二人三脚


 が小さくあくびをしてまぶたを擦る。読んでいた本を何も言わず閉じると、定位置にある小さなテーブルに置いて台所へと歩いていく。
 一連の動きを目で追っていたコルトピは、少し迷うような間をあけたあと、室内の誰もを追いかけないのを目線で確認してから台所へと歩いていった。
 かちゃかちゃとカップを鳴らしながら食器棚から選び出しているの背後を通り過ぎ、コルトピは冷蔵庫を開ける。その音に驚いたのか、大げさなほど体を飛び上がらせただったが、相手がコルトピだと分かると目が合った途端破顔する。ゆったりとおりる肩が笑いに揺れる。
「こるとぴ、びくり、する。だめ」
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど、びっくりした?」
「はい、びくり。こるとぴ、いる、ない。わかる、ない」
 気配がなくて分からなかったと言いたいんだろうと、付き合ってから聞き続けている言語能力の低さに、コルトピの方が理解力を上げていく。
 けれどそんなことを言っても急激に理解力が上がるわけもなく、根気強くお互い付き合っていくほうが、遠回りに見えても親密度は上がっていく。は気を許していく。
 そうしなくとも、なぜかはコルトピが大好きで、大好きな人から気を配られて嬉しくない人間は極々稀な存在なので、当然はよりいっそうコルトピへと好意を向けてくる。
 コルトピは、最初特に気にも留めていなかった向けられるその好意を、最近少しずつ他のメンバーにも分かる程度には受け取り始めていた。受け流すでなく、聞くだけでなく、傍観するわけではなくなっていた。
「今日の気分はオレンジ?」
 コルトピは無造作に冷蔵庫から一本のペットボトルを取り出す。何の変哲もない、けれどが買ってきたペットボトルのうちの一本。他にも種類はあるが、コルトピは選んでそれをに見せた。
 少し丸くなったの目が、嬉しそうに細くなる。ほんのりと染まった頬が、嬉しそうにはにかむような笑顔を浮かべる。
「はい、のむ、それ。……こるとぴ、ありがとうございます」
 特に何が飲みたいわけでもないときは、ただお礼を言う。それでも嬉しそうにするのは同じ。けれどコルトピはを見ていて、今何が飲みたいかを推察して、それを行動に移した。そしてそれは的中したようで、ほんのり染まった頬が細められた目が笑顔がの気持ちを伝えてくる。触れ合わなくても分かるほど、表情は雄弁だ。
 ああ、きっと本当に喜んでいるのだ。自分がに気を配ったと分かる行動に、単純に喜んでいるのだ。
 オレンジジュースは、別にの好物ではない。けれど時折飲むもののひとつではある。けれど頻度は低く、良く見ておかないとオレンジジュースを飲んでいることにも気づかない程度の頻度だ。……旅団のメンバーが飲んでいることに気づいていないはずはないのだが、特に重要でもないことなので気にしないものの方が多いだろうと、もコルトピも思っている。
 けれど、コルトピは気づいてそして選んだ。
「カップかして。グラスのほうが良いと思うけど」
「ぐらす? ……あ、はい」
 何を指しているか数瞬考えた素振りをして、はそれもそうだと言う様に頷きながら別の食器棚へと歩く。幾つか並んだそれの中から、小振りで柄のない物を選ぶと、当たり前の動きでもってそれより少し大きめのグラスも手に取る。そして振り返ったは、どこか楽しそうに笑った。
 コルトピは、言葉を持たずにその表情を見つめる。が言いそうな言葉は分かっている。そして、それを止める気がないのをコルトピは自覚していた。断る気がないのも自覚済み。むしろ、早くその言葉を投げかけてと待ち望んでいる自分にも気づいていた。
「こるとぴ、いしょ、のむ、よい?」
「……、もちろん。ありがとう、
 間髪入れずに答えようとした自分の舌を無理矢理押さえ込み、コルトピは一呼吸置いて柔らかく言葉を返す。
 そして自分からに近づき、首をかしげるにグラスを傾けるように指示する。
「よい?」
「うん」
 素直にグラスを傾け、ジュースの注ぎやすい角度になったそれに、コルトピは躊躇無くオレンジジュースを注ぎだす。慌ててグラスを持つ手に力を込めたは、びっくりしたように目を大きく開きながら、コルトピと目が合うと楽しそうに目を細めた。
 笑うという動作ひとつにも、同じように目を細めているように見えても、こちらに伝わってくる感情の色は多彩だ。
 それが面白くて、だからもっと見たくて、でも、ただ面白いだけじゃなくなっていて。
 コルトピは躊躇無くもうひとつのグラスを差し出してきたに、髪の下で笑う。
「おやつはなんにする?」
『んー、なにがあったかなぁ』
 一呼吸を置いて言葉を理解したは、小さな声でつぶやく。不意に変わる言語にも、コルトピは驚かなくなっていた。の表情は穏やかで、その視線は純粋に悩んだまま天井へと向けられていた。
「ん、ある。ぽて、りんご」
 言いながらは移動しようとするが、両手にグラスを持ったままでコルトピから見ると少し危なっかしい。
