竜の屋敷で初日【小十郎】


 昏々と眠り続ける女の部屋に小十郎が足を踏み入れれば、ふわりと優しい香りが鼻先をくすぐった。ああ、これは政宗様が用意されたものだったかと室を見回すと、ひっそりと枕元に置かれた香の一式が小十郎の目に留まった。
 暴力ではなく、忍びの使う薬でもなく、……そのどれもが功を奏さなかったせいもあり、政宗は意地になったように絶対目覚めさせてやると愉しそうに笑っていた。つい先ほどまで、その誰とも知れぬ身元不明の女に抱きしめられていたせいもあるかもしれない。小十郎の目には、幼いころ母からの愛情を手にすることが叶わなくなった政宗に、女がつけ込もうとしていたように見えていたのだが、どうやら主である政宗は違うように感じたらしい。
 一瞬瞬いた呆然とした表情、次いでわいた憎悪の目、けれど霧散し幼子のように笑った刹那。
 その場の誰もが目撃したかもしれない、しなかったかもしれない小十郎が守り従う政宗の一連の感情。それは政宗の半生を軽く垣間見せる。
 小十郎の激怒も、その一連の流れと政宗自身からの制止で抑え込まれてしまった。
「……もったいない」
 けれど娘を怪しいと思うのは仕方がなく、黒脛巾組の長が大丈夫だといっても安心は出来なかった。なので、必然的に政宗自身がわざわざ用意した香一式にも拘ってしまう。確か、政宗自身が選びに選んだ香のひとつだったはずと、小十郎は記憶していた。国を傾けるほど値が張るわけでもないが、町民など多くの人間から見ればやはり一生手にすることの出来ないくらいの、それ相応の品だったはずだ。
「……はぁ」
 ため息がこぼれてしまう。眠り込んだ娘は起きず、時折聞こえるくすくすと言った若い娘特有の音が耳に触れては流れていった。
 小十郎の目の前で、先ほどまでおとなしく布団に眠っていたはずの娘は、笑いながら布団を抱きしめていた。
「……みっともねぇ」
 脱力してつぶやく言葉に覇気はなく、はだけた裾から覗く白い二本の脚は目に毒だ。特別細いわけでもなく、どちらかと言うと大根のほうを連想しやすいその脚は、真っ白だった。屋敷から外に出したことがないとは聞いていたが、小十郎は改めて娘の屋敷での生活を想像してみた。
 朝方そっと起こされ、忍びの誰かと朝餉をとり、この国の文字も読めぬことから読書も出来ず、鍛錬をするほど筋肉がついていないことから運動することも稀、手の空いたものと針仕事をしてみたり、元々の持っていた自分の荷物を広げてはしまうの繰り返しを経て、ぼんやりと屋敷の敷地内の散策や暇な人間を見つけての談笑、機密事項が多いことから屋敷内を歩き回る時間も日に日に短くなり、食事の回数が違うらしいことから昼には腹を減らして、夜も腹を空かせて三食たいらげる。その分一回の食事量は少ないらしいが、回数が多いならば意味はないのではないか。
 小十郎にとっては暇で暇で仕方がないような、半分でいいからその暇をくれと叫びたくなるような、そんな怠惰な時間。それこそ飽きるほど昼寝も出来るだろうにと、ため息が出来るほど有り余る拘束されたの時間。
 木登りなどに挑戦したり、屋根に上ろうとするじゃじゃ馬っぷりも聞いてはいたが、寝てまでじゃじゃ馬とは報告を受けていない。
 小十郎の目の前で、は布団を抱きしめたまま寝返りを打ってさらに脚をさらけ出した。すでに太ももまでめくられた寝間着は、が寝た振りで小十郎を誘惑しているのかと思わせたが、色気もへったくれもないほど健康的に幸せそうに熟睡しているその様子に、小十郎はもう一度ため息を吐き出した。
「……面倒くせぇな」
 特に小十郎は世話を言い付かってはいないわけだが、主である政宗が気に掛けているものに目を配るのは、ある意味癖といっても良い行動だった。政宗にいつそれが牙をむくか、最後まで疑うのも仕事のひとつだと自分に任じている。
 けれど命の危機になっても眠り続けるこの娘に、自分の警戒は通用しないのではないかと思うのも事実だった。
 さらりと寝顔からこぼれる髪のひと束を見て、忍びたちが匿っていたとはいえ特別な手入れもされていないはずの髪が、ひどく見慣れないほど美しいように小十郎には見えた。それは時代や長年使い続けていたシャンプーやコンディショナーなどのせいなのだが、小十郎は知らないがゆえに動揺する。
 すよすよと眠り続けるは無論のこと、そのような小十郎の動揺に気づかず眠り続ける。
「……」
 小十郎はひとつ深い呼吸をすると、まぶたを伏せて天井を見上げた。
 そして何事もなかったように表情を引き締め、のまくれあがった寝間着の裾を整えてやり、布団も見目良く掛けなおしてやる。
 何事もなかったような顔で、小十郎は静かに部屋を後にした。
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