番外:ある人たちの休日


 
 ぱらり、と小さな音で紙がめくられる。そしてその音は一定の間隔を置いて響くが、ひとつひとつの間は普段の彼からは想像できないほど長い。
 長い指が紙をめくる動作は少なく、手の平はしっかりと本を支えている。ブックカバーで内容が推測できない本を一言も発さずに読み進めていく様は、黒いスーツ姿と相まってどこか神聖な絵画のようにすら見えてくる。
「……っ、後ろだ!」
 けれど思わずといった風に上げられる声は、普段の彼からはありえないほど切羽詰っている。
 実際彼の後ろに何かあったり、誰か居たりするわけでもない。ただ本棚が並び、ベランダ側からは輝く朝日が差し込み、扉の向こうのリビングダイニングでは、作りかけの夜食が数時間前から冷え冷えと食えたものではない物体と成り果てている。風呂もトイレも部屋数も、一人暮らしの男ならこんなもんだろといったこじんまりとしたアパートの一室。
 その寝室で、クロロは一心不乱に紙面の絵と文字を追っていた。
「ああ、ミキ!」
 読み進めている漫画が緊迫したシーンに入り、思わず声を上げてしまっているだけであり、クロロ・ルシルフルの本日の午前は、某長編漫画の過去編読破に費やされるらしい。
 すでに昨夜から時間は費やされているが、クロロに時間消費の自覚は無い。
 ちなみに、一口飲んですでに冷え切ってしまった傍らの緑茶は、登場人物である主人公父の愛飲している銘柄を模したものだったりする。
 片手を額に当て、単行本から顔を上げずに眉を寄せ目を細め、唇を噛み締めて苦悩の表情を浮かべる様子からは、クロロにあるまじき苦しげな吐息すら聞こえてきそうだが、彼が漏らすのはただの一般的ファンの心境のみだった。
「サトル、この鈍感野郎……!」
 ヒロインの一人であるミキの危機にも気づかず、のん気に別の場所をさまよっている主人公サトル一行に、クロロは怒りと、知らないのだから仕方が無いと言うサトル擁護の気持ちで揺れ動いていた。
 先を知っているはずなのに、ページをめくる指に力がこもる。
 どれだけ慎重にページをめくったとしても、すでに描かれている物語は変わるはずも無いのだが、クロロもそれは分かっているのだが、やはり慎重に丁寧にページをめくり落胆する。
「ああ、なんてことだ」
 場面のひとつひとつに一喜一憂しながら、クロロは天井の向かってゆっくりと悩ましげなため息を吐き出した。


 また別の地域の別室でも、同じように静かに読書をしている男が居た。
 自室のリビングにて、どこにでも居る一般人男性然としたカットソーとジーンズといったラフな服装で、ソファーに腰掛けテーブルに置いた漫画のページをめくる。
 時折手を止めて別の分厚い冊子をめくる動作も加わるが、一貫して静かに読書をしている光景。
 目元に掛かる前髪を払う素振りもなく没頭し、上り始めていたはずの太陽はゆっくりとビルの地平線へと沈んでいくが、男は頓着せずに読書を続けていた。
 静かに一言も言葉を口にせず没頭し、時折サイドテーブルからグラスを引き寄せる動作すら無音。
 そして最後のページをめくり終えると、空気の音も軽やかに本を閉じる。そのままソファーを軸に背を伸ばし、心地よさ気な声を上げてその腕を伸ばした。体をほぐし、充足感に笑みを浮かべながら両の瞼をこすった。
「もうこんな時間か。早いなぁ」
 朗らかに微笑み言葉をこぼすその顔には何も描かれておらず、普段の奇術師の面影はない。
 指先の上で回転させるのは、シンプルだが懐古的な趣向の懐中時計。
 限定10個の抽選販売物で、応募は百万倍とも言われる確率を潜り抜け、ヒソカが手に入れた主人公曾祖父私物のレプリカ。
 どこまでも精巧なレプリカであるそれは、名指しされた老舗時計会社が威信を賭け、細部にわたるまで作者と打ち合わせた上で試行錯誤し、懐中時計として普通に売り出しても数百万だか数千万の値がつくもの。懐中時計のマニアから、その材料のコレクター、物語上の重要アイテムという付加価値も付き、さらには曾祖父の人気が上乗せされ、おいそれと持ち歩くことすら危なくなってしまったもの。
 それを盗みや殺しといった手段すら使わず、執念で応募はがきを時間が許す限り書き綴り送った日々を思い返し、ヒソカは少しだけ遠くを見てため息を吐き出した。
 懐中時計はかちかちと正確に時間を刻み、時折主人公の曾祖父が瞳を緩める柔らかいメロディーを歌い、ヒソカに夜の訪れを告げていた。


「28巻どこ」
「カルト」
 いつものように無表情でノックもせず、人の部屋に不法侵入する長男。
 聞かれた事柄に考える間もなく即答する次男。
「……」
「……」
 長男は一言も発さずに踵を返し、次男はばりばりと言ういつもの咀嚼音すらない部屋の中、黙々とフィギアの調節を繰り返す。
 フィギアのキャラクター名前は『蛍子』と言い、ケイコママと呼ばれて親しまれている『うらおもて』主人公サトルの母親である。
 母親ながら現役時代その名を轟かす猛者だった頃と遜色ないそのプロポーションは、普段露出が少ない分衣装を換えられるフィギア構造での発売時において、多大なる歓声を受けたとか受けないとか。
 ミルキは一心不乱に、そのケイコの足の付け根稼動部掃除を続け、何度もその動きを見極めようと目を細めて微調整を繰り返す。彼女の繰り出す足技を再現するために、フィギアの足の付け根や足首の動きは特に精密に作られているため、ミルキは薄っすらと額に汗をかきながらも、集中力を切らせない。
「親父、53巻早く返してくれよ」
 振り返りもせずに言葉を発したミルキは、軽い音を立てて机に置かれる単行本冊数を正確に判断する。
「その前に、64巻を知らないか」
「貸してないはずだよ」
「じゃあ、キルアか」
「汚したらぶっ殺すって言っといて」
「ん」
 一度も視線を合わせないまま、音もなくシルバはその場を後にする。
 ミルキも特に頓着せず、ようやく掃除と調節の終わった事実に安堵の息をこぼした。
 その瞬間を見計らったように、扉のノック音が響く。
「ミルキ様、お荷物が届いております」
「ん」
 額の汗をタオルでぬぐうと、ミルキはすぐに届いた荷物の候補を脳裏に上げていく。
 どちらにせよ、ミルキが到着を一日千秋の思いで待ち望んでいたものばかり。
「失礼いたします」
 頭を下げて入室してくる執事たちに、ミルキは横柄さを隠そうともせずジュースのお変わりを命令した。
「かしこまりました」
 実に八時間ぶりの水分補給に、ミルキはもう一度安堵の息を吐き出した。
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