挨拶回りのお膳立て



「あけまして、おめでとうございます」
 パームに予め教えてもらったように、は礼儀正しく頭を下げて新年の挨拶を口にする。玄関先で顔を見合わせての第一声に、部屋の住人はしばし言葉を忘れてメガネのフレームを弄っていた。
「……ああ、もうそんな時期ですか」
「はい、ほんねんも、よろしくおねがい、いたしす、します」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします。こちらに迷惑をかけない程度でお願いしますね」
「はい、おねがいします」
 新年一発目からの辛辣な言葉も、言葉を完全に理解出来る状態でないに対しては効果が薄い。
 ノヴは数時間前まで某会長宅で催されていた年越しの飲み会での疲れを滲ませ、後半日もすればまた仕事だというのに挨拶回りなんぞをしてくれているを睨みつけた。
 けれど、再度頭を下げていたはその睨みを見ることなく笑顔でノヴを見つめてくる。
 辛うじてワイシャツを引っ掛けズボンを履いているだけのノヴは、そんなを胡散臭く見つめ返す。
「なんですか?」
「ねてろ、おじいさま、いてた、です」
「……なにをですか」
 嫌な予感をひしひしと感じつつ、ノヴは聞き返してしまう。聞かずに扉を閉めて寝直せば平和だろうと分かっていながらも、ネテロの名前一つで口が勝手に聞き返していた。
 そんなノヴの状況も知らず、は無邪気に微笑みかける。
「のぶ、せんせ、むりするよく。ねてろ、おじいさま、とてもしんぱい、いてた」
 即座に嘘だと認識したノヴは、やはり思い直して扉を閉めてしまおうかと頭を痛める。ネテロ会長と言う古狸に掛かれば、言語もおぼつかないなど赤子の手を捻るより簡単に騙せるのだろう。の目は、疲れているノヴとは対象にある種の使命感に燃えてキラキラと輝いていた。
「だから、わたし、はけん、きたです!」
 無邪気に着物から覗く手を合わせ、ノヴに笑いかけてくるは本当に輝いていた。徹夜明けで睡眠時間30分のノヴには目を焼くほどの眩しさだった。
 ああ、だから貴女は騙されやすんですよと言ってやろうかとノヴは考えるが、部屋に入れて欲しいと少々遠慮がちに告げてくるを見ていると、睡眠不足も相まってどうでも良くなってくる。
「……どうぞ」
「おじゃま、いたします」
 丁寧に腰を折って玄関に入り、可愛らしい女性用の下駄を丁寧にそろえる。ノヴはその背中を見つつ、今ここで襲えば帰ってくれるかと凶暴なことを考えていた。
 しこたま酒を飲ませられ質問攻めにあい、散々な睡眠不足に陥っているノヴの理性は薄かった。が、それを実行するほど薄くはなっていなかった。
 背筋を伸ばしてノヴを振り返ったに、もはや投げやりな気分でノヴは部屋の中を案内する。なぜかトイレや脱衣所、浴室や寝室まで案内してしまい、は目を丸くして驚いていたがノヴは見事に気づかなかった。
「以上がこの部屋の全てです。なにか質問は?」
「えと、ない、です」
「よろしい。今から睡眠をとりますので、ぜひ邪魔だけはしないでください。それでは」
「あ」
 が引き止める声も聞こえずにノヴは寝室へと舞い戻り、死体もかくやという勢いでベッドに倒れこむ。布団に潜り込む時間さえも惜しいというのか、ノヴは倒れ付したまま即座に瞼を閉じて寝息を立て始めた。
「のぶ、せんせ……?」
 恐る恐る寝室を覗き込んだは、散乱している服や荷物や書類やらの惨状にまたもや目を丸くする。ドアの前で寝室の場所は教えられたが、中がこんな現状なのは予想外で言葉をなくす。
『結構ずぼら? ……違うか。会長さんのせいだね』
 メールを送ってきたネテロの愉快そうな言葉を思い出し、は力いっぱい脱力した。本当につい先ほどまで宴会をやっていたのかと思うと、ノヴが気の毒でならない。新年一日目から仕事があるのはノヴだけで、後は出席者全員数日は仕事休みだと聞いている。
『ちょっと、おじゃまします、よー……?』
