前を向く



 左頬が燃えるように熱かった。
 きっと立ち直ることが出来ると思った。


 一緒に帰ろうと誘われたとき、座ったままの私の席から彼の後ろで私を睨む女子を見た。
 ああ、あの人がそうなのかと一目で納得してしまった。この人がもう一人の恋人なんだねと瞬時に理解して、これが女の勘なのかと実感し、そんな私を急かす彼を見た。
 彼は私の初めての恋人だ。いろんな初めてを彼と経験した。
 おっかなびっくり恋人同士の関係とやつを始めて、彼をどんどん好きになっていった。

 待っても教室から出てこない私に痺れを切らしたのか、それでも表面上は不思議そうに彼が私の傍まで来て、優しく私の二の腕を掴んだ。顔と言動が一致する優しい彼に私は恋をしていた。
「うん、なに」
 けれど恋も今日で終わりだろう。恋人関係も今日で終わりにする。
 一人勝手に決心して、その前段階の言葉を口にした。
 彼は訝しげに眉を寄せた後、なにってと口ごもった後、なんでもないように笑った。
「帰ろうぜ、もう遅いし」
 いつも待たせて悪いな、なんてはにかんだ笑みが彼の顔いっぱいに広がる。そんな笑顔も好きだった。
 でも「うん」も「そうだね」も「気にしないで」も今日は言わない。言えるような気持ちじゃない。静かに彼の顔を見上げて、膝の上で拳を握りしめた。
「どうしたんだよ、。なんだかおかしいぞ」
 早く帰ろうぜ、繰り返される言葉に意を決して席から立ち上がる。教室のベランダから差し込む落ち切る寸前の夕陽がまぶしい。反対に私を睨み続けてる廊下にいる女子の視線は、酷く煩わしく思えた。
「もう、一緒に帰らないよ。ううん、帰れない」
 彼の反応をうかがうように見ると、私の言ってることが理解できていないらしい。鳩が豆鉄砲を食らったような虚を突かれた表情で、呆然とこちらを見ている。二の腕を掴んでいた手もいつの間にか離れていた。
「な、なんだよそれ。何の冗談だよ」
「冗談じゃないよ、今まで楽しかった。ありがとう」
 彼は怒らなかった。怒れなかったが正しいかもしれない。
 私の言葉が理解できていないようで、一生懸命顔を歪めて考えているように見えた。
 廊下に立っている女子は、般若のような表情で私を睨んでいた。けれど彼の背中に向ける視線は、とても同情に満ちて計算高かった。
 彼が私の言ってることを理解する前に、この関係を終わらせようと口を開く。
「本当に貴方と恋人でいる間、楽しかったし幸せだった。全てが新鮮だった」
「でもね、今日でもう終わりにしよう。綺麗な思い出にしたいんだ」
 そこまで言うと、足元に置いていた鞄を手に持って彼の傍を通り過ぎる。最後に何か、最も打撃のあるだろう言葉を言いたかったけど、廊下にいる女子が何をするか分からなかったので、その言葉は取っておいた。
 女子は私が近づくと脇に退いて、視線で人が殺せるなら私は死んでいるだろうなという強い睨みを利かせてきた。本当に煩わしい視線。
 彼が私を追いかける気配はなかった。
 廊下を歩いて下駄箱までたどり着くと、一息入れるように息を吐いた。三階から一階の下駄箱までの間、彼が追いかけてきて私の見たもの全てを否定してくれたら、なんて淡い希望を持っていた自分に気づいて、小さく失望した。私はやはり格好いい女にはなれないらしい。
 気を取り直して靴を履き替え外に出ると、外付けの水道近くに人が何人かいた。
