彼の機嫌は、とても良い。
は携帯電話を握り締めながら、ゆっくりと肩から力を抜いた。自分の感情に流されるのはいけない、相手の見えない思惑を探ろうとしてはいけない。そうしなければ、今の自分は突然の出来事に混乱したまま、訳の分からないことを口走ってしまいそうだ。
心の中でゆっくりゆっくり、殊更ゆっくり十数えると、同じように静かに深く呼吸を繰り返した。
『大丈夫、もう落ち着いた』
言霊の力でも借りるように呟くと、携帯をベッドの上に放り投げ、目の前にある手紙を摘んで机の引き出しに放り込んだ。大丈夫、大丈夫だ、何の問題もない。
引き出しを閉めた途端に鳴り出す家電に、大仰に体を震わせたは、自分の反応に気づくと苦笑した。
『大丈夫、大丈夫』
聞こえてきた音は廊下から響いているし、携帯電話は電源ごと切ってある。クロロからかもしれないが、その場合はすぐに受話器を下ろせばいいのだ。こちらの家の電話にかけてくる人間など、極々少数じゃないか。
は自分を勇気付けながら、廊下に出ると電話に歩み寄っているサテラと目が合った。
「宛ての電話?」
「わからない。でも、さてら、いいよ」
「そ? ありがと」
「どういたしまして」
サテラが疑問にも思わず引き返したところで、は電話と対峙する。いまだに呼び出し音は鳴り響き、耳障りではないが緊張が増していく。何度も深呼吸をしてから、思い切って受話器を耳に押し当てた。
「もしもし」
「あ、よかった居てくれて。シャルナークだけど、だよね?」
思わぬ人物からの電話に、の動きがしばし止まる。けれども向こう側から名前を呼ばれ、慌てて意識を引き戻した。
「?」
「あ、ん、わたし」
「大丈夫? なにかあったの?」
「ん、ん、なにない」
「……ならいいけど。これから用事ある?」
「ないよ」
があっさりと応えれば、すぐに内側から鳴る自室のドア。……内側?
慌てて受話器を持ったまま移動すれば、明らかに自室のドアの内側からノックの音が響いていた。コンコン、コンコンと一定の間隔を持って響いてくるその音は、受話器の向こうからも聞こえている気がする。
「……しゃる、どこ、いる?」
「え、さてどこでしょう」
クイズを出している場合ですかと突っ込みたかったが、どことなくシャルナークの声が楽しそうなのでそんな気も失せた。は自室のドアをノックしながら笑う。
「しゃる、みつけた?」
言うが早いかドアが開き、携帯電話を耳につけているシャルナークと目が合った。
「見つかっちゃった」
「ふふ、しゃる、ふほうしんにーよ?」
「不法侵入。……分かっててやってるんだよ?」
お互いに首をかしげながら笑い合い、どうぞとシャルナークに促されたは、どうもと言って自室へと入っていった。なんだかおかしいなぁと思いながらも、家の電話を切って机の上に置いた。
それを見てシャルナークも携帯を切ったが、にこにこと笑うばかりで用件を言い出さない。シャルナークの姿を見たは、その犬耳のようなものをつけて包帯を胴体に巻きつけた格好を見て、ハロウィンの仮装だと一応見当はつけたが、狼男とミイラ男が混ざるのはどうだろうと首をかしげた。
シャルナークはの視線に気づくと、くるりと可愛らしく一回転をする。
「あ、しぽ」
「ぴんぽーん」
ふさふさと茶色の尻尾がお尻の辺りから垂れ下がり、どう操っているのかゆらゆらと揺れていた。あー、これは可愛いなとは注視する。
見られているシャルナークはとても楽しそうで、も疑問は脇において笑顔になってしまう。
けれども開いている窓やらご丁寧に脱がれた靴を指差し、やはり聞かなければとはベッドに腰掛けた。
「しゃる、ようじ、なに?」
「あれ、この格好のご感想は?」
けれども当人から話をそらされてしまい、は困ってしまう。感想を言わねば答えない雰囲気を出してくるシャルナークに、首をかしげた。
「ほら、この格好なんだか分かる?」
催促してくる上に、尻尾を揺らしてお尻を見せてくる。これで年上なのかと吹き出すが、それが目的だったのかシャルナークはご機嫌なまま。
根負けしては拍手で応えた。
「おおかみおとこ、でしょ。しゃる、かわいい」
「可愛い? えー、格好いいのほうが嬉しいんだけど」
「はろういん?」
「そう! お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞー!」
「きゃー!」
がおー! とばかりに両手を掲げて覆いかぶさってくるシャルナークに、も笑いながら押し倒されてしまう。ベッドの上に二人して転がると、顔を見合わせて笑い出した。
「、ハロウィン知ってたんだ」
触れた手をシャルナークが握り締める。はそのことに気づいて手に視線をやるが、目の前のシャルナークが何も言わないので、大人しく繋がれておく。知らない仲ではないが、兄弟でもない男の人に手を繋がれるのは、なんだかちょっと変な気分だ。けれどシャルナークが意識していないなら、こちらもシャルナークを男性として意識すべきではないと、は考えを落ち着ける。
