竜の屋敷で初日【政宗】


 まるで幼子のような寝顔。
 己の何もかもを他者に預け、庇護されることを疑わず、全幅の信頼をその場に居るだけで相手に向けてしまうような、無防備な存在。
 そんなものには出会ったことがなかった。本当の赤子以外に、そんな存在が居るとも思わなかった。
 けれど現実は目の前に横たわり、女は眠ったまま己の名前を呼び抱きしめてきた。揺るがない愛情を込めて呼ばれた己の名前に、背筋が戦慄いたのを覚えている。
「……、ha」
 小さく鼻で笑ってみるが、むなしいその音は響くこともせずしおしおと消えていくだけで、政宗の気は晴れない。
 無防備なその存在は、政宗の右目にも寝言で触れていた。この女の弟の名前も「政宗」なのか、隻眼なのかと思うだけにとどめようとするが、やはり政宗の気は晴れない。あそこまでやっておいて眼が覚めない女に不信感というよりも不気味さを感じるのに、触れ合ったことを思い出すだけで胸が優しく疼きだす。
 政宗に姉という存在は居ない。温かく抱きしめてくれる、血のつながりのある女など居ない。
「……姉さん、ねぇ」
 ゆっくりと眼帯の上から、今は空ろになった右目を押さえる。寝言をつぶやいた女は、弟にそれすらも愛しいようなことを口走っていた。幸せそうに紡がれる空気と言葉は、政宗を包み込み錯覚を起こさせた。違うと分かっている。不審人物で、見も知らぬ女だと分かっている。
「けれど、それでも」
 つぶやかれた言葉は小さすぎて、そして唇の動きも少ないためにそっと霞のように空中で霧散する。
 政宗のいまだ光を宿す左目が、幸せそうに眠り続けるの顔を、どこか拠り所ををなくした迷子のように頼りなく、縋るように見つめた。
「愛されてる気がした」
 なんの憂いもなく、疑いもなく、悲しみもなく。ただただ向けられる愛情に、錯覚を起こしそうになっていた。
 ありえない、初めて顔をあわせた女に何を感じているのか。
 ありえるはずのない錯覚にもう一度笑おうと政宗は喉を鳴らすが、それは上手くいかずにただくぐもったうめき声を生んだ。掠れた声でつぶやかれた、奥州筆頭とは思えないその声音は千々に裂けるだろうと政宗は思っていたが、痛いほど政宗自身の耳にこびりついた。
 誰かに聞かれてはいけない弱音。すでに忘れ克服しているはずの傷。諦め過去のものと定義づけていたはずの恐怖。
 なのに、見も知らぬ起きてもいない女が、その傷を優しく撫でてくる錯覚。
「……っ」
 不意に聞こえた歯軋りしそうな憎々しげな声に、政宗は左目を瞬かせる。
「……うぅ……ん。その…………かな、きの、から……しみにしてたのに……!」
 先ほどまで幸福を体現していたような寝顔は消えうせ、今は掛け布団を抱きしめ首でも絞めているつもりなのか、片腕を顎に引っ掛けもう片方で固定するような、いわゆる背後からの首絞めに見える体制で歯を食いしばっている。……相手は丸まった布団だが。
「わ、たし……の! た、ち、う、お!」
「……食い意地張りすぎだろ、それ」
「かぼ……、かぼ、すまで、……とたー!」
 どう見ても起きているような音量で、けれどもごもごとした不明瞭な発音は恨み節を紡ぎ続ける。政宗のあきれ返って八の字に脱力した眉にも気づくはずなどなく、は涙は出ていないまでも泣きそうな声で布団を締め上げ続ける。どうやら太刀魚とかぼすの組み合わせが好きらしいことは分かるのだが、魚は美味いしなと政宗も同意をしないことはないのだが、両足までびたんびたんと敷布団の上で地団駄を踏み出すのはいかがなものかと思われた。
「これぜってぇ間者じゃねぇよ、ありえねぇ」
「ありえないこと、…………なんて、ない!」
「……お前の潔白の話だぞ、女」
 なんだか相槌を打たれているような言葉の応酬に、さすがの政宗も呆れを通り越して面白くなってくる。小さく笑い声をもらすと、女は小さなうめき声を上げて静かになった。布団を締め上げていた両腕は敷布団の上に落ち、もぞもぞと体勢を入れ替えるようにうごめいていた。
 その間も、政宗の耳には「ひどい」だとか「せっしょうな…………せっしゅうな? ちがう」だとか、挙句の果てには「あ、ごはんもうない」だとか言う悲壮感漂う台詞までも飛び出してきた。そこまでいくと我慢するのも馬鹿らしく、政宗は大いに笑ってその寝言を楽しんだ。どうやら家族全員で夕餉を共にするらしいと分かると、少し政宗にとっては複雑だが面白いものは面白かった。
