変わらない寝顔【政宗】


「うふふふうふふうふふ」
「……」
 今日も様子を見るかと執務を抜け出して顔を出せば、障子を開けたすぐ足元に転がる。なにやら上機嫌らしく、政宗も思わず眉根を寄せるほど楽しそうに不気味な笑いを垂れ流していた。
 どこか小さな子供のように体を丸めているが、その両手は口元を隠そうと重ねられ、けれど隠し切れぬ笑い声はおどろおどろしいほど上機嫌に響き渡っている。
 この部屋、そんなに防音出来る作りか?
 思わず中途半端に開けてしまった障子を見つめ、木枠を指先でなぞってみるが丁寧に作られたその造りが分かるだけ。開けるまでこの笑い声に気づかなかった事実に、政宗は自分が疲れているのか今声が大きくなったのか考えてみたが、考えて答えが出ても詮無きことと気づき、ため息をついてしゃがみこんだ。
「おい、城主を入室させない気か?」
 とりあえず軽く声を掛けてみるが、笑いっぱなしで寝ている人間が答えるはずも無く、政宗はもう一度ため息をつく。
 中腰で座り込むと言う体勢では室内に入れるはずもないので、そっと政宗側に向けられている顔を見つつ、その肩を押す。ごろりと簡単に転がったの体はくたりと仰向けに寝転がるが、楽しそうな笑い声は続く。
「…………」
 なにやら楽しそうにおしゃべりを始めたようだが、政宗にはその唇が上手く読めない。
 武田のあの猿なら読めるんだろうなと思いつつ、ふと政宗は寝転がったの片手に視線を留めた。
 真っ白な包帯がぐるりと巻かれたその片手は、着目してみていなかった政宗でも普段と違うと判別できるほど、見事に腫れ上がっていた。
 何かを考える前に、政宗の唇が動く。
「おい」
 即座に廊下へと降り立つ部下に、政宗は一瞥も向けず報告を促す。
 心得た忍びは、主の空気に静かに口を開いた。
「本日の寝相により、柱に拳を思い切りぶつけた際のものにございます」
「治療は」
 誰がやったのだと暗に問いただすその口調は、どこか政宗の苛立たしいと言いたげな感情を含んでいて、忍びはほんの少しだけ顔を上げて主を見るが、気づかれぬうちに頭を下げなおす。
「猿飛めが行いました。薬は黒脛巾のものにございますので、怪しいものはありません」
「そうか」
 求められた報告を終えても、政宗の機嫌は直らない。
 むしろ自分が機嫌を損ねていることにすら気づいていないのではと思えるほど、政宗は静かに口調を荒げていた。
 政宗の手が、やんわりとの手首を掴む。包帯に巻かれた手首の先は、政宗が口を開くより早く薬の匂いを主張する。たっぷりと塗りこまれたそれは、包帯をぐるりと巻いても漏れ出るほどらしく、政宗は少しだけ違った意味で顔をしかめた。
「……政宗様」
 人を近づけぬよう配慮した一室だとは言え、城主がしゃがみこんだまま部屋に入らずにいるのは無用心である。
 そのような意味をこめた部下の呼びかけに、政宗は返事もせずを抱き上げると、そのまま布団の上へとを移動させた。
 どかりと枕元に腰を下ろした政宗を確認した忍びは、音もなく障子を閉めるとその場から姿を消す。
 その場はすぐ静寂に満たされるが、政宗の眉間の皺は取れない。
「……初めてじゃねぇか?」
 問いかけを口にするも、返ってくる声はない。
 今まで何度となく寝たまま暴れ、忍びが弾かれる珍事やら襖が蹴破られるやらの騒ぎはあったが、が負傷するような出来事はなかった。
 よくよく考えれば、あれほど暴れていて自身に傷を負わなかったことこそおかしいのだが、政宗は幾分か動揺している自分に気づいていた。
 が負傷する。手に、包帯を巻いている。
 一旦気づいてしまえば限りなく匂う薬の香り。巻かれた包帯でもそれは隠しようのない事実で、政宗の胸をざわざわと騒がせる。
 たかが不審者が一人、怪我をしただけのこと。それも命に関わるようなものではなく、本当に軽い片手ひとつ。
 分かってはいるが、政宗は自分がなぜここまで動揺しているかが分からず、笑みを浮かべたまま一向に目覚めぬの前で、そろりと瞼を下ろした。

