変わらない寝顔【幸村】
政宗殿の機嫌が、すこぶる良い。
本来ならば無条件に歓迎すべきものだと分かってはいるのだが、理由の分からぬ上機嫌に幸村は首をかしげた。
佐助に聞いても知らないと言われ、小十郎に聞いても首を傾げられた現状から、幸村は回りくどいことなど一切せずに政宗の部屋へと向かった。が、そこには姿が見られず、ならば鍛錬かとまた部屋から出てあちこちをうろつき回る。
慣れている伊達軍の誰もが幸村を止めず、むしろ政宗の居場所を教えてくれる。
それに感謝の意を述べながら、幸村は見かけたと言われる井戸の近くへと進路を変更した。
そして目的の人物を見つけるや否や、幸村は一声上げて政宗を振り向かせる。躊躇いなく、直球で言葉を口にした。
「政宗殿、本日は何か良いことでも」
幸村が言い終わらぬうちに駆け寄り終わらぬうちに、正面に立つ政宗の表情が笑みへと崩れていく。
それは穏やかで、凪いだ海のように静かで、幸村が見たこともないその表情は予想外すぎて、思わず言葉を失った。
反射的に辺りを見回した幸村は、視界の端で佐助が目を見開いて木の上から身を乗り出しているのを目撃し、更に視線を移動させれば、なにやら持ってこちらに来ようとしていた小十郎が踏み出した足もそのまま、石像のように見事硬直している現象も見てしまった。
そんな周りの様子にあたふたする幸村をよそに、政宗はどこか爽やかに晴れ晴れとした笑みを浮かべると、前髪をかき上げながら声を上げて笑う。
「HA! ……まぁな」
余裕そのものな態度はいつもと変わりのないものだと分かるのだが、幸村たち三人は現状を中々把握することが出来なかった。現状に至る原因もつかめず、呆然と政宗を見つめる。
ただの余裕ではなく、確固たる土台が組み直されたような、不安定ではなかったはずの足場を補強してみて、存外安定感が増したと言うか。
とにかく、幸村から見た政宗はただの虚勢ではなく若さゆえではなく、正しく余裕の表情と雰囲気を醸し出していた。
結局、政宗が上機嫌である理由は教えてはもらえなかった。
笑って受け流すその様子は、いつもとは違い幸村がいくらしつこく聞いても怒りへ転じず、まるで我が侭な弟の言葉を受け流す兄のそれにも見えて、実際兄弟関係としては次男である幸村は釈然としないものを感じていた。
「兄上のようだとは言わぬが、今日の政宗殿は一向に怒る素振りもされぬ」
「怒られたいとか言わないでよ、旦那」
忍ぶことを許されず引きずり出された佐助は、腕を組み胡坐を組んで座り込んだ主の背中へ、ため息と共にぼやきをぶつける。振り返らないのは百も承知だが、佐助の苦労は絶えない。
幸村はそんな佐助の心境を知ってか知らずか、特に返答もせず振り返ると顰め面をしたまま唇を動かした。
「政宗殿が上機嫌な理由を探って来い」
「……へいへい」
理不尽だと言うこともなく、佐助は一言二言音もなく唇を動かして、諦めたようにその場から姿を消す。
長年仕えているからこそ分かる、幸村の頑固な一面と馬鹿馬鹿しいとも言えるその命令に、佐助は面倒なことにならないうちに逃げ出したとも言えた。
指定された自室にて残った幸村は、しかめ面のままひとつ深い息を吐くと、気分を入れ替えるように立ち上がる。
すでに今の時間まで許された鍛錬の時間は消化済みで、これ以上すれば伊達のものたちに困った顔をされるのは学習済み。こちらに来た際に消化しなければならぬ執務などもすでに済ませた幸村は、もうひとつの時間つぶしへと足を向けた。
段々減っていく人影。物音。
それに反比例して増えていくのは気配を殺した忍び、警備、あちらこちらに仕掛けられた鳴子やらの装置たち。一歩道を間違えれば、客であるはずの幸村でさえ忍び達に取り押さえられてしまうのだろうと、重々承知しながらその廊下を歩く。
傍目からはただの離れ。離れと言っても廊下は続いているのだが、主要な人物が暮らしているわけでもなく、主要なものが保管されている場所へと続いているわけでもない。だからこそ、近寄る人間は最低限無意識のうちに規制されていて、さらには政宗たちが手を打ったことによりそこら辺の重鎮警護などより、よほどの警備体制が敷かれている。