「よっ、じゃん」
「お疲れ。まだ残ってたんだ」
 男子サッカー部の何人かが残っていて、その殆どがクラスメイトで声を掛け合う。そう言えば恋人だった彼もサッカー部だったから、もう全員帰っていてもいい時間なのにと少し不思議に思った。
 けれどその不思議はすぐに溶けた。残っている内の一人が校舎に視線を流し、私達の教室辺りを指差した。
はさっきまで教室に居たのか?」
 思っても見なかった質問に動悸が激しくなるが、なんでもない風に笑った。
「うん、いたよ。でもなんで?」
「あいつと会っただろ」
 男子は言いながら、いつも彼がしていたような笑顔を作る。少し似ていて、無理矢理笑って頷いた。
 私の反応に満足したのか、そのあいつがさ、と話が進んだ。
「あいつが恋人紹介してやるよって言ってさ。迎えにいったんだ」
 お前のほかに女子、誰が残ってた?
 最初は何を言われてるか分からなかった。喋っている男子の顔が歪んだかと思ったら、足元から全てが崩れ落ちていくような感覚が私を襲ってきた。
 なにそれなにそれなにそれ。ぐるぐる同じ言葉が頭の中に浮かんでは消え浮かんでは消えてぐるぐると回りだす。
 じゃあ、あれは誤解だったのか。私の女の勘も思い込みだったのか。彼は私を彼らに紹介するつもりだったのか。いろんな事を瞬時に考えて、どうしようもなく泣きたくなってきた。足から力が全部抜けていく感覚さえしてきた。
?」
 一人が怪訝そうに私の名前を読んだけど、涙を堪えるのに必死で顔を上げることすら出来なかった。
 それでも何か言おう言おうと思っていたら、震える唇がようやく音を出した。
「その、恋人って、人数は?」
「へ?」
 戸惑う複数の声に構わず、私は俯いたまま鞄の取っ手を強く握り締めた。
「私は何度か彼の恋人を複数見たけど、そのうちの誰って言ってた?」
 どよめく声が上がって、男子達はいっせいに喋り始めた。
 私に問いかける声に、彼をやっかむ声、相手を突き止めようと息をまく声に、宥める声。
 もう帰りたいと思いながらも、彼が口にしたかもしれない、彼が紹介するはずだった恋人の名前が気になってしかたがなかった。それは私だったのか、彼の後ろでこそこそこちらを伺い睨みつけていたあの人だったのか。
、泣くな」
 いつの間に近づいてきたのか、目の前に人の影が落ちていた。ふらふらする頭をあげると、残っているメンバーの中に居た標準より背丈の高い男子だった。
「鳴海、くん」
「泣く価値もねぇだろ」
 背中に回った腕に気づいていたけど、私は抵抗しなかった。抵抗するより鳴海くんの背中に腕を回して、縋りつくみたいに胸に顔を埋めた。溺れる者はわらおも掴むとか言うけれど、今の自分にぴったりの言葉だと思う。なんでもいい、流される自分を繋ぎとめるものが欲しかった。
 じわじわと湧いて出てきた涙が視界を滲ませてきて、でも鳴海くんは「泣くなよ」なんて言いながら抱きしめる力を強くしてくれた。馬鹿みたいに声を押し殺して涙を流した。鳴海くんは優しいなと思ったのを最後に、私は彼へのもう何色だか分かんない感情を持て余して力いっぱい泣きだした。周りにいる人たちの存在なんて忘れて、彼への想いでいっぱいで泣いた。
 私はこんなに彼のことが好きだったんだ。
 小さな呟きに、馬鹿だなって声が聞こえた気がした。