 暗い部屋、音のない部屋、薬のにおい、一人きりの部屋、包帯をまかれた患部、誰も寄り付かない部屋、一人きり。

 考えていけば、自分が動揺している一端に気づく。それはとても簡単なことで、けれどなぜ今更連想するのかと、純粋な疑問もわきあがってくる。
 目の前の女は、目を負傷したわけではない。こうやって政宗も顔を見に来るし、傍に佐助もいたらしいと聞いたし、政宗の部下達も常にを監視している。今現在は、すでに見守っているといっても良い。
「なんでだろうな」
 分からない。
 本当に自分の感情が分からない。
 政宗は静かに瞼を開くと、変わらず動かず眠っているに視線を落とす。手の包帯さえ、薬の匂いにさえ気づかなければ、いつもと同じく幸福を体現したような穏やかな寝顔がそこにあるはずだった。政宗も思わず顔をほころばせてしまうほどの、笑顔。
「っ!」
 けれど、政宗は息を呑んで動きを止めてしまう。動いていないと思ったの顔が、瞼を開かず眠っているの顔が、こちらをゆるりと見上げていたことに気づき、思わぬことに衝撃を受けていた。
「……あ」
 落ち着け、落ち着けと政宗は自分に内心呼びかける。
 多分寝返りを打ち、偶然こちらを見上げるような格好になったのだろうと思い込もうとするが、の首は明らかに見上げる姿勢として軽く上げられ、その瞼は閉じられていてもしっかりと政宗の顔へと向けられていた。
「あ」
 動揺しすぎたためか、政宗の口からは上手く言葉が出てこない。
 この程度で動揺し、敵に襲撃されれば命はないと頭の冷静な部分は嘲笑っているが、先ほどまで流れとはいえ面白くない自分の過去と向かい合っていたのだ。多少の動揺は致し方ないと思うべきか。けれど、その過去もすでに清算されている。動揺を長く続ける道理はない。
 ゆるゆる幻覚のように、過去の光景が目の前に立ち上ってくる。一人きりの梵天丸、自分を見る母親の目が表情が、くしゃりと忌々しそうに泣きそうに歪む光景、暗闇に一人きりで体中を這い回る忌まわしい周りの言葉、弟である竺丸の不思議そうな視線。
 あの過去は、あの忌々しい時間は禍根こそ残しながらも、今は家族間に大きな亀裂はない。食事を共にすることも、文を交わすことも、ただただ同じ時間を過ごすことも出来るほど、関係は修復されている。弟も小次郎と名を改め、当主の座を狙うでなく、己を兄であり当主であると当たり前のように慕ってくれている。
 けれど、目の前のが過去の忌々しいものを暗闇色を練り上げた亡霊に思えて、政宗は知らずと子供のように怯えてしまう。
 ぎしりと体が軋み、口の中が乾いていく。の手が、伸びてくる。また政宗を、梵天丸をあの頃の再現でいたぶろうとしているように。
「あ」
 母上、父上、ごめんなさいと、気を抜けばかすれた声で叫んでしまいそうなその恐怖心は、理性の声などには一切正気を取り戻さず、政宗を見上げてくるから、怯えた目をしながらもどうしても視線を外すことが出来ない。
 ゆらりと伸ばされてくる包帯に包まれたその手に、体が引きつりますます身動きが取れなくなる。
 手は音もなく伸ばされ、政宗の組まれた膝に触れてきた。
「っ!」
 ひゅ、と小さな音を出した政宗の唇は、その形のまま動きを止める。
 政宗を過去に引きずり戻すかに見えたの唇が、ゆるりゆるりと柔らかくくつろいだ。
 政宗が瞳に映そうとしていた、幸福を体現しているような穏やかな、それで居て今は政宗を気遣うように、優しくくつろいだ笑みがそこに花開いていた。
「ま、さ、むね」
 優しい声が音が、愛しい愛しいとなだめ愛撫するかのように政宗の耳をくすぐり、鼓膜を揺らす。
「……だいじょうぶ、だよ、お、ねえちゃん、ここ、に、いる、か、ら」
 とん、とん。
 一定の拍子での手が政宗の膝を叩く。子供をあやすようなその手の動きは、痛みなど与えぬ優しい優しい手の平で、同じく優しいその言葉をつらつらと吐く。
「だい、じょうぶ、だいじょう、ぶ。……おとーさん、も、おかーさん、も、こじ、も、こじゅ、も」
 とん、とん、とん。
 優しい拍子で膝に触れてくる手の平と同じく、穏やかな声音があやす様に囁く。その唇には笑みさえ浮かべて、まるで母親のような安堵感さえ与えてくる。
「……」
 声も出せずに見つめるしか出来ない政宗に、は続ける。
「みん、な、み、んな。ま、さ、が、だいすき、だ、よ」
 とん、とん、とん、とん。