それは最初、不審人物が逃げ出さぬように、暴れてもすぐに取り押さえられるように、他の人間に見られぬようにとの対処。
けれど日が経つにつれて見えぬ警備は質を高めていき、していることは同じでも理由はゆっくりと変わっていった。
眠りを妨げぬように。
寝相で怪我をせぬように。
腹を冷やさぬように。
誰かに侵入されぬように。
誰かに傷つけられぬように。
誰かに連れて行かれぬように。
それは幸村でも分かる、目に見えての変化ですらあった。
穏やかな寝顔で囁かれる自分達の名前は優しく、時折繰り出される拳や足は苛烈で、寝ているのに喜怒哀楽が激しいその姿は平和そのもの。意外な名前と一緒に呟かれたりなどした場合は、一体どのような関係が繰り広げられているのかと悩んでみるのも一興という、ある種娯楽のような時間。
幸村にとっても、は興味深く気になる存在になっていった。
幸村にとっては動物愛護精神やら子供を保護する大人の気分なので、実際政宗たちとは少々違う「気になる存在」なのだが、それはそれで大切に思う気持ちに他ならない。皆同じような心境なのだろうと、幸村はほんの少しのズレに気づかぬまま、なにやら微笑ましく感じていた。
考えながら歩いていくと、いくつかの影が幸村の横を通り過ぎていく。
目に見える関所など作れない場所なれば、わざと忍びたちが影のように横を通り過ぎることを関所代わりにしており、幸村は木の葉が散るよりも気に留めず、どすんばたんと騒がしく響いてくる騒音に笑いをこぼす。
「おやかたさまー! ちょ、おじさまマジまてちょこのろまんすぐれいがこのやろうまてってば、おやかたー!!」
騒々しい雄たけびが耳に届けど、その声はこの場所より外へは漏れ出ない。
それがどのような術の類かは幸村も知らないが、取りあえずはその叫び声の内容に軽く瞬きを繰り返し、少し足早に閉められた障子の前へとたどり着いた。
障子の前に立っても、内側から聞こえてくる叫び声は止むことを知らず、とすんばたんと暴れるような音も聞こえてくる。
「いやー! まだひとりでいいってば!! みあいなんかおことわりだばかー!!」
大絶叫。
ものの見事に大絶叫。鼓膜破裂させたらその隙に逃亡します、などと宣言されているかのような喉も枯れるような大声は、軽く障子に振動を与えた。
「……」
幸村も大声に慣れているとはいえ、心の準備をしていなかった音量とその内容に、思わず顔をしかめてしまう。
そして次に響いてくるのは、男の声。
「だー! お前寝てても本当にうるせぇぞ! 寝てる間くらい女らしくしろ!」
政宗の部下、黒脛巾の一人。
何かを判断するより早く、幸村は気配もないその男の立場を思い出す。佐助と何度は話している場面を見かけた、良く笑うと言うよりも笑っている顔しか知らない忍び。
障子に手を掛けようと動いた幸村の目の前で、障子が勝手に開いて内側から何かが飛び出してくる。
「は?」
「へ?」
幸村がその目に映したのは、軽く目を見開いた黒脛巾の男の表情と、目の前に向かってくる色鮮やかな固形物。
これは枕だと幸村が気づいたときには、幸村の片手はそれを見事打ち返していた。
「あ」
忍びの呆けたような音が響く。
けれど反射的にしてしまった行動は、当たり前のように打ち返されたままの軌跡で元の場所へと戻ろうとして、座り込んで眠っているの顔面へと一瞬で到達した。
「あ」
幸村の呆けたような声も響く。
ガツッとも、ゴツッとも、ゴッともつかない鈍い音が響くと同時に、ずるりと枕はの膝元へと落ちていく。
硬く中身の詰まったその枕は、の顔面を殴打するだけでは飽き足らず、そのままの勢いでの後頭部を、部屋の中にある襖の枠木部分へとぶつけ、挟まれる格好となったは頭部を揺らして激しく畳へと倒れこんだ。
「……」
「……」
倒れこんだことにより、更に頭部を殴打したような鈍い音が響いたが、二人とも三度目の殴打防止に走り寄ることすら忘れ、その光景を一部始終見つめるだけになっていた。
「……」
「……」
「……なにしてんの」
見詰め合う二人に、第三者の呆れ声が届く。
