いつまで
正月には着物で御節で羽子板もって初詣。
さらには書初めもしたりなんかして、以下、弟妹達の元日は任務以外のことで忙しい。
そして、やるとは思っていたが本当に着物姿でやっちまったのかと、自室の床に膝を着いたは、飛び交う墨汁やら半紙やら文鎮やら硯やらで、見事模様替えされていく部屋に意識を飛ばした。
けれどそれも一瞬で終わらせ、彼らの着物のクリーニングダイやら元々の値段やらを考えないようにしつつ、意識をすっぱり現世に呼び戻す。
は情けなくうなだれながらも、いまだに喧々囂々と口と手で取っ組み合いをしている弟二人へと視線を向けた。
とっくにカリファとブルーノは避難をしているし、被害が及んでしまった周りの道具なども片付け始めてくれている。本来ならば、も被害が拡大しないうちにさっさと周りを片付けてしまいたいのだが、いかんせん気力が湧かない。
「はぁ」
「あの二人、いつまでも子供で困るわ」
「しかたがないよ。子供なんだから」
諦めのため息を吐いたに、慰めるような止めを刺すような言葉が降ってくる。いやもう何も言わないでとも言えず、は肩を優しく叩いてくる妹と弟に力の無い笑みを向けた。
「ルッチ、カク。ちょっとこっちおいで」
すぐに返事はこないだろうと予想しながらも、は静かに弟二人の名前を呼ぶ。案の定、二人ともなんとなくこちらの声を聞き取ったような微細な動きは見られたが、やはりああだこうだなんだかんだと拳と脚と口が飛び交う数メートル目の前。
ブルーノが止めようか? と優しく聞いては来るものの、はひくつく口の端が震えるのを自覚した。
実力差で言えば、ほとんど最初からは弟達に勝てるところが無い。年上特有の力尽くと言う行為が出来ない分、乱闘に割って入るには気力精神力体力共に満タンの状態で無ければ厳しいにも程がある。
だが、人間にはやらなければならない時と言うものがある。
それが新年早々だとは思いたくも無かったが、はため息を十分に吐き出してから手元のバケツを手に取った。
ゲッとばかりにブルーノとカリファの顔が歪むが、今のにとっては問題ではない。
自室を書初め場所にしていて良かったと心底思いながら、バケツの中身を弟二人に向かってぶちまけた。
「ぶはっ!」
「うぶっ!」
普段ならば避けられたその液体は、くんずほぐれつどたんばたんと上になり下になりといった乱闘では無理だったようで、どちらも見事なまでに頭から引っかぶる。頭から足の先までぐっしょりと濡れそぼった弟二人は、激昂したように振り返る、が。
「……」
引きつった不恰好な笑みで空のバケツを放り出し、あまつさえそのバケツを蹴り飛ばした目の座ったに気づくと、口の中の異臭に顔をしかめつつ顔色を青くした。
ぶちまけられたのは、墨で汚れた筆洗い用の水バケツ。
すでに真っ黒の汚水となっていたそれを、部屋が汚れるのも構わずぶちまけて、ルッチやカクが斑色になっただけにはとどまらず、部屋も黒のコントラストが鮮やかに追加されていた。
毛を膨らませて怒りをあらわにしていたルッチも、レオパルドのままながらしおしおと体を小さく縮め、それに対抗すべく全身でもって攻撃を仕掛けていたカクも小さく床に正座する。
「風呂に入った後で片付けるよね、もちろん」
淡々としたその声に、ルッチは毛並みごと満遍なく逆立てて身震いし、カクもびくりと背を震わせる。
それを真正面に見据えながらも、普段可愛い可愛い大好き愛してると弟達を可愛がっているはずのは、容赦せずに言葉を続ける。
「本日もここで就寝予定なんだけど、それまでには片付けられるよね、二人とも」
簡潔に要点だけを話すその口調のまま、俯いて正座している弟二人の顔を見ようと、はしゃがみこんだ。
そんなの表情からは特に怒りや悲しみの感情など読み取れず、ルッチとカクはますます顔色を悪くする。読み取れない普通の表情の方が、対処を思いつかず恐ろしいのだと喉を鳴らしてツバを飲み込んだ。