 気がついたら周りの音が引いてるのに気づいて、そっと瞼を開いた。誰かが私を呼んでいる。でも鳴海くんの腕の力は緩まなくて、逆にほんの少し強くなった。

 鳴海くんじゃなくて、鳴海くんと一緒に居た男子でもない声が私の名前を読んでた。
 よく聞いていた声だとぼんやりと思い当たる。

 ああ、追いかけてきたんだと声のするほうに視線を向ければ、彼の困惑した顔と私を睨んでいた女子の顔が並んでいた。女子の顔は私から視線をはずして彼を見つめ、なんだか苛立たしげに歪んでいた。
 言い訳したいのかな、と彼の顔を見てぼーっとしていたら、瞬く間に彼の表情が怒りに染まっていった。でも、その視線の先は私の顔に来てなくて、最終的には鳴海くんの方に向いたようだった。
「なに、人の彼女抱きしめてんだよ」
 鳴海、と静かに怒りを溜めているかのように低くなった彼の声を、私はクラスメイト時代から恋人時代を含めて初めて聞いた。
 私の言ったことに納得してないんだな、ということだけは分かったけれど、どうして鳴海くんに怒りの矛先が向くんだろう。男の人は自分の恋人だった女の方に矛先が向くって、どこかで聞いたことがあるんだけどな。彼は考え方が違うのだろうか。
 ぐらぐらと今考えるべきことじゃないようなことを考えていても、周りの時間は進んでいく。彼や鳴海くんの会話が耳に入ってくる。
「ふざけんな、いくつ股掛けて泣かせたんだよ」
「な、なに言い出すんだお前。変な冗談言うなよ」
 鳴海くんの腕が痛いくらいに抱きしめてくる。鳴海くんのこんな低くて怒ってる声も初めて聞いた。対する彼の焦った声は裏返っていて、相当動揺してるのが分かる。
「変な冗談だぁー? じゃあ、昨日街でお前とキスしてた女は誰だったんだよ」
「え」
「言っとくけどそこの女でも、でもない女だったぞ」
 ボーイッシュで姉御肌っぽい女だったな。お前守備範囲広すぎじゃねぇの?
 この女と言って、彼の傍に居る女子に視線をやった鳴海くんは、彼と女子の二人をまとめて馬鹿にするように鼻を鳴らした。
 女子に視線を向けると、陸に上がった魚みたいに口をパクパクさせてヒステリックな叫び声を上げていた。
「ちょっと! どういうことよ、貴方の彼女は私だけじゃなかったの!」
 この女は浮気相手じゃなかったの! と私を綺麗に磨かれた爪で指差し、キーキーと表現したくなるような甲高い声が目の前の彼女の口から飛び出した。
「いきなりなに言い出すんだよ!」
 女子が腕にしがみついたのを彼は慌てて引き剥がそうとして、私と目が合うと情けなく眉を垂れて懇願してきる。変わり身が早いわけでもないけど、なんというか、思考が働かなかった。
、お前は俺を信じてくれるよな。俺が付き合ってたのは、俺の恋人はお前だけだって」
「お前まだ嘘吐くつもりかよ! が好きなら最初から股掛けてんじゃねぇ!」
「だからどーゆーことなのよぉー!」
 彼の言葉はとても魅力的だった。
 鳴海くんの言葉はとても心強かった。
 女子はまだ彼の腕にしがみついて、何か分からないけど叫んでいた。
 姿は見えないけど視線を向けたら足やスポーツバックが見えたので、残っていたサッカー部のメンバーは困惑して立ちすくんでるんじゃないかと推測する。
 何でこんなことになったんだろう。考えても分からなかった。私はただ、彼と恋人関係を解消したかっただけなのに。もう苦しい思いをしたくなくて、逃げたかっただけなのに。
 でも鳴海くんの言葉は嬉しい。これは本心だ。
 考えてる間も彼は私に向かって哀れっぽく懇願し続けていて、鳴海くんはそれに対して大きな体中から怒りをみなぎらせて反論してくれていた。女子はまだ金切り声を上げている。
 ゆっくりと鳴海くんの背中から腕を離して、彼の顔へと視線を移して口を開いた。
 最初の一言で、みんなの視線が集まったのを感じたけど、喋るのは止めなかった。
「もう、やめてよ」
「本当に私が好きなら、私以外の人と付き合わないで欲しかったよ」
「昨日だけじゃない。その前の日曜日も土曜日も、サッカー部の練習のない日で私と会ってなかった日、どれくらいの数の女の子と会ってた?」
「私が見てなかった日も、私が偶然見かけた日も」
「ねぇ、そこにいる女の子と腕を組んでた日もあったよね」
「誰が本当の恋人だったの? それとも、貴方にとってはみんな同列の恋人だったの?」
「ねぇ、答えてよ」
「最初から私一人じゃなかったんでしょ?」
 鳴海くんの腕が、そうっと私の体から離れていく。風が肌に触れて冷たいと思った。音がなくなったみたいに静かになって、遠くで電車の走る音が聞こえた。夕陽はとっくに沈み、彼の顔もよく見えなくなっている。
「あんた」
 不意に彼とは違う方向から声が掛かった。振り向こうと動くまもなく、左頬に衝撃が走る。身体がその衝撃に負けて、鳴海くんの胸に逆戻りした。
「おいっ!」
 男子二人分の声が重なったかと思うと、女子のヒステリックな声が今度は私に向けられた。振り下ろされた彼女の右手を見る限り、どうやら私は彼女の平手打ちを頂いたらしい。
「なによっ、あんたの方が性悪じゃない! 鳴海くんと彼を二股掛けてたんじゃないの! 彼を罵る資格なんてないわよ! それに、どうせ彼と付き合い始めたきっかけも、あんたが迫ったからなんでしょ、彼優しいからあんたの誘いを断れなかったのよ! 最低! 尻軽女!」
 呆れて言葉も無いというのはこのことなのかもしれない。本当に都合のいい彼女の言い分に、私はぽかんと口を開けっ放しにして聞き入っていた。
 けれど鳴海くんと彼にとってはどうやら違うらしく、鳴海くんは私を支えてくれている肩に置かれた両手が震えだしてたし、彼にいたっては暗い中でもわかるほど顔色が真っ青になっていた。
「なによっ、なによっ、なによっ!」
 けれど彼女はみんなの反応が気に入らないらしくますますヒステリックに叫びだした。私を罵倒する言葉は嫌なことにとても豊富で、私はいつ身体を売って麻薬をやりだしたのかとない記憶を絞りそうになった。
 彼は暴れだしそうな彼女を一人で抑えようと必死に声をかけていて、私達はそれを呆然と見ていた。