勢い良く振り向けば、両手を後頭部に回した佐助がうんざりとした表情で二人を見つめていた。
「……で、なんでこうなってんの」
武田のオカンで最近は奥州のオカンも兼用、もとい猿飛佐助は呆然とする二人を尻目にちゃっちゃとを抱き起こし後頭部と顔面を調べ、冷たい水を桶になみなみと持ってこさせて素早く処置をしてしまった。
そしてそのまま寝かせては痛いだろうからと、厚めの座布団を枕に寝かしてあるの額を撫でつつ、忍びと幸村を正座させて説教を開始していた。
しょんぼりと水に濡れた犬のようにしぼんだ幸村とは対照的に、黒脛巾の忍びはいたって軽い調子で笑う。
「悪ぃ悪ぃ。お前んとこの主が、あの場面で逃げねぇとは思ってなくってよ」
言葉としては謝罪を含んでいるが、要は幸村が全面的に悪いと言っているようなもので、それはさすがに佐助の米神がひくつく。が、部下としてオカンとして口を開こうとした佐助を制止し、幸村が首を横に振った。
「真に、その通りでござる。某があの時、障子の前から退いていれば。打ち返さず受け止めていればよかったのでござる」
「うんうん、障子開けて被害拡散しようとした俺は悪くない。真田の大将もいい男じゃねぇか」
真摯に後悔と反省をしている幸村と対照的に、やはり忍びは飄々と笑う。
佐助はその男にクナイを投げてみるが、あっさりかわされた上に丁寧に返されてしまえば、馬鹿らしくもなってくる。が、やはり腹立たしい。
静かに獲物での攻防が開始されるが、忍び二人は笑顔。
幸村も今回の奥州訪問で慣れたやり取りなので、特に注意もせずにへと視線を向ける。
顔面が真っ赤に染まっているが、その範囲はまさしく枕がぶつかった形のみ。
申し訳ないという感情と、かように女子は痛みに敏感なのだなと感心する感情が交互にわいてくる。
それはただ単に、幸村や信玄、佐助の回復力が異常なだけなのだが、自らの周りを常識と信じる人間の一人である幸村は、その事実に気づくことなくしげしげとの寝顔を観察していた。
何事もなかったような表情で眠っているが、その顔は赤く色付いていて、痛々しいより面白い模様だと思ってしまうほど、見事な枕型。
何度見てもそんな感想しか出てこないのだが、その責は幸村にある。
けれど正直、佐助が冷やしただけのように、顔面を殴打した場合の治療法は本当に少ない。骨が折れていたりずれていたりするならまだしも、ぶつけただけなら治療のしようがない。
と、幸村がの震えに気づく。なんぞ寝返りでもうつのかと続けてみていると、その唇が動いた。
「……」
誰かの名前を呼ぶような、優しい吐息がこぼれた。そして、へにゃりともにへりともつかぬ、少々緩いほどの笑みが浮かべられる。気の抜けきった、間抜けとも思われる笑み。
「……」
思わず幸村は硬直するが、寝ているがそれに気づくはずもなく、なにやら手が布団から伸びると優しく何かに触れる動きをする。
「……」
その動きになにやら心当たりが有るような気がして、幸村はしばしその動きを観察する。寝転がったまま自分の胸ほどの位置、その虚空を撫でる手の形は丸く、短い間隔で何度もその手は動かされている。
なんだったかと喉元まで出てきている答えを吐き出そうと、幸村は眉をしかめてうんうん唸りだすが、その答えはがつるりと口にした。
「ゆ、め、きっちゃ……」
「おお、そうか、夢吉殿か!」
前田慶次殿の、肩にいつも乗っている!
なるほど、そのように小さい者に触れるならば、あのような動きになるな。
疑問がすっきりと解消された幸村は、が口にした名前を疑いもせずに頷き、笑み崩れたその表情につられて自分も表情を崩した。
「……」
「……」
その隣で静かなる攻防を繰り広げていた忍び二人は、どうにも緩んだ空気を出す男女一組に気づくと、毒気を抜かれて獲物をしまう。というか、真面目に力をぶつけ合うことが馬鹿らしく感じ、精神的に疲れていた。
幸村もも、どこを切っても幸せだと言い出しそうな笑顔を浮かべている。
「……いや、あいつも変わった女だけどな」
「……旦那も変わった男ってことだよねぇ」
はぁああああ。
心底深く呆れ疲れ切ったため息が、忍び二人の口からこぼれた。