書状の中身【伊達】
「政宗様」
静かに、けれど確かに呟かれた自分の名前に、政宗は手にしていた書状から顔を上げる。視線の先ではどこか気遣わしげに政宗を見ている小十郎がいて、書状に関して幾ばくかの心配を掛けているらしいことが、その眉間の皺からも伝わってきた。
心配性な自分の右目に内心苦笑しつつ、政宗はもう一度書状に視線を落とし、すぐに顔を上げると口の端を上げ小十郎へと軽く笑みを向けた。
「心配すんな、ただの挨拶状だ」
「挨拶、と申しますと」
「真田のやつが来るらしいぜ」
楽しげに喉を鳴らした政宗とは反対に、小十郎は一呼吸ばかり動きを止めた。
なぜ、と問いかけようか迷う素振りを見せる小十郎に、政宗は楽しそうに笑い声を上げる。決まってるじゃねぇかと、当たり前のようにべらりとその書状を差し出した。
「読んでみろ」
「拝見します」
小十郎は差し出されたそれを丁寧に受け取ると、素早く中身を目を通す。なるほどと言うように軽く頷くと、小十郎はようやく肩の力を抜いた。
まさしくただの挨拶状。己の忍びの報告に疑問があり、面倒なので自分から出向くと言った簡潔な文章。その際にお邪魔してしまうので、失礼しますといった程度の本当に挨拶というか武将がこれでよいのかというほど、気軽なあいさつ文だった。
これは政宗様と真田の間以外では通用しねぇななどと、小十郎が考えているのを知ってか知らずか、政宗は楽しそうに笑い声を漏らす。
「どうせあの女がらみの報告だろ。どんな報告しやがったんだか」
女の存在を忠告してきたのはあっちだしなと、政宗はある意味内部情報が堂々と漏れているのも何処吹く風で、どこか楽しそうに小十郎から帰ってきた挨拶状に目を落とす。
戦場での荒々しい熱血振りなど嘘のように、背筋の伸びた流麗なその文字の流れは真田幸村直筆。
政宗も文字の美醜に関しては美しい方だと自負しているが、こうやって直筆の文のやり取りはどこか気が抜けて、そして新鮮な気持ちにさせてくれる。己の好敵手の意外な一面も、今のところ政宗を楽しませてくれるもののひとつになっていた。
「では、一室用意したほうが良さそうですな」
「いつもの部屋でいいだろ」
「御意」
すでに幾度か、政宗の城に幸村が、幸村の城に政宗がと言ったように何度か宿泊込みの交流を持っている間柄の政宗は、気安い命令を口にする。
小十郎も慣れたことだと請け負うと、短い退室の礼を取って政宗の部屋を後にする。
そんな小十郎に軽く手を振った政宗は、途中になっていた執務に戻るかと机に向き直り墨を擦りなおしてみる。しばしの静かな時間に無心に墨を作っていたが、政宗の集中力がふつりと別の気配によって絶たれた。
「政宗様」
「なんだ」
墨をすりながら、姿を見せない相手に政宗は特に何の感慨もなく返事を投げる。
黒脛巾の一人は天井裏から静かに報告を口にした。
「の寝言が始まりました」
その一言に、政宗の墨をする手が止まる。
「……」
けれどほんの少し動きを止めた政宗は、また何事もなかったかのように墨をすり始める。
「内容は」
「はっ、弟君が熱を出したそうで右往左往しております」
「……」
感情の色を乗せずに言葉を口にした政宗だったが、報告の内容に再び動きを止める。
弟君と黒脛巾たちが呼ぶのは、主君と同じ名前の人間を別人だと分かっていても呼び捨てに出来ないためだが、右往左往という言葉はいただけなかった。
「……」
「……」
なぜなら、という枕詞がついた右往左往は、見たとおり聞いたとおりの右往左往になるからだ。しかも、寝ているために脚ではなく体全体で右往左往する。
「……転げまわってんのか」
「部屋を縦横無尽に転がり、先ほど忍びの一人が弾き飛ばされました」
更に思いもよらなかった一言に、政宗は目を見開いて天井を見上げる。部下の悪い冗談かと一瞬考えたが、天井にある気配は動かない。けれど、どこか疲れたような小さなため息がひとつこぼれ落ちだ。
主の前でため息をついて良いなどという教育はしていないはずだが、に関してはため息をつきたくなると言うのも政宗は分かっていた。そして、ある種に関する事柄に対しては政宗も妥協やら諦めを共感していた。
「……Ha,まさにcrazyだな」
「くれいじー。同じような言葉を、も叫んでおりました」
間髪入れずの一言に、さすがの政宗もに対してため息を吐きたくなってくる。
自分は別の世界の人間だ! などと主張していたらしい怪しい人間で、自分の現在地も分からない人間で、それでも初対面の忍びたちに匿われ可愛がられていた人間で、なぜか政宗たちの名前と同じ家族がいるらしい寝言を口走っていて、異国語をなんの躊躇いもなく寝言で使う人間で。
寝汚く何があっても目を覚まさない女。
疑問や疑念は消えるどころか増える一方で、更に言えば異国語を使うらしいのに見た目は政宗たちと何の違いもない。もっと突っ込んで言えば、美醜で言えば本当に並か並以下の平凡な女なのだ。本来ならば、政宗たちが気に掛ける要素すら持たない人間だ。
