観察
「じゃあ、おれ氷取ってくるから。いいから寝てなよ、具合悪いんだろ? ほら、やっぱりまだだめじゃん。横になってなよ、いいから、いいから。……無理矢理ベッドに縛り付けるよ? 最初からそうしとけばいいんだよ、具合悪いくせにさ。ほら、もういいからゆっくりしなよ。おれすぐに戻ってくるし。何か食べたいものある? こういうときくらい我侭言いなよ、遠慮深いなぁ。ん、ん、分かった。じゃ、すぐ戻るから」
ゼノは聞いたことがないほど気を使っているイルミの様子に、これは本気だなと笑みを深める。あの能面面がここまで熱くなる女など滅多におらんだろうと思っていただけに、ここまで情緒が育っていると分かって感慨もひとしおだ。これはひ孫も早いうちに見られそうだと、父親であるシルバを見る。
シルバはシルバで、自分の息子がここまで世話を焼きたがるほどの男だとは思ってもみなくて、の話を二三度聞いた程度なのが惜しまれるほどだった。もっと深く聞いておけば、今頃話のネタになっただろうに。
そうこうしている間にイルミはベッドに寝かせたから離れ、その額を撫でてから部屋を後にする。出る寸前で振り返りゼノとシルバのいる付近に視線を走らせたが、経験の差か気づいても害はないと放置したのか、特にコメントなく扉を閉めていった。
常人の目から見ればベッドに横になっているしかいない客室で、は何度か咳き込むと無理矢理息を吸い込んで、また咳をするという不毛な行為を繰り返していた。
しくじった。
は咳き込む苦しさに涙目になりながら、アイロンの聞いた枕カバーに顔を押し付ける。けれど咳が消えるわけでもなく、ただ触り心地のいい枕とシーツの感触を楽しむだけになってしまう。咳は止まらず、しばらく続いた後に無理矢理飲み込んだ。
『うぇ』
どうにか喉の不快感をやり過ごすと、今度は異様に高鳴っている心臓に意識が向く。服の上から片手で握りこむように押さえ込んではみるものの、先ほど浴びた威圧感のストレスはすぐには拭いきれない。
ゼノとシルバの視線が、あれほど威圧的なものだとは思いもしなかった。
は枕に顔を突っ伏し、壁側へと身体の向きを変えながらため息をつく。漫画で読んでいたときの予想以上に、素人には毒な威圧感と視線だった。思い出すだけでの身体は震え歯の根が合わなくなるが、それでも理解したことがある。
あの視線に、殺意は微塵もなかった。それだけはしっかりと分かった。ただただ、好奇心が二人の視線から伝わってきたのだ。それなのにこの身体の震え、発熱、異様な心臓の高鳴り。いっそ電撃的に一目惚れをしたと認識したほうが楽な状況に、は頭痛が起こらないのが奇跡だと自分の額を撫でた。
『イルミに、悪いことしたなぁ……』
誘拐されてきたとは言え、好意での招待なのは間違いない。ここまで運んできてくれたし、わざわざ氷も取ってくるといっていた。心配してくれたのだろうきつめの言葉も頂戴した。缶のみかんが食べたいと言うだけ言ってみたら本当に持ってきてくれるみたいだし。
『……』
は思わず表情を緩め、ゴトーにみかんの缶詰を探すように言いつけるイルミを想像した。きっとゾルディック家では缶のみかんなど食べないだろうに、あの様子では大急ぎでゴトー買ってくるのかもしれない。いや、もしかしたら自分のほうが早いとイルミが買いに走るのかもしれない。
ありえないと思うが、想像するだけならタダだと無表情のままふもとの町までみかんの缶詰を買いに行くイルミを想像し、は一人楽しく笑い始めてしまう。
『そこまでしないだろうけど……っく』
