ゆびきり



 私は自分の右手小指を見ながら、その指を何度か曲げて伸ばしてと屈伸運動みたいなことをさせている。
 放課後の教室で、教室に一人残って自分の席で。何が楽しいんだか自分でも分からない。楽しいからやってるわけでもないのは確かだ。
 窓の外では部活やってる人たちの声がひっきりなしに聞こえるし、廊下からはどこかの教室で誰か残ってるのだろう、楽しげなひそひそ声も聞こえてくる。外はまだ明るくて、夕日の色もない。
「……なにしてんだか」
 小指を動かすのを止めて拳を作ると、そのまま自分の肩を叩く。さっきまでの緊張で肩がほんの少し悲鳴を上げていて気持ちがいい。
 視線をずらすと目の前の机に置かれている白い封筒が目につく。
 表には私の苗字氏名が書かれており、裏には差出人の気配もない封筒。中身は俗に言うラブレターだ。告白の言葉と放課後教室に残っていて欲しいと言うお願いの書かれたそれは、お約束だが机の中にそっと忍ばされていた。
 机の中に入れたのは妥当な線だと思う。なにせうちの学校の靴箱はふたがない。中身が丸見えで誰に見られるとも知れず、風で飛ぶとも限らないからだ。
 そんなことをつらつら思いながら授業中に隠れて読んだ文面どおり、差出人の名前に覚えもないが放課後自分の教室で、大人しく差出人の彼を待った。
「あの、さん」
 ぼんやりと外を眺めながら待っていると、廊下から掛かる声に振り返る。緊張した面持ちで、でもほんの少し嬉しそうに笑う彼は好感の持てる人だった。ラブレターの言葉よりも温かい言葉が伝えられ、よければの前振りつきで付き合ってほしいと言われた。彼の強張った笑顔がほんの少し心を擽った。「ごめんなさい、私」
 でも自分の気持ちを正直に告げて断った。分かっていたかのように力なく微笑む彼は、ありがとうの一言を残して教室から出て行った。彼は他には何も要求してこなかった。友達になりたいとも、廊下で見かけても避けないでくれとも、付き合って欲しいと言う言葉以外は何も。
 実際に彼のことを露ほども知らなかったのだから、これが彼の普通か優しさかなんてわからない。けれど本当の告白のひとつはこんな感じなんだなと言うのを知った。
 彼の気持ちは嬉しかった。応えることは出来ないけれど、その気持ちは本当だった。自分を見てくれる人もいたんだなというほのかな喜びが胸にともる。けれど、だから罪悪感を感じないというわけでもないので、できるだけ封筒に触らないように気をつけて身体をほぐす。
 スカートがめくれてて、椅子に触れている太ももが小さく鳴った。少し痛い。でも封筒に触るよりましだ。でも太ももは痛い。罪悪感で心もほんの少し痛いし、本命もいるのに多少ときめいたのも痛い。
「まだ残ってたのかよ」
 つらつら白い封筒を見ながら身体をほぐしていると、廊下から声が掛かった。さっきまで外から聞こえていたはずの声だ。
 封筒からもぎとるように視線をはずして声のするほうを見ると、クラスメイトの男子だった。サッカー部の鳴海貴志くんだ。
「鳴海くん」
「おう」
 驚いて反射的に名前を呼ぶと、鳴海くんは教室の中に入ってきた。何か忘れ物をしたんだろうか、今何時だろうか、もう部活は終わったんだろうかと思考をめぐらしていると、珍しく感情のうかがえない表情で彼は私の目の前まで来てしまった。
「なに一人で残ってんだよ、
 どことなく不機嫌そうに言い捨てた鳴海くんに、ほんのしり眉を寄せて困ってしまう。右手の小指がちいさく痙攣するように動く。それを誤魔化すために右手の指全部を動かしだすと、感情の読めない視線は私の右手に移る。
「……なにワキワキさせてんだよ」
「いや、特に理由もないんだけどね」
 怪訝そうな視線と声はそれもそれで居心地が悪くて、どうしようかと迷う。彼の視線は右手と私の顔を交互に見て、また口を開こうとする。なぜか次の言葉は言わせちゃ駄目な気がして、両手を叩いて音を出す。身体全部でびくりと驚いて、目を丸くした鳴海くんと目が合った。