何をどう間違ったのか、いまや天下の奥州筆頭伊達政宗の居城の一室にて、秘密裏にではあるが滞在している女。
「眠り姫って感じでもねぇしなぁ」
ぼんやりと回想しつつ呟いた一言に、天井裏の忍びはそっと囁く。
「すりーぴんぐびゅーてぃーになるにはまだ早いぞ、眠り姫は女の子だからしっかりしてとも叫んでいました」
「……」
「……」
報告はもういいと、政宗が天井に向かって軽く手を振ると忍びの気配が消える。またの監視に戻った忍びに、政宗は欠伸をひとつすると畳みに寝転がった。
忍びを弾き飛ばすほどの右往左往とはどんなものだろうか。
気まぐれに想像してみようとするが、そのように寝ながらにして行動的な人間を見たことがなく、女が乱暴に動くところを想像するのはどうしても政宗には無理だった。の寝相についてはようやく免疫が出来たかと思っていたのだが、やはり異世界人だからかだからなのか、政宗にとって驚くような報告は後を絶たない。
早く起きて質問に答えろと日々思っているのだが、寝汚く惰眠をむさぼる姿に最近ではほんのちょっとのんびりとした癒しを感じているのも確かだった。寝相がひどくない時限定の癒しだが、誰もがのようにのん気な顔して眠っていられるような、そんな世の中を思い描いてしまう。
穏やかで争いのない世の中。民が苦しまず、笑っていられる世の中をつくりたい。
それは乱世を生きる武将たちの大きな願いだ。
けれど、ままならない現状というのも身に染みて分かっている。
「ほんっとに、寝汚ェ女だ」
一人だけきりの空間で、ぽつりと力なく呟くのはへの悪態。
その実、すでにそのような事柄は口にするほどでもないと分かっていながら、のようにのん気な人間が長生きできる世の中をの寝姿から連想してしまい、その穏やかで時間の流れがゆるやかなその想像に、政宗は胸が苦しくなる。
どうしてそんな風に寝ていられるのか。
起きたら聞いてやろうと思っているのに、はいっこうに目覚めない。
どうして首を絞めてやっても苦しまない。
起きたら怯えるだろうか、憤慨するだろうか。……寝顔のように笑うだろうか。
「ッぁあ! くそっ! 執務だ執務!」
目を覚まさない怪しい女のことなど忘れて、本来やるべきことに着手しようと勢い良く起き上がるが、座りなおした政宗の手は仕事に伸びない。
それは元々このような仕事を好まないというのもあるが、気になって気になって仕方がないことがあるのも大きな要因だった。
政宗の執務室は隔離しているの寝ている部屋とは距離があり、物音や叫び声ですら聞こえない。だが、政宗の耳には部下である忍びの一人が弾き飛ばされる悲鳴を聞いた。ような気がしていた。
「……」
どんな高速回転してやがんだ、どんな転がり方すりゃぁ人をはねるんだ、どんな寝言今言ってやがんだ、どんな顔して弟心配してんだ、どれだけ心配してんだ、どれだけ寝てりゃぁ気が済むんだ、どんだけお前飲まず食わずで寝こけてお前それって死ぬんじゃねぇか今気が付いたぞ……!!
「小十郎!」
「はっ、こちらに」
良く考えれば人間が水も飲まず物も食わずで生きられるはずもなく、けれどもう七日以上経っている現在、が起きたこともないので食事をさせることも出来ていない。
気楽に考えていた政宗だが、それでは衰弱し始めているのではとようやく思い立った推測に、素早く現れた小十郎へと歩み寄った。
「あいつ、飲まず食わずで衰弱してねぇのか」
けれど先ほど怒鳴るような呼び声とは対照的に、政宗は自分を落ち着けるように心がけ、ゆっくりと言葉を口にした。
小十郎はちらとも動揺した素振りも見せず、はぁ、と気が抜けたような声を出すとうっすらと笑みを浮かべる。
「政宗様、本日も朝一番に顔を見に行ったことかと記憶しておりますが」
「だからなんだ」
穏やかな小十郎の声に多少苛立って先を促すと、呆れたように眉を上げた小十郎が、弟の失敗を受け流すように小さなため息をつく。
「そのとき、衰弱しているように見えましたか?」
その一言に、政宗はの寝顔を思い浮かべる。いかにも幸せそうに眠りこけ、口をもごもごさせてにへらと締まりのない笑みを浮かべていた。
「……締まりのねぇ顔だったな」
「そうでしょう。衰弱のすの字もありません。面妖なことですが、今のところ健康面に問題はないようです」
「そうか」
自分の杞憂だったかと安堵の息を吐き出す政宗に、小十郎はそっと気づかれないように肩の力を抜く。
いつの間にそれほど気に留めるようになったものかと、頭の痛い事態に今では胃も鈍痛を訴えてきそうだった。あからさまに怪しい上に、黒脛巾が主に無断で匿っていた女。もう七日滞在させているので今更だとは思うが、小十郎は主の好奇心と気まぐれにため息を漏らしてしまう。
「真田幸村が来れば執務に影響も出ましょう。今のうちに書類ものは片付けていただきたいものです」
「Ha! 心配すんな小十郎、任せとけ」
「その言葉、違わぬよう願います」
幾分か肩の力が抜けた穏やかな空気が流れる中で、政宗は書類に向き直り、小十郎は茶の一杯でも持ってこようと退室する。
穏やかな空気が確かにそこに流れていた。