心臓は異常に脈打ち胸は吐き気がするようなむかつきを感じ、身体は発熱しているのに気分は高揚していく。ちりちりとうなじが総毛だっている気もするが、は布団の中で身体を丸めて笑い続けた。
「……」
ゼノはいきなり笑い出したに目を丸くする。どのタイミングでに声をかけようかとシルバと視線を交し合っている最中だったが、突如湧いて出た笑い声に耳を疑った。なにか呟いているのは聞こえていたが、笑い出すとは思わなかった。
「わしらの圧力がそう効いておらんかったんじゃな」
「いや、効いてるみたいだ」
ゼノがつまらないと呟けば、シルバが面白そうに顎を動かす。その顎の先を見ればが笑い小刻みに震えているだけだが、ゼノが目を凝らせばすぐにシルバの言葉を理解した。
「ふむ、症状は治まっておらんのか」
「笑いの発作が追加されただけだ。身体の方が異常事態を把握しているらしい」
「頭が追いついておらんだけじゃな。なんじゃ、やはり面白い娘じゃわい」
ゼノは呆れながらも笑った。
の身体は落ち着きを取り戻しておらず、ゼノやシルバが少し耳を澄ませばその異常な鼓動の早さも発熱のために熱くなった血液の流れまでも、つぶさに聞き取れるものだった。笑い声に気を取られなければ、ゼノが落胆することもなかっただろう。
二人は顔を見合わせると、音もなく室内に姿を現す。壁に顔を向けているは気づかず笑い続けているが、ゼノとシルバには先ほどから逆立っているの産毛が見えるようだった。先ほどの余韻で逆立っているのか、それとも動物の本能として逆立っているのか。
わざと音を立てて二人がベッドに近づくが、は気づく様子もなく荒い息をついて笑いを収めているだけで反応を返さない。はぁはぁと苦しそうに笑いの余韻に浸る表情は、どこにでも転がっている子供のようだった。
「……具合が悪いと聞いたんだが、もう平気なのか?」
シルバの一言に、の背筋が凍りつく。
その目が左右に揺れたかと思うと、肩を動かしシルバとゼノの居る後方へと視線が向く。いやにゆっくりとしたその動きに、の動揺が窺い知れた。
丸く間抜けにも見えるその表情が、シルバと目が合った途端に限界まで見開かれる。
「イルミが慌てていたが、具合はどうじゃ」
ゼノの言葉にも肩をびくつかせ、反射的に視線を向けてしまったのだろう動きは即座に固まる。ゼノはその反応に満足いって笑みを浮かべた。ちろりとわざとらしくゼノはシルバを見上げたが、視線が向くのが予想出来ていたシルバはに視線を固定する。
「ほれみろ、こういう反応が面白い反応なんじゃ。お前も少しは面白い反応をしてみろ」
「息子の恋人である若い女性と、子供が居るおっさんを同列に見るほうがどうかしている。お嬢さん、ああ、無理に起きることはない。横になっているといい」
自分の状況を把握したは、とりあえず目の前の二人が友人の父親及び祖父だと認識すると、その場で姿勢を正そうと上半身をばね仕掛けのおもちゃの様に跳ね上げる。が、元々体調を崩していたことから目眩を起こしてしまい、シルバに言葉でいたわられるほど分かりやすく身体をふらつかせてしまった。
は壁に身体を寄りかからせ支えたが、それを見たシルバにもう一度ベッドに寝かされてしまう。太い腕が身体に回ると後頭部をも柔らかく慎重に支えられ、の見上げる視線にどこか驚いたような愉快だと言いたげな視線でもってシルバは応え、ゼノが気を利かせて掛け布団を引き上げてやった。
シルバは立ったままの頭を撫で、目眩で多少色の悪くなったその顔を覗き込む。
「悪かったな、イルミが連れてくる女性がどんな人だか試したかったんだ。体調を崩させてしまって悪かった」
『……いえ、そんな、こちらこそいきなり倒れたりしてすみませんでした』
