女心と年越し蕎麦
「ぱーむ、おそば、たべる、すき?」
「嫌いじゃないわ」
ノヴから貰った指輪を大事そうに撫でるパームを見ながら、はふーんと頷きながら上の空で雑誌をめくる。パームの自室に寝転がり、見ている雑誌の表紙はこの時期によくある、新年についての特集写真。あちらこちらの都市が行うイベント情報や、この時期おすすめのファッションに料理、プレゼントなどの特集が組まれていたりした。
それらを一通り眺めたは、飽きもせずうっとりと恍惚の瞳で目を細めたパームを盗み見ると、ため息をついて雑誌を閉じた。
「ぱーむ、ゆびわ、すき?」
「あの人から貰ったものですもの。なんだって大切だわ」
迷いのないその口調に、は言おうとした言葉が喉に使えるのを感じた。それはプレゼントではない、それは仕事だと言う一言だった。
ノヴがいつものように淡々とパームと仕事の話をし、そして指輪の処理を任せるということでパームに手渡された珊瑚の指輪。可愛らしい桃色の球体は少々小ぶりで、どちらかといえばネックレスにしたほうが可愛らしい形だったように、その時のは思った。
けれど仕事とした受け取ったパームは違うだろうと、指輪を見つめていたがパームを見上げたときには事態は一変していた。甲高く鼓膜まで破くのではないかと言う高音が響き渡り、音が聞こえなくなった耳と事態を見つめるしかない目が口をパクパクと高速で動かし、嬉々とした表情でノヴにお礼を言っているパームを見つけてしまったとき、パームにとってはこの時期特有のプレゼントとして認識してしまったのだと、ようやく頭が回ったのだ。
「ではパーム、頼みましたよ」
「はい、お任せください!」
どこから聞いても仕事の会話だとしか思えないはずなのに、パームの表情は念願かなってプロポーズをされた女性のような、これから先の幸福を疑わぬ夢見るような浮遊感の漂うもの。
それがたった二時間前の出来事で、鼓膜が正常な機能を取り戻した現在のは当初の目的を果たしたくて仕方がない。早くパームに現実に帰ってきてもらって、いつものように会話がしたいのだ。
「ぱーむ」
「なぁーに」
うふふ、とどこかのお嬢様のような柔らかい笑い声が返ってきて、はパームがこちらの世界に戻ってくる気がないのを察知する。折角年末にパームの部屋に来れたのにと思わないでもなかったが、そのパームが幸せそうにしているのをぶち壊すわけには行かない。
は雑誌を本棚に戻すと、予めパームと用意していたエプロンを身につけ、年越し蕎麦の準備に掛かることにした。
ノヴに指輪を渡されるそのときまで、パームはと二人で食べる年越し蕎麦には何を入れるかとああだこうだいいながら、近所のスーパーへと買出しに行っていた。
年末で主要なものがあっただろう空間がごっそり抜けているスーパーに、みんな買出しに走ったのだと二人で笑っては海老やかになどの豪華食材の欠品に嘆き、ではお出汁は高いものを思えばそれも空。具材辛うじてかまぼこやらねぎやらを籠に入れたが、それも残っていたのは普段手に取ることなどない高いものばかり。
計算外だと嘆くに、パームは穏やかな笑顔でだしを手作りするわと肩に手を置いていた。とても優しいその手と口調に、は食欲など次元の彼方で喜んだものだった。
「うふふふふ……綺麗」
そんなパームは、現在進行形で指輪に見入っている。魅入られたかのような恍惚とした表情は、時折唇だけでノヴの名前を呼んでいる。
はため息をつくと、食材とはまったく合致しない豪華な雑誌のレシピに目をやり、見よう見まねで作ることを決意した。時計の針が日付変更線を越える前にと、冷蔵庫の扉を開ける。
『……でも、かまぼことねぎだしなぁ』
冷蔵庫を覗けばそれなりの食材が入っているが、それはそれでこれはこれ。年越し蕎麦の具材は二つだと買出し中に決まっていたし、もしノヴが口にする予定のものなどがあったりすれば、それこそパームの怒りに触れてしまう。
考えながら台所に積まれていた蜜柑を揉み、甘くした後に皮を剥いて頬張りながらは駄目元でパームへと顔を向けた。未だに恍惚としている彼女に、出来るだけ明るい表情で声をかけた。
「ぱーむ、おなか、すく?」
「今はもう胸がいっぱいで……、苦しいくらいよ」
「……そか」
あえなく撃沈した質問に、は肩を落としながら台所へと向き直る。背中にぶつかってくる雰囲気は明るく甘ったるく、どう考えてもにパームを正気づかせる方法を思いつかせなかった。
暖房の行き届いていない台所で息を吐くと、は手を擦って鍋を出す。とりあえず蕎麦を作ってしまって、一緒に食べるか声をかけようと区切りを作り、さっさと材料を並べていく。けれど何か足らない気がして首を捻り、もう一度雑誌のレシピに目を落とす。
『伊勢海老はあるわけない。…って、伊勢? ここ日本? あ、違ったイエセン? どっちにしろ地名なのは間違いないから、置いておいて。蟹もない、あれもこれもそれも……』
豪華な食材ばかりで次々と首を横に振って流していくが、肝心な調味料の名前にの視線が止まる。確かこれは、重いからと玄関口に置きっぱなしだったような。
自分の記憶を遡っていくは、パームに声をかけないまま台所へと足を向ける。
黒くてでっかいボトルのそれは、きちんとスーパーの袋に入ったままそこにあった。そうそう、これがちょっといるんだよねと頷きながらは醤油を掴み、すぐさま台所へと引き返す。