顔色は青く、うっすらと見えるのは冷や汗か脂汗か。
は弟達が頷きもしないことにため息を吐き、自分の背後に立ったままの妹と弟を振り仰ぐ。
特にコメントなく苦笑が返されてしまい、も苦笑した。そのままルッチとカクに視線を戻し、呆れと笑いを含んだため息をこぼす。
「悪い事をしたと分かってるんなら、早くお風呂に入っちゃって」
二人の肩がびくりと引き攣れる。おやとばかりには片眉を上げるが、その理由に思い当たって再び苦笑する。
「二人一緒に入れだなんて言わないから、早く身奇麗にしてくる」
軽い音を立てて二人の頭を叩くと、はさっさと行動するように二人を急きたてる。
「……はい」
「……はい」
小さく、けれどようやく聞こえてきた掠れた返事に、大人三人は堪えきれずに吹き出した。
「今度やったら、ぜひともルッチの毛で書初めさせてね。前から興味はあっ」
「すみませんでした」
わしゃわしゃと言う音も高らかに、レオパルドの毛を泡立てながら機嫌よくが口を開くが、言われているルッチはうなだれて背後のを振り返らない。そして即座に言葉を遮り、謝罪の言葉を繰り返す。
お情け程度に小さな風呂椅子に腰掛けているルッチは、大切な部分をきちんとタオルで隠しながらも、決してを振り返らない。
恥ずかしがってるんだろうなぁと分かっていながら、は先ほどからそれ専用の生地ではなく、素手で泡立てルッチの背中やら頭を洗っていた。
「……」
「……」
両者共に沈黙しながらも雰囲気は両極端で、はそのうち鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌になっており、先ほどまでの怒りや呆れの感情が欠片たりとも感じられない。
それが逆に怖いのか、二人きりで風呂言う状況が恥ずかしいだけなのか、ルッチは恐ろしいまでになんの感情もうかがわせずの沈黙を保っている。
「……なんで、姉さんまで一緒に入ってるんですか」
しかも、服脱いで。
ようやく沈黙を破ったかと思えば、ルッチは恐る恐る口を開いた。
が、は今更何をと言わんばかりに、あっけらかんと笑い飛ばす。
「だって着物から着替えるの面倒だったから。どうせ濡れて着替えるんだし、ルッチだし」
「それはどういう意味ですか」
意識されていないにも程がある!
思わず口走りそうになった言葉を、唇を噛み締めることで堪えたルッチだったが、うっかり牙で唇を噛み締めかけて、慌ててまた口を開く。
「……」
体に触れている分、ダイレクトに伝わってくるその間抜けな動作には何かを言いかけるが、特に言うこともないかとその口を閉じた。
愛されていることくらい、まぁ、知っているわけで。
隠そうとして隠しきれていないルッチの態度に、はとりあえず姉の顔で接する。告白されたのなら態度の変えようもあるが、何も言われていないうちから釘を刺すほどルッチが嫌いなわけでもなし、そのうち別の誰かを好きになるだろうと言う気持ちもあった。
わしゃわしゃ、泡立ちの良い毛並みを手で洗いながらはふと思う。
いつまでこのような、過剰なほどのスキンシップをする「家族」で居られるのだろう。
がルッチとくっつけば、まぁ似たような距離で過ごせるだろう。それは予想できる。
けれど、ルッチが別の誰かを好きになったら。
「……」
わしゃり、ルッチの毛並みから泡を一掴み取り出して、捨てる。
想像できないのがの正直な気持ちだった。自分以外を好きになって、愛して、夢中になっているルッチなど。
……少しそれ、面白そうだなぁと思ったのは事実だが、やはり正直寂しくなるだろうとはうなだれた。
「……姉さん?」
「なんでもない」
怪訝そうなルッチの問いかけも、いつものように流す。手が毛並みを撫でさすり、泡立てまた過剰になったそれを捨てる。黒く染まっていた部分も洗いが早かったためか、今はすでに大半が本来の毛並みを取り戻している。
