初日の出
ゆるゆると空気が澄んでいく。
冬独特の空気というだけでなく、やはり新年というだけで特別なのだろうか。
「もうすぐですね」
小さく隣から囁かれた声に、は視線を向けぬまま薄っすらと微笑む。
まだ幼さを残したルッチの声は、白い息を吐きながら鼻の頭を赤く染めながらもどこか嬉しそうで、コートにつっこんだ両手は寒さにぎゅっとこぶしを握っている。
「そうだね、空気が軽くなってきた」
気がする。
付け加えて笑うイオリもコートを着込み、マフラーで首をぐるぐると包み、耳も手もふわふわもこもこでガードされて完全なる防寒モード。
二人揃って空から目をそらさずに、海の向こうから顔を覗かせるだろう太陽を待つ。
不夜島には夜が訪れない。
それは新年を迎えるにふさわしくないと、イオリは初日の出を拝むために不夜島から数日移動する。
それに同行するとルッチたちが挙手したのはよくあることで、イオリも一人で新年を迎えるのは寂しいからと許可したのもよくある話。
スパンダムは仕事だから、子供たちの気が休まらないからと仲間はずれにしてしまい、子供たちは大いに喜びつつ年越し蕎麦と半纏に炬燵とみかんを堪能し、除夜の鐘も体験させたかったなぁとイオリは思いつつも、日付が変わったと同時に皆で一斉に新年の挨拶を交わした。
すごくよく訓練してしまったなぁ、これも躾をしたということだろうかと、日本人ではないはずの子供たちの下げられた頭を見て、イオリがしみじみ考えてしまったのは余談である。
そして初日の出を拝もうという話になり、さて一眠りとそれぞれ布団にもぐったまでは良かった。そこまでは皆目が覚めていて、息も合っていた。
けれどやはり個人差というものは出るもので、イオリが寝かしつけたことも大きかったらしい。
子供たちは可愛らしい寝息を立ててぐっすり眠ってしまい、余裕を持って起きようといっていた時間を大幅に過ぎていた。
イオリは死活問題だったためか良い癖が付いたのか、すっきりと目が覚めて子供たちを無理に起こすことはせずに、ぼんやりと一人外へと繰り出した。
「……はぁっ」
小さく吐き出した息は白く、けれど外の世界は真っ暗だ。
わざわざ初日の出を拝むために選んだ場所柄ゆえ、町の明かりなどもほとんどない。ただ、澄んだ空気と新年だからか感じる神聖な空気に、イオリは胸を高鳴らせていた。
誰かが部屋から外に出た気配も読めていたが、それはイオリの思考を遮ることもなく、ただ足音を立てないよう忍んでいるのが可愛らしいと感じるのみだ。
「姉さん」
「おはよう、ルッチ」
掛けられた声をきっかけに、イオリは笑顔で振り返る。
どこかまぶしそうに目を細めるルッチに、イオリはちょっと笑いたくなる。ルッチの可愛らしさと、若さゆえに年上に憧れるという青春を謳歌しているルッチの心に。
「……おはようございます」
ルッチの頬に寒さだけではない赤みを見つけて、イオリはますます微笑ましくなる。それと同時にくすぐったくも感じる。
好意の種類は数あれど、あれほどアプローチされていくら恋愛経験の薄いイオリとはいえ、気づくものはある。
何をおいてもイオリを追いかけてきて、イオリの言葉や表情で一喜一憂して、イオリと誰かの恋愛話や噂話で不機嫌になり、イオリのスキンシップに顔を青くも赤くも白くも変化させる。
「姉さん、なぜ起こさなかったんですか」
気を取り直したのか、ひとつため息をついて隣に立つルッチは、イオリを横目で見ながら一般的な姉弟よりは近い位置に立つ。そして着膨れしたイオリと肘がぶつかると、まるで火傷をしたかのようにすぐさま距離をとる。
「そこまで逃げなくても」
「……失礼」
思わず笑うイオリに、空咳をして取り繕うルッチは自分の気持ちがばれていないと思っているのか、イオリは微笑ましい気持ちで笑みを返す。
ここまであからさまな態度をとっておいて、誰か好きな人がいるのかとイオリが振ればなんでもないような表情でいないというルッチは、演技が上手いのか下手なのか、イオリは微妙に判別が付かない。