 時折はさまれる「かあさん」という言葉に、一々己の体が反応することに嫌悪感を抱くことも、政宗は気づかない振りをした。
 けれど、次の言葉は政宗も無視できずに目をむいてその寝顔を凝視した。
 悲痛な声は、どこか子供っぽく無邪気で頭が悪そうな印象を与えた。
「ちょ、だめ! しげ、くん、しげざね! わ、わたしのおもち……!」
「…………成実まででてやがんのか……?」
 寝言だ、寝言なのだが「まさむね」「さすけ」ときて「しげざね」まで聞こえてきたのなら、そうそう聞き逃すわけにはいかない。なぜなら政宗は己の黒脛巾組からの報告で、目の前の女が違う世界から来たと主張している事実を聞いていた。だから、この世界に住まうものたちの名前など知らぬはずなのだ。……その話が本当ならば。本来なら、政宗の名前も佐助だとかいう名前も出ないはずなのだ。
「……」
 頭の隅で、目の前の女の世界にも男が居て友人のひとりや、家族の二人居てもおかしくないということは分かっている。むしろ、異なった世界出身などというたわけたことを疑ったほうが早い。異世界出身でないのなら、伊達政宗や成実の名前を知らないほうがおかしいからだ。
 けれど、異世界と言う話が事実なら面白いことこの上なく、政宗の退屈と好奇心をくすぐってくれるが、それはそれこれはこれだ。頭がこんがらがってくる話だが、とにかく疑わしい人間なのは間違いがない。

 この女は忍びではない。それは鍛えられていない体で分かる。けれど、農民でも町民でもない。山の中で暮らし、誰かに力仕事の一切をしてもらっていれば、まだその様な体になるかもしれないと推測する程おかしな体なのだ。平凡に考えれば、この国のものではないことになる。奥州の民ではない。けれど、これは武田でも上杉でも、きっと織田でも同じように「民ではない」と判断されるだろうと、政宗はため息を吐いた。
 政宗に会うとは思いもしなかったであろう女。
 むしろ、自分の居る国の主が誰かさえも知らなかった女。
 何が目的かと思えば、聞くところによると「現在地の把握希望・衣食住がほしい・家に帰りたい」の実に単純明快な三点だった。けれど口にする女の故郷は聞き覚えもなく、かろうじて分かった場所は大雑把過ぎて特定も出来なかった、らしい。実際改めて探させては見たものの、まず聞いた時点で政宗も「無理だろ」と一蹴するほど大雑把な場所で、さらに細かく聞いた故郷はもはや異国語と言って良い領域だった。似たような名称の地域もあったにはあったが、女の言う建物など誰も見たことも聞いたこともないもので、結局故郷は不明のままだ。
「お前、いったいどこから来やがった?」
 寝顔に尋ねても答えなど返ってくるはずもなく、先ほどからうつぶせになって何かを書き取っているらしい女は、政宗の前で渋面を浮かべている。
「いや……、きのうのふくしゅうなんて…………ぬきうちてすと、だなんて……!」
「Han,……Testねぇ」
 抜き打ち試験とは、こいつはなにかその道を極めようとしているのだろうか?
 職人見習いにもみえねぇが、俺のしらねぇ仕事かもしれねぇなぁ……。
 けれど、筆を使って文字を書いている動きにしては腕の動きの早い寝相に、政宗は片眉を上げてその様子を観察する。墨を付け足す様子もなく、書き損じて紙を捨てる動作もない。しかし確実に寝言を「あ、しくった」だとか「かきなおしめんどい」だとか、まぁ女とは思えない言葉遣いで書き損じを示している。けれど、なにやら手の平より小さな何かをとった動作をした後、それを紙らしき物にこすり付けるだけでまた書き取るような行動を再開する。
 不可解すぎて、不気味さも通り越してしまいそうだ。
「文化すら違うのか……?」
 けれど、着物は普段着ではないが、自分の国でも民族衣装だと言っていたらしいことから、近しいものだというのは推察できる。けれど、筆も使わずに文字を書くのは異国人くらいだ。それでも墨を付け直して書かなければならないもの。このように付け足さずに書く道具など、今のところ政宗の知識の中にはなかった。
 異国で開発された筆記道具かと考えてみるが、女が使う言葉は異国語に堪能な政宗でなくとも理解できる言語で、そこに不自然な訛りはない。
「……」
 不可解が不可解を呼び、考えれば考えるほど分からなくなってくる女の実態に、政宗は小十郎が探しにくるまでの一刻をその部屋で女観察に費やした。
Top