「あら、持って来てくれたのね。ありがとう」
けれどそこには割烹着を着たパームが立っていて、蕎麦作りを開始していた。思わず台所の時計を見上げるが、の目には五分と経っているように見えない。ますます首を傾げて不可思議な現象に困惑するに、パームは何かコメントするでもなく醤油を持っていってしまう。そしてさっさと蕎麦を茹で始め、すぐに出来るわよと満面の笑みを向けてきた。
「……ぱーむ?」
「なに?」
笑顔でかまぼこを切っているパームに、は反射的に首を横に振った。
「変な子ね」
パームはそんなを追求するわけでもなく、笑顔で蕎麦を完成させていく。濃いかしらと差し出された味見皿を受け取り、が美味しいといえば素敵に美しい笑顔で頬を染めていた。
「褒めても海老は出ないわよ」
いつもより若干激しい感情表現を見せていると、はようやくパームの異変に気づいた。頬を染める、そんな行為はノヴが目の前にいない限り行われない。
「……ぱーむ」
「他にも食べられるもの作っちゃうから、こたつで待っててね」
「…………うん」
何があったのだと追求したい口を噛み締め、は唯々諾々と居間へと引き返す。もぞもぞと冷えた手足を突っ込んでテーブルに顎を乗せると、開かれっぱなしの携帯画面が目に入った。
「……」
は見てはいけないと一旦目をそらすが、一瞬見てしまったその画面はメール画面だった。いつ着たのだろうと思わないことはなかったが、差出人の名前も目に入ってしまったのですぐわかった。差出人の名前は、ノヴだったのだ。
「……」
台所のほうで鼻歌を歌いながら色々作り始めているパームを見ると、は心の中でごめんなさいと謝りながら携帯電話の画面を伏せる。以前見た、着信メロディーが鳴り出す前に素早くボタンを押して電話に出たパームを思い出したのだ。
『そっか、また光速で出たんだ』
どれだけの速さでメールの着信に気づき、その中身を読んで実行したんだろう。
ぼんやりと手や足先が温まっていくのを感じながら、は食欲を刺激する匂いに鼻をひくつかせた。
「ぱーむ、だれ、くる?」
思っていたよりも多い器の数に首を傾げれば、パームは嬉しそうに目元と口元をほころばせる。清楚な花がひっそりと咲いたような光景に、は思わず息を呑む。パームの手はその間も手際よく動き、熱燗までも用意し始めていた。
「あの人がくるんですって。モラウたちも来るらしいから、いっぱい用意しなくちゃね」
あ、モラウさんは呼び捨てなんだと納得する間もない展開に、は目をしばたかせた。確か、二人で買った蕎麦の数はふたつ。そして来客はこの様子では四人。俯きながら明らかに足りない数を数えると、はもう一度パームへと顔を上げた。
「ぱ」
「もしもし、お蕎麦10人前持ってきてもらえるかしら。ええ、作る前のものを。いいから早くしてちょうだい」
すでに家電にてどこかへ電話をかけていたパームは、電話向こうの人物が抵抗でもしているのか、肩と耳に子機を挟みながらリズム良く大根を無残なぶつ切りへと変えていく。
ダンッ! とひとつ包丁が振り落とされるごとに電話向こうから悲鳴が上がり、パームの口調がよくある狂女のそれへと変わっていった。
「いいからっ! あんたはさっさと持ってくればいいの! 早くしなさいってばぁああ!!」
それでも手元は間違いなく大根を煮込んだものなのだろう料理を作り続けていて、は突っ込みを入れることを放棄する。テーブルの上のものを片付け、その周りも適度に物を整頓してからパームを手伝いにと台所へと舞い戻った。
「ったく、さっさとすればいいのよっ!」
勢い良くまな板に包丁を突き立てるパームを見て、はその背後から様子を窺った。
「……おつかれさまです、ぱーむ」
以前ノヴが言った台詞を真似して顔を覗き込めば、勢い良く電話を切ったが振り向いてくる。その速さに鳥肌を立てているに構わず、パームは感情を露わにした表情ではなく、いつもに見せている冷静な美女の顔に戻っていた。
あれ? とが不思議に思って鳥肌を治めていると、パームはどこか思い出したように呟きだす。聞き取れない言葉に耳をそばだててみるが、やはり聞き取れない。
「ぱーむ?」
「もうすぐ出来るから、貴女は座って待ってなさい。すぐだから」
無造作にの頭を撫でたかと思うと、凛とした和服美人な横顔を見せたパームは、割烹着を着なおして作業へと戻っていった。向けられた背に疑問をぶつけようとしても、パームの澄んでしまった空気はどこか声をかけづらいものがあり、は少々の時間を置いて居間へとまた戻っていった。
コタツに入ってパームの携帯に視線を向け、先ほどまでパームが恍惚と見つめていた指輪へと視線を向けて、玄関へと視線を向ける。
台所からは食欲をそそる香りが漂ってきて部屋に充満し、隣の部屋に不気味な人魚やら推奨やら呪術系のものが溢れていることなど微塵も感じさせない穏やかな空間に、は息を吐いて寝転がった。
とりあえず、落ち着いた年越しになりそうだなぁともう十分もすれば日付が変わると気づいたとき、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「、出てもらえるかしら」
「うん、わかた」
きっとノヴさんたちだろうなぁと気配を感じつつ、は騒がしい玄関へと駆け出した。
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