 その中でも鳴海くんが一番に冷静になったらしく、「設楽」と小さくサッカー部の一人を呼ぶと何か耳打ちして私の身体を反転させた。鳴海くんの顔が近くなる。頭の芯はまた混乱していた。
「元々はあいつのまいた種だ、もう帰るんだろ?」
 さっきとはまったく違う優しい声に、反射的に頷くと鳴海くんは「当然だな」と言って私の隣に並んだ。背中を押されて私と鳴海くんが歩き出す。
「でも、二人が」
「お前も馬鹿だな。あんな奴ら放っておけ」
 帰るぞ、と傍に居た設楽くんに鳴海くんが声をかけると、他のメンバーに何事か言っていた設楽くんが「わかった」と言って私の隣に並んで歩き出した。私は二人に挟まれて歩く格好になる。
「ちょっ、まっ、!」
 彼の叫ぶ声に反射的に振り返ろうとすると、大きな手が私の後頭部を掴んで前を向かせ、それより小さな手が私の両耳に軽くふたをした。
「お前は何も見なかった」
「そうだね、さんは何も聞かなかった」
 二人の見事な連係プレーに目を丸くして足が止まりそうになったけど、二人の手が今度は背中に回って歩くよう促してくるので、止まらずに歩けた。でも。
「……なんか、変なの」
 そんなに親しくなかったはずなのに、俗に言う修羅場を見られたりもしたのに、この二人はなんて優しいんだろうと笑みが浮かんだ。
 設楽くんは「失礼だな、」と言ってこちらをのぞきこんでいて、鳴海くんはそんな設楽くんと反対に「変でも泣かれるよりはいい」と肩を竦めていた。
 違うよ、二人は優しいねって思ったんだよと言い直そうとするけど、その言葉をそっとしまう。
 まだ彼のことが好きで、彼が二股どころか複数股掛けていたことがとてもショックだけど、今はほんの少しでも笑うことが出来たから。
「ありがとう、二人とも」
 特に鳴海くん、と付け加えたら、「無理すんな、顔大丈夫かよ」と頭を撫でられた。
 明日噂が広まってるかもしれないし頬は痛いけど、今は心救われるやり取りでじわじわ大きくなる頬の痛みも気にならなかった。きっと明日には大きく腫れているだろう。
「ほんと、ありがとう」
 気にしないでいいよ、家に帰ったら冷やすんだよと笑う設楽くんの声も、初めて聞いたあやすような優しい声で、これ以上優しくしないで欲しいと思うくらい胸に来た。
「もう、やめてよ」
 涙のにじんだ声で首を横に振ったら、いたずらっ子のような表情で設楽くんが楽しそうに笑みを浮かべる。
「大笑いして頬が更に痛くなるくらいまで、優しくしてあげよっか」
「お前に優しくなんてされたら、がまた泣くだろ」
「鳴海よりましだと思うけど」
「ああ? 俺様は十分優しいじゃねぇか」
「キモイ」
 私のにじんだ涙に気づいたのか、鳴海くんと目が合うと慌てて設楽くんをたしなめ出した。設楽くんはそんな鳴海くんの言葉などどこ吹く風というように気にしない。
「もう、ほんと、やめて」
 まだ彼へのごちゃごちゃした感情はくすぶってるけど、それ以上に二人のやり取りがなんだか優しくて清々しくて、涙が溢れるのと一緒に笑い声がこぼれだした。
「いいや、こいつを排除して勝利するまでは止めないね」
「ってめぇ、さっきまで傍観してやがったくせに!」
「で?」
「お前……マジぶっ殺す」
「無理だから」
 おなかが痛くなるほどじゃないけど、二人の笑えるやり取りに吹き出しそうになる。
「ほんと、もうやめて」
「安心してさん、チャバネは退治しておくから」
「チャバ…、俺がいつ害虫になったんだよ!」
「え、前世から?」
 思わず吹き出したら、なんだか勝ち誇ったように笑みを浮かべる設楽くんと悔しげに顔をゆがめた鳴海くんが視線で火花を散らし合って、でも安心したように笑ってくれた。
「ほら、大笑い」
「吹き出すくらい笑えたんなら、大丈夫だな」
 優しすぎるよと俯いて、ヒステリックに叫ぶあの人もかわいそうだなとかえりみる。
 あの人も股を掛けられていた人で、私より気が強く見えるだけだったのかなと、笑わせてれる優しい人たちに囲まれながら思う。
 私は立ち直る。立ち直って見せる。だからきっとまた、恋する事だってできるようになるだろう。
 大きく深呼吸をして、また言い合いを始めてた二人に大きな声で呼びかける。
「ありがとう!」
「私、きっとまた誰かを好きになれる気がするよ!」
 あっけにとられたように目を丸くした二人は、すぐに笑って応えてくれる。
「その時は俺にしときなよ、鳴海なんかよりさ」
「おまっ! マジで図々しいな!」
 私は立ち直ることが出来そうです。
 
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