傘
天気予報はここ最近雨ばかりを予報しているけれど、私が登下校する時間はいつも雨がやんでいた。だから今日もそうなんだろうと思って、雨具類一切持たずに家を出た。
それがいけなかったと気づいたのは、委員会があるよと朝の会のときに友達がお知らせしているのを聞いたときだ。
今目の前の校庭では、ざんざんとバケツの水をひっくり返した上にシャワーの最大水量で水播きしているような、そんな雨降りの光景があった。
カバンの中は持って帰れと厳命されたプリントの束が詰まっていて、さらには親御さんに届けてねと判子まで押された書類も手渡されている上に、友達から借りて学校置きをすれば二度と貸してはもらえないだろう単行本も数冊押し込まれていた。
「やばい」
正直な感想を玄関で呟いても、それを潰すようにまた雨の音が強くなる。
は窮地に立たされていた。
そんな窮地とは無関係とばかりに、今日の部活は体育館もいっぱいだから中止だと伝えられた鳴海はふてくされていた。どうにもこうにも最近は雨が多く、吐き出しているはずの熱量が内に篭もり過ぎていて気持ちが悪い。サボりたくなるような日に限って部活があり、思い切り身体を動かして発散したいときに部活がない。
「こんな日はとか言って、綺麗なお姉さんのところにしけこむなよ」
「うっせマジでお前消えろボケ」
いつもの軽口を友達から叩かれても八つ当たりで返すほど、今日の鳴海は不貞腐れて苛立っていた。
「マジでもう……勘弁しろよ」
苛立って歪んだ顔で廊下を歩き、彼の機嫌の悪さに気づいた人々はそっと視線をはずして声をかける選択肢を消す。そんな周りの態度をありがたく思う反面、苛立ちが増す鳴海の気持ちは、自分でも制御しきれねぇと言う荒れようだった。
鳴海自身、他にも原因があることを理解している。サッカーが出来ないだけでたまった熱量じゃない。いつも顔を見ていた気になる女子の顔を、ここ数日拝んでないのも原因のひとつだ。
そこら辺は部活仲間で察してるメンバーも居て、わざと女関係の軽口を叩くのだが、鳴海はそんなことにも気づかずに苛立ちを露にする。おもちゃとなっていることにも気づかずに、気になる女子の顔が見れないものかと視線だけは周りへと投げていく。
彼女はここ数日、雨でしっとりとしている校内ですれ違うこともなく、登下校のときにも見なくなった。以前なら朝練が終わる頃に登校してくるはずなのに、ぬかるんだグラウンドで練習しているうちに登校しているようだし、校舎内では今までが奇跡だったのか時期が悪いのか後姿でさえ見かけることが出来なくなっている。下校時は飛ぶように帰っているようで、彼女のクラスを覗き込んだりしているが、気配すら過ぎ去った後だった。
「鳴海、あんたとあの子は赤い糸で繋がってないのよ」
自分が気にするのを知っていてそんなことを言うのは、サッカー部のマネージャーであり、気になる彼女とクラスメイトでもある女子だ。日ごろ彼女が何しているのかと情報を流してもらっているが、マネージャーは容赦なく人の不幸を笑う。
「諦めた方が早いんじゃなーい?」
楽しそうに笑うマネージャーと言う悪魔を、ほんの少しくびり殺したいなと殺意が湧いた瞬間を鳴海は鮮明に覚えている。早く忘れてしまいたい思い出だが。
今日も今日とて収穫もなく、靴箱前で下穿きに履き替えてふと人の気配に気づく。
連日続く雨にさっさと傘を開いて帰る人間が多い中、さっきから外を眺めてばかりで帰ろうとしない女子が一人目に留まった。
帰りたくないのか、誰かを待っているのか。
不安そうに揺れる後姿から、前者ってことはねぇよなとひとつ選択肢を消す。ならば後者かと考えても、誰か待っているというより空を見上げてばかりで雨がやむのを待っているとしか見えない。
気分転換に、雨に打たれて帰ったりするのもいいかもなと、自分の荷物をチェックして濡れてもいいものばかりなのを確認すると、鳴海は自分の傘を置き場から引き抜いて女子の隣まで歩く。
何の気なしに、声をかけた。
「なぁ、傘なくて困ってんだろ」
振り返って自分を見上げたその顔を見た瞬間、鳴海の頭の中で繰り返される教会の鐘の音と、クイズ番組で正解したときのようなけたたましい機会音が絶妙なハーモニーを醸し出して鳴り響き、彼は自分にご褒美が来たのだと、都合の良い時にしか信じない神様に感謝の意を捧げていた。
「あ、そうなんだけど……やっぱり雨、止まないかな」
ここ数日見かける事すらなかった気になる彼女は、困ったような笑顔で鳴海に返事をした後、ほんの少しの期待をかけて空を見上げた。
気になっているだけのはずの彼女に、すでに惚れていたんだと鳴海が自覚したのは、自然な流れだったんだと後に本人は語る。迷惑にも選抜の合宿で。
「俺の名前は、鳴海貴志だ」
「知ってるよ、友達からお噂はかねがね」
この前の試合もね、友達と見に行ってたんだよ。格好よかったね、鳴海くん。
感動のあまり震える身体を押さえ込んで前後の脈絡もなく名乗った一言から、次々と明らかになる事実に夢じゃないかと嬉しい眩暈を感じる鳴海は、次の言葉で決意した。
彼女の視線が、鳴海の持っている傘を捉えて、また鳴海の顔へと戻る。
不思議そうだったその表情が何かに思い当たったのか、嬉しそうな笑みへと変わる。
勘違いだったらゴメンねと前置きする声も表情も可愛いな、と鳴海が呆けている中で彼女がほんの少し恥ずかしそうな笑みで呟いた。
「一緒に、相合傘で帰ってくれるのかな。なー…んて」
彼女の染まった頬にかぶり付きてぇなと思っていたことを、鳴海が実行したのは次の年の梅雨。恋人になったと部屋でサッカーの試合ビデオを見てるときだった。
彼は今本の角で頭をぶつけても幸せらしいので、多分放っておいても問題はない。