こんな状態で将来ウォーターセブンへの潜入任務が来たとしたら、絶対にばれる。
好意を抱いた人間に対して、もしもルッチが等しく同じ態度をとってしまうのならば、の話ではあるが。
パウリーやアイスバーグさんに対しては、好意を抱いててほしいなというのは原作好きとしてのささやかな願いだ。だがしかし、それだったら目の前のルッチは確実に正体がばれるフラグなわけでして。
ぐだぐだとイオリが思考の海で素もぐりをしていると、ルッチが小さく欠伸をするのがイオリの視界の端でちらついた。
外界からの視界への刺激に、イオリは視線をしっかりとルッチへと向けた。
お互いの吐く白い息が、黒い世界に霧散する。
「初日の出は、無理してみなくてもいいものだから」
それが先ほどの質問のような声掛けの口実のような、そんなルッチの言葉への返答だと言うことに、ルッチは少しの間気づかなかったらしい。欠伸の終わった唇を指先で軽く弄ったルッチは、小さく相槌を打って嬉しそうに目尻を緩めた。
その少しだけ乾いたルッチの唇が嬉しそうに動く。
イオリが返答したことが嬉しいのか、自分の質問を忘れられなかったことが嬉しいのか、二人で会話していること自体が嬉しいのか。
吐く息がゆっくりと白く染まって霧散する。
「ご利益を独り占めする気ですね」
いつかイオリが話した、初日の出にはご利益がありそうだといった雑談を覚えていたらしい。
小さくのどを震わせて笑うルッチは幸せそうで、イオリもつられて幸せな気分になる。緩む頬に笑みが自然と浮かんでいるのを認識した。
ルッチもますます頬を緩め、飛び離れたはずの距離を詰めていく。
距離を詰めた一瞬、ルッチが辺りを見回し自分たち以外の人影がないのを確認したことは、誰にも気づかれず、人影がないことにひっそりとルッチが安堵の笑みを浮かべたことも、誰にも気づかれなかった。
ゆるゆると朝日が黒い世界を切り開いて、じわじわ世界の色が変わっていく瞬間をルッチとイオリは静かに見つめる。
会話は途切れて呼吸音だけが、どこか不思議に響く。
「……」
ルッチがなにか言おうと口を開くが、背後から伝わってくる刺激的な視線に気づいてしまった。
「……」
気づきたくなかったと内心ルッチはため息を吐きたかったが、背後には分からない程度に唇を笑いの形に震わすイオリを見て、それをあえて飲み込んだ。
「趣味が悪いです」
「だって」
小さく笑い声がイオリの口から漏れる。ルッチはそんなイオリを横目で見ると、堪えていたため息を吐き出した。
ほんの少し、ルッチの唇も苦笑いの形に近くなる。
「カク、可愛い」
背後からただよう殺気じみたそれに、笑えるのは愛情を向けられている対象だからに他ならない。
幼い悋気にそれこそ嬉しがる素振りを隠さないイオリは、ルッチの言葉も軽く受け流す。
「末っ子の甘え、お兄ちゃんの苦労ってね」
笑いながら流すくせに、ルッチの頭を軽く撫でていく。
ルッチをなだめるためにイオリはしているのだろうが、背後のカクの視線がより一層険悪なものへと変化していく。
「……まったく意地が悪い」
そんなことに時間を使うよりも、ただ黙ってこの体温を甘受することの方が優先される事項だ。
眉間に軽く皺を寄せて拗ねた振りをして、そしてほんの少しばかり目を細めて怒った振りをすれば、触れているルッチの機嫌をまずは直そうとイオリが撫でる手を殊更優しくすることも、学習している。
「意地悪でごめんね?」
楽しそうに笑うイオリが、ことさら悪戯っぽくルッチの目を見つめるその視線と仕種に、相変わらず目を奪われる自身のことも。
「……まったく」
姉の無邪気さには困ったものだと、ルッチは小さく息を吐くが、その姿に内心イオリがはらはらしているのに気づくことは難しかった。
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