全てを書き記していたが、どうやら母親の名前を読み間違って覚えていたらしい。先ほどの寝言から言うと、輝宗が毎日毎日「よしひめ」と呼んで愛を囁いていたようなので、間違えるはずはないのだがと小十郎も不思議に思う。
 そして政宗と小次郎が仲睦まじいらしいその内容に、知らずと口の端が上がった。義姫とも仲は悪くないらしい。
 すでに十年以上前の話だが、やはりこちらの政宗と家族の間には消せない禍根が存在している。無邪気にじゃれあうことは、現在不可能といっても良い。それなりに家族としての交流はあれど、いつそれが突付かれるか正直小十郎も恐れを抱いているほど。
「夢の中だけでも、政宗様がご家族と仲睦まじいのは」
 言いかけて、笑みを浮かべていた自分に気づくと小十郎は表情を引き締める。
 そしてぐだぐだきゃあきゃあ騒いでいるを、丁寧に書き写す作業に没頭していった。
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