「わたし、くに、はろういん、あたよ」
「へぇ、同じことしてた?」
「にてる、だいたい」
「ふぅーん。じゃあ、仮装もしてた?」
「かそ?」
繋いでいる手はそのままに、シャルナークのほう片方の手がの背中に回ったかと思うと、いきなり抱きしめられたかと思うほど、お互いの顔が近くなる。
それに際してが一気に息を詰めると、シャルナークが破顔する。背中に回していた腕を放して、そのまま動きを止めたの頬に触れながら笑う。
「かそう、だよ。おれみたいに服を変えて楽しむの。分かる?」
優しく教えてくれるシャルナークの声も、突然の事態にの頭は付いていけず、瞬きをしてシャルナークを見つめるばかりになってしまう。シャルナークは、また笑う。
「やだな。そんな表情されたら、本当に色々しちゃうよ?」
のオーラは先ほどからハロウィン一色。オレンジ色のかぼちゃがふわふわと空を舞い、オレンジ色の尻尾は本体へと細々とつながれて、時折カラフルで色鮮やかなキャンディーたちがいっせいに空気へと散っていく。
シャルナークの姿を見た所為か、キャンディーには古典的なお化けやらこうもり、魔女やら狼男ミイラ男、吸血鬼やらが盛りだくさんに腰掛けて、空中遊泳をしている場面もあった。
それを見ると、思わずシャルナークも笑顔になってしまう。
本人は見えていないらしいこの光景、きっと念の修行をすれば見えるだろうに、なんて勿体ないんだろうと思ってしまう。シャルナークたちは触れれば見えるのに、こんなに面白いのに。
のオーラは、まだ念能力とも呼べないほどおかしなものなのに、こんなにも自分達を楽しませてくれる、稀有な能力だ。
もちろん、に触れる口実を与えてくれる、素晴らしい能力とも言える。
「え、や」
けれどそんなことを考えていたのに、あっさり本人から意味も分からないだろうに却下されてしまう。近すぎる位置だと吐息まで触れ合って、くすぐったいと同時に寂しい。
「おれがなに言ったか、分かって言ってる?」
「んーん。でも、なに、か、や」
直感かーと感心はするが、このままなだれ込んでもシャルナークが勝つことは目に見えている。実はの意思などないに等しい状況なのだ。
それも可哀想だと思ったので、シャルナークはもう一度聞いてみた。
「Can you understand this language? (君はこの言葉を理解できる?)」
「え、や、なに?」
「Can't he understand?(理解できないんだね?)」
「や、しゃる、しゃべて。わたし、わからない」
一気に途方にくれた表情になるを見て、シャルナークは優しく微笑んだ。シャルナークから繋いだはずの手が、縋るように握り締められている。
「Is there something fearful?(何か怖いことがあるの?)」
握り締められる手を揶揄してからかうが、言葉の通じていない不安からか、は目を見開いてシャルナークを見つめてくる。その目は涙さえ浮かんできているようで、心なしか潤んできていた。
「や、や、しゃる、いじわる。や、いじわる」
ベッドに少し埋まった頭を小刻みに横に振り、自分から身を寄せてシャルナークの言葉を待つ。なんて分かりやすくて操りやすいんだと、シャルナークは笑い出しそうになって来た。
自分に頼ってくる様子の、なんと可愛らしくいじらしいことだろう。
これ以上苛めてしまったら、やはり泣き出してしまいそうなので、ここら辺で優しくしてあげようと勿体ないながらもシャルナークは微笑む。その表情を見て、の安堵のため息がシャルナークの頬に触れた。
「Trick or Treat?」
「わ、わかない」
奈落の底に突き落とされたような、か細いか細い呟きに、シャルナークは満面の笑みでを抱きしめ立ち上がると、悲鳴を上げて首にしがみついてくるの耳元に、優しく笑いながら囁いた。
「お菓子くれなかったから、悪戯だね」
ようやく意味が分かったのか、があっけにとられた表情でシャルナークを見てくるが、笑って靴を素早く履くと、シャルナークは外へと飛び出した。
「や、しゃ、ど!」
「おれの家へご招待!」
移動のスピードと突然の事態に目を白黒させているを抱きしめ、シャルナークは楽しくて仕方がないと笑いながら空を駆けていく。
自分の腕の中に収まっている体をしっかりと抱きしめ、嬉しくて仕方がないと全身で笑いながら屋根の上を駆けていく。腕の中で文句を言おうと唇を動かしているの顔を見つめ、そしてまた笑う。
「お菓子くれなかったが悪いんだよ!」
反論など許さぬ無邪気さで声を上げると、駆けていくスピードをさらに上げて、心情的にも物理的にもの反論を封じた。
シャルナークは上機嫌だった。
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