 食べ物やら何やらを放り込んでいる籠や袋の中を見ようとしているのだろうと、簡単に見当をつけたコルトピは率先してより先に動く。元々の実力から、に遅れを取るということはまずありえない。それに加えて、コルトピがそうしようと思ったなら動けないはずが無かった。
 コルトピはオレンジジュースのペットボトルを素早く冷蔵庫に収納し、さっさと言われたポテト菓子とりんごを籠と袋から探し出すと、が一歩足を踏み出してコルトピに気づく前に、真正面に立つ。
 何が起こったかわかっていないは、先ほどまで自分の後ろに立っていたはずのコルトピの姿に、思わずといった風に動きを止める。笑顔のままで目は瞬き、口元も笑みの形で固まっている。
「…………」
「…………」
「……こると」
「うん」
「……ぴ」
 思わず後ろを振り向いてしまったに、前に回ってぐるぐるからかうのも面白いかなーと少し悪戯心を刺激されたが、コルトピは至極いつものように小首を傾げただけに留めた。
「ここにいるよ、
 つぶやくように囁いた言葉は、コルトピが思っていた以上にどこか優しく、けれどいつもとあまり変わらないような声になっていた。
 向き直ったの表情が、目を丸くして軽く口を開いた呆然としたものになっていて、コルトピはその顔色が変わっていくのをつぶさに見ていた。
 特別な色でもなんでもない肌色から、じんわりと染み入るように桃色に染まり、眉が困ったように弱ったようにしかめられたと思ったら、丸い目が潤んで泣きそうに唇を戦慄かせ、顔色は真っ赤に染まりきった。
 耳たぶも首筋も赤く染まりきり、唇が歪んで瞼も歪んで、ぶるぶると震える音が聞こえるような動きで、はへたくそな笑顔を浮かべる。
「可愛い」
 思わずつぶやいて片手を差し出したコルトピは、なんの予告もせずの頬に触れた。頬に掛かる髪をかき上げて、びくりと肩を震わせて瞼を閉じたに、小さく笑い声をあげて楽しんだ。
「無防備って言われるの、分かるな」
 特に、好きだ好きだといつも言っているコルトピの前で、は警戒心をなくしてしまう。コルトピなら何もしない、に害のあることはしないとでも思っているのだろうと、誰もが恋の盲目さに穏やかな笑みを浮かべる。
 ……もちろん、一部それが気に食わないと笑えない人間も居るが、コルトピにとってはの態度はいつものことだった。好きだと言われる前後から当たり前の、コルトピへの対応だった。
 けれど、コルトピからこんな風に近づいただけで反応されるなら、もう少し考える必要があるかもしれない。
 髪をかき上げた延長で頬に指先を滑らせ、瞼を真っ赤な顔のまま閉じているの目尻から瞼は親指で撫でた。ますますびくつき、瞼を開けることが出来なくなるに、コルトピはやはり笑ってしまう。
「どうしたの?」
 なんでもないようにいつものように声をかけても、は唇を振るわせるだけで動かない。動けないと分かっているコルトピは、そのままそっとの頭を撫でてみる。
 先ほどから大仰なほど濃いピンクで黄色で鮮やかな青で構成されたのオーラが、悲鳴を上げるように四方八方に弾ける。コルトピから逃げようとするかのように遠ざかっていくのに、決して色は暗くならない。照れくさい照れくさいと全身で叫んでいる様子に、コルトピは持っていた食料を足元に落とした。
、そのままじゃ逃げられないよ?」
 頭を撫でていた手を後頭部に回して、振り払おうと思えば素人なでも十分振り払える程度の弱弱しさで、コルトピはを引き寄せる。真っ赤になったが絶対に暴れないことが分かっていて、くすくすと悪戯を楽しむように笑う。
「おやつ、食べさせてあげようか?」
「……ッ!!」
 即座に目を見開いて口を開閉させるに、コルトピはなるほどと納得する。の反応は面白い。話に聞く「よくある反応」であるはずなのに、それが自分に向けられていることが心地よい。
 なるほどなるほど、とコルトピは自己分析しながらこれを向けられたがっているシャルナークを思う。そして、最近がコルトピよりシャルナークを構う割合が多くなっている事実を考慮する。
 はまだ動けず、コルトピを真っ赤な顔で困惑した表情のまま見つめている。
 これは、この動作が感情がシャルナークに向くとしたら。
「ちょっと、面白くないかも」
「…………る、とぴ……?」
「なんでもない」
 とりあえず、ジュース飲ませてあげるね。
 コルトピの囁いた言葉に、は数十秒ほど泣きそうな顔で分からないと首を振っていたが、その後これ以上ないというほど全身を真っ赤に染め上げ、オーラは火山を噴火させたように燃え上がり弾け上がり、くたりとコルトピの腕の中で意識を失った。
 コルトピはその反応に気分を上昇させ、落ちかけたグラスたちを救出すると、一息つくように床に腰を下ろしてを抱きしめた。
 コルトピはあたたかいを膝の上で抱きしめると、ちびちびジュースを飲みながら第三者に発見されるまで、その場に留まった。
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