 パームから聞いていた警戒心の強さを思い出しつつ、けれどネテロから聞いている爆睡すれば無防備の言葉も反芻しつつ、は寝室の中へと足を進めた。ノヴは起きもせず、動きもしない。
『ちょっと、失礼します、ねー……?』
 床に散らばっている衣服を持ち上げ、書類は読んではいけないと自制しながら近くのテーブルの上に重ねていった。酒臭くくたびれている上着その他を持ち上げると、は迷わず脱衣所へと走っていった。
「ん……」
 深い世界へ落ちているのだろうノヴは、少々の物音にも動じずに寝ながら胸元を開けていく。洗濯物を全て放り込んできたは、苦しいのかなとしばしその様子を見守っていた。
 外されるボタンがひとつ、ふたつ、みっつ。
 あ、鎖骨まで汗かいてるんだとが認識すると、ノヴはその汗が不快だったのか顔をしかめだす。少々唸っていたが、諦めたように仰向けになって寝息を再び上げていく。
『……ちょっと、失礼しまーす……』
 出すぎた真似かなと考えながらも、はもう一度脱衣所に走って行ってタオルを取ってきた。そして野生動物ににじり寄る人間よろしく、その傍へと近づいていく。ノヴは起きず、健やかで酒気の漂う寝息が響くのみ。
 の指先が胸元に触れたとき、ようやくノヴは動き見せるがそれも数瞬で眠りの底へと落ちていく。
『……』
 ほっと安堵の息をつくだが、疲れきり眠りの淵へと落ちている男の表情を見て息を呑む。
 汗で張り付いた前髪、汗で薄っすらと透けるワイシャツに時折光る鎖骨、ほんのりと伸びている無精ひげは珍しいものとして視界に映り、いつもの清廉潔白といったイメージを覆していた。
 きっとなれない現場仕事に疲れたエリート刑事なんかは、こんな感じなんだろうなぁと場違いなことを考えて、はノヴの服に思い切って手をかけた。
「……んっ」
 ふっと、の着ていた着物の端がノヴの足に触れる。妙に鼻にかかった声が上がると、は着物の端がと意識する前にその色っぽい声に背筋を震わせた。
 思わず数歩後退して身構えるが、声を上げた本人は数回色っぽい声を上げたあとにまた深い眠りに落ちたようで、すぐに静かになっていく。
 は額の汗を拭いながら、持たされていた紐で着物の端を括ろうとちょっとばかり部屋の端に寄り、着物の袖をめくって紐で結わえた。
『さて、これで色々しやすいですね』
 は気合を入れなおすと、ネテロ会長から聞いていた通りに発熱し始めているノヴの服を脱がしに掛かった。汗の所為でとても脱がしにくく、途中何度もノヴが起きそうになったり色っぽい声にが腰砕けになったりしていたが、やはり貫徹後の病人の動きは鈍く思考能力も落ちているらしい。目が合ったと慌てているを尻目に、半裸で体を拭かれているノヴは怪訝そうに問うてきた。
「なにを、してるんですか……?」
「き、きがえ、あの」
「そうですか」
 そしてまた即座に眠りに落ちるノヴを見て、は安堵と共にこれは重病だと頭痛を覚えた。

「のぶせんせ、うで、あげる」
「……ええ」
「のヴせんせ、のど、かわく?」
「……みず、を」
 新年早々そこまで親しくないノヴの看病を言い付かっただが、ノヴの思考能力が下がっているのが分かると、それをいいことにあれやこれやと話しかけて作業を進め、あっという間に着替えを完了させてベッドに潜り込ませることに成功した。頭の下にはタオルに包んだアイスノン、頭の上には絞った濡れタオル。無理矢理嚥下させたホットミルクで胃袋を酒以外のもので満たし、風邪薬も無理矢理飲ませた。
「……けっこうです、よ」
「のぶせんせ、わがまま、め」
「……ああ、もう」
 嫌々ながらも飲んだノヴの寝息は、全てが終わった今安らかなもの。酒気を帯びた息は歯を磨くまでどうしようもないが、先ほどまでの怠惰な服装からは一変して清潔な服で眠りの中だ。
 は自分の使命が果たせたことに満足し、ようやくリビングのソファへと落ち着いて腰を下ろす。電源を切っていた携帯電話をチェックすると、初詣に行かないかだとか今どこに居るのだとか、ノブナガやイルミたちからの着信やメールが山ほど届いていて、に嬉しい誤算をもたらした。