 穏やかな手の平の音が、さするような動きに変わる。
 何度何度も大好きだと呟き、は笑う。
「がんば、っね。えらい、ね。まさ、むね、がんば、た、ね?」
 ほんのり上げられた語尾はどこかからかうように、けれど誇らしげで耳に優しい調子だった。
 政宗の膝が、触れられていることにより温かくなっていく。の手の平は、何度も何度もぬくもりを与え尽くそうとでも言うかのように、政宗に触れてくる。
「まさむ、まさ、まさむ、ね。だいす、き、わたし、も、み、んな、も」
「……っ」
 涙を堪えきれず、政宗はその左目から次々と涙をこぼしていった。
「……っあ、ねう、」
 いない。政宗にそのような存在はいない。生まれていない。
 分かっていて、けれども政宗はに向かってその言葉を口にする。
 涙は流れるに任せて、嗚咽を堪えるために自分の口を片手で押さえながらも、なおも優しく膝をさするから目が離せない。
 穏やかな笑みを浮かべたその表情は、手の平から伝わってくる心音は、どこをみても眠っていることを如実に表しているというのに、優しく優しく壊れ物でも扱うかのような手つきで政宗に触れてくる。
「ま、さ、む、ね。かわいい、かわいい、おとう、と」
 幸せを目一杯詰め込んで、今目の前でそっと紐解かれた宝物のような、穏やかな呼び声が、政宗の涙を加速させていく。
「あ、ねうえ、っ」
 伊達政宗に血縁や義理でも、姉と言う存在は居ない。
 けれど、だからこそなのか政宗は涙を止められなかった。を、あえぐように姉と呼んでしまう自分を止められなかった。
 包帯に巻かれた痛々しいその片手。部下が口にしなかったところから、本当に軽い怪我なのだろうと推測が出来るのに、それでも今は胸が苦しい。怪我をさせたくなかったと思う自分に、政宗は戸惑った。
「まさ、む、ね?」
 落ちる涙に気づいたのか、ありえないことだがは体をずらして近づくと、政宗の顔へと手を伸ばしてくる。が、目を閉じているため当然目測は外れ、触れるのは胸元や腹。掠るように触れようとしては落ちていくその手に、政宗は荒くなった息を無理矢理深い呼吸で収めようと奮闘し、自らゆっくりと上半身を倒していった。
 伸ばしてくるの手首をやんわりと掴み、どこか不思議そうな雰囲気で様子を窺っているようなを、静かに布団に寝かせなおす。
 その開かれていない目を見つめ、政宗は開いたもう片方の手で自分の涙を拭いながら、笑った。
「あねうえ」
 嗚咽を少し引きずり、上ずってしまったその言葉は、するりと政宗の口からこぼれ出る。
 不思議そうに布団へと倒されたは、まるで当たり前のように笑う。
「まさむね。わたしの、かわいい、おとうと」
 が伸ばしてくる両腕を避けようともせず、むしろ自分から首の後ろに回すよう誘導し、政宗は静かにその胸へと上体を倒した。静かに静かに降り積もる雪のように、眠っているゆえの穏やかなの心音は、ありえない矛盾だと政宗も理解しているが、今は背中を優しくさするその手を逃がしたくなかった。
「まさむ、ね。だいすき、よ」
 囁かれる言葉は、子供の約束より足場のない戯言。
 けれどそんな現実など関係ないとばかりに、が眠るこの部屋の中では睦言よりも甘く、なによりも確かな言葉として政宗に響いてくる。
 横になっているその体を掻き抱いて、その肩口に首筋に顔を埋めて。……けれど、男女の甘い空気よりも幼子が縋りつくようなその行動に、政宗ももほんのりと口元に笑みを浮かべる。
「……あね、うえ」
「まさむね」
 無条件に向けられる愛情は、立場などなんの価値があろうかと踏み越えたそれは、政宗自身悲しくも久しく受けていなかったもので、政宗の胸をいっぱいに満たしていく。

 求めるより先に、触れてくる愛情。
 ねだるより先に、触れてくる体温。
 すがり付けば笑い、温かく受け止めてくれる腕。

 幼い幼い頃に諦め、違う方法で自分を満たす方法を見つけ、今日まで走ってきたと言うのに。
 今までの伊達政宗がなくなってしまいそうなほどの安堵感と、けれども伊達政宗としての意識は静かに確かに存在して、ただただ満たされることへの充足感に安堵の息をこぼす。
 腑抜けたわけではない。腑抜けるわけにはいかない。
 ただただ、無防備になれる場所を見つけたその喜びに、政宗は瞼を閉じた。
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