「……びっくりすんだろうーが」
 ああ、自分でもなにしてんだろうと思う。でも話題を変えなくちゃと変な焦りが滲み出して、舌と口が軽やかに動く。
「ごめんね、……でもこんな時間にどうしたの。鳴海くんこそさ」
 話題を変えるために出来るだけ明るく問いかけたら、早口になってしまった上に返事がなくて変な沈黙が降りた。
 失敗したかなと顔色を伺うと、鳴海くんの表情はまた不機嫌なものに戻っていて、その目で私をじっと睨み付けてくる。
 ……聞いてはいけないことだったんだろうか。
 嫌な汗は背中を伝うし、鳴海くんはこっちを睨んだきり動かない。どうしよう、蛇に睨まれた蛙みたいだ。
 睨まれている目から視線を逸らすことが出来ない。逸らしたらその瞬間に鳴海くんの牙が身体に食い込んで、死んでしまう気すらする。それこそ、蛇に睨まれたかえるみたいにあっけなく。
 ただの妄想なのに、考えているうちにどんどんその想像が間違ってない気がしてきて、なんだか目の奥が熱くなってきた。じわじわと目が潤んでくる、本気で泣きそうになってきて、そんな自分が情けない。あー、でも本当に泣きそう。目が熱い。
「なに、泣きそうな面してんだよ」
 泣かせそうになった本人が、表情も変えずにいきなり頭を叩いてきた。違う、頭を力強く撫でてきたんだ。
 声にはいらいらした響きがあって怖いけど、どうにか目を逸らした瞬間に死ぬことは回避されたようだった。だって鳴海くんは私から視線を逸らして、今まさに呆れたようなため息を吐いてる最中だから。
 それもそれで情けないけど、ごめんねと呟いて目をこする。あ、本当に手の甲が光ってる。
 本気で泣きそうになった情けなさと、そんなところを見られた気恥ずかしさに慌てて両方の瞼を擦る。
「とって食やしねーよ」
 軽く呟かれた言葉に、さっきまでの思考を読まれていたのかとドキッとした。
 けど、恐る恐る見上げた視線の先の鳴海くんは怒っているわけでもなく、どことなく悲しそうになにかを見ていた。どこを見ているんだろうと視線を追いかけようとしたら、その表情がまた苛立たしそうに歪んでこっちを見た。
 驚かさないで、いきなりこっち見ないでよ、なんて文句がとっさに言えるわけもなくて、別の言葉がこぼれでた。
「ど、どうし」
「これ、誰からの手紙だった」
 けれど私の言葉は最後まで言わせてもらえなくて、彼の視線を辿ると思い出したくなかった白い封筒にたどり着いた。
「ああ、これ」
 私の名前が書かれてるだけの、見た目簡素な封筒。
 一連のやり取りとほんの少しの喜びとときめきと罪悪感を一緒くたに思い出して、苦笑いがもれる。
「何、変な顔してんだよ」「さっきこの手紙の差し出し主と会ってたからさ」 言うのはちょっと、だなんて言葉を濁して封筒を手に取ろうとしたら、目の前で大きな手に掠め取られていく。
「ちょっと」
 流石に第三者からのものだから、小さな文句も素早く言えた。けれど気にせずに両手を掲げた鳴海くんは、なんの躊躇もせずに封筒を開けて中身を取り出す。便箋を手に取り中身を読み出してしまった。
「ちょっと、プライバシーの侵害だよ」
 語調を強めて腕を伸ばしたら、一瞬こちらに視線が向く。けれどすぐに便箋へと戻っていってしまい、埒が明かないと勇気を出して彼の肩を叩く。本当に軽く、けれど衝撃は行く程度に。
「私が貰ったものだし、他の人がくれたものだから鳴海くんは読んじゃだめなんだよ」 今度は視線さえ向けられず、元の通りに折り畳まれた便箋は封筒にしまわれ、封筒は鳴海くんの片手に納められたまま、頭上高く掲げられてしまった。
「なぁ、
「なに、早く返してよ」
「さっき、こいつになんて返事したんだ」
「鳴海くんに関係ないよっ」
 反射的に返すが、すぐに口をつぐむ。人に対して関係ないよだなんて、結構酷い言葉だと思い出したからだ。そして、告白を断った理由の原因が彼だからだ。