 その一つ一つに返信を打ち、堪えきれない微笑をこぼすは着物を縛ったまましばらくその行為に没頭する。
 メールを順次返していると、とうとう携帯電話が着信を知らせだす。メールを読んだ面々が次々と電話をかけてきてくれているのだと分かると、はますます笑顔になって電話に出る。
『あ、ノブナガさん。はい、今新年の挨拶回り中なんです。ええ、ちょっと知り合いの方の家にいますよ、はい』
 電話向こうで連絡が取れなかった、と不満げな様子を出されると、ますますの笑顔はとろけていった。


 静かになったと思えば電話をしている様子のに、ノヴはぼんやりと意識を覚醒させながらドアの方へと顔を向けた。
 成人女性とは言え、部屋に呼ぶほど親しい間柄でもない女性に体を好きにされることなど、通常のノヴからは考えられないほどの愚行。けれどそれがネテロの差し金ならと、言い訳をしつつノヴはつい数時間前を反芻する。
「お前も良い年じゃろ、良い相手はおらんのか」
「パームが居る限り、こいつには無理だろ」
「お二人に心配されるほど、不自由はしていませんよ」
 毎度のことだがお節介な会長の言葉に、モラウは笑顔で乗っかってくる。それをノヴは軽くいなすが、今回のネテロ会長はしつこかった。酒を次々とノヴの杯に注ぎ始め、飲まねば念を使ってでも飲ませようとする。逆らう方が面倒だと悟ったノヴは途中から全て飲んでいたが、正直、続けられる恋愛方面の話には苦戦していた。
「不自由しておらんということは、だれぞおるのか?」
「なんじゃ、わしには言うてもいいじゃろうが。休みも考慮してやるぞ?」
「……ほうほう、で、本命は?」
「……おらんわけはないじゃろうが、ほれ、言うてしまえ」
「粘るのう。どうじゃ、言えばもう帰してやるぞ?」
「ふむ。……で、その女性らは対象ではないんじゃろ」
「ああもう、お前も粘るのう。あれじゃろ、は駄目ではないんじゃろ?」
「パームもあやつなら甘いと思うが、そこら辺は考えておらんのか」
「嫌味な奴と言われるぞ? ん? わしはいいんじゃ」
「ほれほれほれほれ、言うてしまわんと帰さんぞ?」
 あれやこれや言葉を変え手を変え品を変え対抗するが、古狸のネテロには到底敵わず、最終的にノヴは誰かの名前を口走ったような気がする。にやにやと下品な笑いを顔に浮かべたネテロ会長が、本当に心底満足そうに頷いていたような気もしてきた。
「なんじゃ、やっぱりか。ならお膳立てしてやらねばのう、ほっほっほ」
 ノヴは額に乗せられている濡れタオルの位置を直すと、ドア向こうで楽しそうに笑い声を上げているへと意識を向けた。
 つたない喋りで、パームに懐いていて、言動の幼い女性。
 一般人で、オーラが煌いていて、笑顔が輝いていて、不穏な友人の影が見える女性。
 頭が悪くて、こちらの言いたいことの半分も素早く理解できなくて、でも真剣に話を聞いてくる女性。
 ノヴは熱で痛みを訴えてくる頭を無視して、楽しそうに電話をしているを怒鳴りつけたくなってきた。そんな行動は自分のキャラではないと分かっていながら、自分はこんなにのことを考えているというのに他の人間と談笑をしているが憎くなってくる。
 こちらを見なさいというか。
 何をしに来たか忘れているんですかと、叫ぼうか。
 私を看病しに着たのではないんですかと、駄々をこねて見せようか。
 枕元においてある電話の子機を手に取ると、ノヴは震える指で内線ボタンを押し込んだ。すぐに慌てて電話を打ち切るの声が聞こえ、子機の向こうからのかしこまった応対声が響いてくる。
 ノヴは一瞬だけ笑みを浮かべ、何を言うか模索した。とりあえず、喉が渇いている自分と喋りつかれているだろう彼女に、一杯の水でも所望しましょうか。
、さん?」
 ノヴはそっと口を開いた。


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