猫科はいいなぁなどと思いながらも、は前は自分で洗えとボディーソープを前に差し出した。ついでに洗い用のタオルも手渡すと、口答えもせずルッチは黙々と洗い出す。
湿気の多分に漂う空間の中、二人分の毛並みを泡立てる音だけが響く。
時折残る墨の香りが漂うが、それもすぐに甘爽やかなボディーソープの香りに飲まれていった。
「……」
「……」
としては沈黙は全く気にならないし、無理矢理最後まで体全体を洗い上げたいわけでもなく、切り上げてルッチ一人の入浴を堪能させるのもまぁ、やぶさかではない。
けれどどこか居心地悪そうに自分で体の前面を洗うルッチから、早く出て行けオーラではなく、話があるんだけど切り出せないオーラを感じたは、さてどうするかと首を捻る。
けれどなんとなく、本当に付き合いの長さだけでなんとなくなのだが、そこまで深刻な話でもないだろうと結論付けたは、あっさりと口を開いた。
「ルッチ、話があるなら湯船に入った後でね。ほら、流すからシャワーノズルとって」
「……」
どこか不満げな空気を醸し出しつつも、ルッチは素直にシャワーのゾルを手渡してくる。けれど決して振り向こうとはなしない。今更裸ごときで何を、などと言う野暮なことをも言わず、時々指示を出しながら手早くレオパルドの毛並みから泡を流していった。
ちゃちゃっと綺麗にしたルッチに話しかけようとすれば、やはり振り向かずに前面を自分で洗い流し、に背を向けたまま湯船につかるレオパルド一匹。だから正直そこまでのプロポーションを、私は持ち合わせてねぇだろよと突っ込みたい気持ちもあったが、は大人しくその背中を見送った。おしりがキュートだぞ、猫科の弟よ。
「不穏な視線を感じるのですが」
「大丈夫。猫のおしりは可愛いだけだから」
「……」
ねこ、ねこ……。
小さく呟くルッチに突っ込むこともせず、もまぁルッチ見てないし、ついでだからと洗い場をお湯できれいにした後、自分の体も洗い出す。
その音に耳をピンと立てたルッチを横目で見て、振り返る素振りがないことを再度確認すると、は躊躇なく満遍なく体を洗い始めた。
さすがに墨くさい自分は嫌で、ルッチが何か話す間を与えずに洗いきった。墨の匂いなど自分が好んで年一回、嗅ぐか嗅がないか程度だが、あまり長い時間そのにおいに包まれていると、習字の時間などという小学校のときを思い出して泣けてくる。
望郷の念に駆られることなど、帰れないという事実がある以上、苦しくなるだけだというのに。
無言で洗うを、ルッチはひっそりと見つめていた。
いつまで弟と認識されているのだろうか。いつまでこのように無防備な態度をとってくれるのか。
警戒されたいわけではない。けれども男として意識はされていたい。そうなれば警戒されるのは目に見えているというのに、矛盾した願いは消化しきれない。
ただの白くて綺麗な肌ではない、一生残る傷跡や訓練で起こった裂傷、お使い程度だと笑う任務で擦りむいたと言う背中の痣や色素が沈着した部分。の体は一般的に言えば、お世辞にも綺麗とはいえない様相を呈している。
「……」
けれど、それでもルッチの目には眩しかった。明かりの所為ではなく、その肌という見目だけの理由ではなかった。
振り返って背後にある素肌を見れば、確実に関係が変わる。
いつまでも優しく接して、いつまでも愛してると囁いていて欲しいと思うのに、それがなくなってしまう。確実に変わってしまう関係は、居心地のいい関係に慣れてしまったルッチをほんの少し怖がらせた。
いつまでも傍に居て欲しい。でも、できるならそれは恋人同士がいい。
けれどそれは、一度関係を壊してしまわなければならない。壊して成就しなければ、ルッチが元の関係に戻れなくなってしまうから、一か八かの大博打。
「……」
泡に包まれるその肢体を横目で盗み見ながら、いつまでこの関係で我慢できるのかと、ルッチは己の内側へと問いかけた。
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