 鳴海くんは知らないはずだ。私が鳴海くんを好きなこと。
「なんて返事したんだ」
 でも本当に珍しい感情の読めない表情で、こちらをじっと見つめて言葉を繰り返している鳴海くんは、なんでも知っているような気さえする。知っているから言えと迫られている気がする。全ては私の思い込みだろうけど。

「す」
 迫力に押されて、言葉がひとつ破れかけた口からこぼれる。また蛇に睨まれた蛙に戻ったみたいだ。感情の読めない、けれど強い視線が私の動きを全て封じている。
「す?」
「好きな人が」
「好きな人が?」
 動かない鳴海くんの表情に、本当にこの人は全部知ってるんじゃないかと思う。告白されてる最中にも、グラウンドから彼の声が聞こえてたはずなのに、廊下で全部立ち聞きでもしてたんじゃないだろうか。彼はなんでこんなに落ち着いて、私に尋問してるんだろう。
「ほら、最後まで言えよ」
 言葉遣いはいつもどおりの鳴海くんなのに、まるで全然知らない人みたいな視線が私の足を縫い付けている。答えたら告白も同然になるかもしれない。そのまま誰が好きなのかまで言わされるのかもしれない。断られるかもしれない、付き合おうと言われるかもしれない、笑われて噂が広まるかもしれない。
 鳴海くんの性格を欠片とはいえ知っているはずなのに、いろんな可能性がぐるぐる渦を巻いて私の口の動きまで封じてしまう。言えば楽になる気がする、ここまで追い詰められてるんだからさと考えが動けば、でも傷つきたくないよ、告白してくれた彼のような勇気はまだないよという考えが浮上する。
 鳴海くんを前にしながら一人で考えに嵌っていると、不意にため息が聞こえた。
 いつの間にか視線を下に向けていたのに気づき、慌てて彼に標準を合わせると、あーもーマジでとぶつぶつ呟きながら、自分の頭をガシガシ掻いている鳴海くんが居た。左手にはしっかり白い封筒が握られていた。
、なんて返事したか聞きたいだけだからな」
「へ」
「お前から言わせるつもりはねぇ。俺が言う前に、確証が欲しいだけだ」
 確証ってなにさと、問うまでもなかった。鳴海くんの顔はほんのり桜色で苛立たしそうに歪んでて、ほれ、と右手の小指が差し出される。
「ゆびきりしてやる。こんな場面で嘘なんかつかねぇからな」
 頭の中はなんて都合のいい夢だとか、何言ってるんだろうこの人とか、いつもどおりの鳴海くんに戻って本当に良かったと胸をなでおろしてたりとか、それはそれで混乱していたけど、身体の方は正直なのかなんなのか。
「うん」
 素直に小指を差し出し、ゆびきりげんまんしていた。
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせーんぼんのーます」
「ゆーびきった」
 懐かしいフレーズを二人で合唱して繋がったまま上下に動かす、その間もなんてほのぼのとしたやりとりだとか、鳴海くんはこんなこと嫌いだと思ってたとか、新発見を喜んだりぼんやりしてたりと相変わらず頭の中は混乱していた。
 けれど、ゆびきったときの鳴海くんの顔が、すごく嬉しそうだったから。
「好きな人がね、いるからごめんねって断ったの」
「俺はな、お前が好きだからその男になんて言ったか気になったんだ」
 笑って鳴海くんに言えて、鳴海くんのほっとしたような表情での告白をすんなり受け入れられた。
「好きだから、俺と付き合ってくれませんか」
「はい、私も好きです。喜んで」
 お互いお辞儀なんかして、握手したりなんかして、顔近づけて笑ったりして。
「ゆびきり、もういっかいしようよ」
 今度は、お互い以外を恋人にしない約束。
 笑いながら頬を染めあって、もう一度声をそろえてゆびきりをした。
 好きだよと、照れくさそうに鳴海くんはもう一度言ってくれた。




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