シルバのあまりにも予想外で優しい対応に、はこれは現実だろうかと瞬きを繰り返しながらおずおずと言葉を返す。けれどシルバは首を傾げ、ゼノがシルバの横から顔を覗き込んでくる。
「なんじゃ、本当に異国の人間じゃったんじゃな」
その一言で自分がこちらの言葉を使っていなかったと分かったは、慌てながら頭の中の辞書を引く。自分が呟いた言葉を変換し、改めて微笑みながら緩く頭を動かした。
「わたし、とつぜん、たおれる、もうしわ、けな、いです」
「……いや、お嬢さんくらいの人間だったら当たり前のことだ」
「しかし、しつれい、わたし、あやまる、する。……ごめなさい」
幼い子供の様に拙い喋りにシルバの口元が綻ぶ。こういうのが好きだったのかと思うと同時に、必死なをからかってやろうかと言う気持ちが湧いてきた。
けれどいきなりそれをすれば警戒されてしまうだろうと、頭を撫でていた手を引っ込める。気にしないで良いと言うと同時に部屋の扉が開いた。
「……なんでいるのさ」
「なんじゃイルミ、女性の部屋はノックせんかい」
「俺達はこれで失礼する。じゃあ、イルミ」
イルミが何か言おうと口を開く前に、シルバが撤退し始めゼノもに手を振りあっさりと部屋を後にした。
それを見送るイルミは部屋の中に視線を飛ばし、にそれとなく駆け寄って何かされていないか凝を使って調べるが、どこにも異常はない。ただイルミが部屋を出る前より青くなっているその顔色に、どうしたのか聞くだけに留めた。
「めまい、おこす、した」
「無理に起きたんだろ。親父達は気にしなくてよかったのに、具合悪いんだからさ」
イルミがの対応に不満を漏らすと、それはそれで嬉しいものだとは笑う。イルミに手を伸ばすとなんの躊躇もなく握り締められる。
「なに、心細かった?」
少し期待するようにイルミは聞くが、は首を横に振って笑う。イルミの手を力の抜けた手でやんわり握り返すと、先ほどの事をかいつまんで話す。そして満足のため息を吐くと、その出来事の総評を口にした。
「いるみ、ちちうえ、いいひと」
「……一応否定せずにノーコメントって事にするけど。その父上ってどこで習ったのさ」
「てれび」
イルミはどこか嬉しそうに囁いてくるに、父上でなく父親かお父さん、もしくは父が一般的だと看病しついでに教えることにした。その額に濡れ絞ったタオルを置くために前髪を上げると、オーラが熱が出ているにもかかわらず嬉しそうに華やいでいて、言葉の通り無体なことはされていないと確信した末の結論だった。
あれだけ威圧的な反応を示しておいて、これはどういうことだろうと首を傾げるが、それはに聞いて分かるはずなどないので、発言主である父と傍にいた祖父に後で問い詰めようとイルミは一人納得する。
熱が上がって苦しいのか心細いのか、ことあるごとに物欲しそうな視線を向けてくるに、イルミは手を繋いで慰めてやる。
「ほら、一眠りしなよ。起きたら送ってあげるから」
ちょいちょいと力の抜けているの手で遊びながら言うと、イルミが切り食べさせたみかんで満たされて眠くなってきたのか、の瞼がうつらうつらと揺れだしてくる。次第に閉じる時間が長くなり、オーラの動きがなくなったと思うと静かに寝息が聞こえ出した。
薄っすらと開いた唇から聞こえる呼吸音に、イルミは安堵のため息を吐く。ベッド脇に腰掛けながら、その唇を奪ってやろうかと振り回してくれる報復を考えるが、力ないながらも握り締められる手を見ると、なにも出来ずに天井を仰いだ。
「あー……、って本当に嫌な子だよね」
返答など期待していない呟きに、イルミはもう一度ため息をついた。
廊下をしばらく言葉も交わさずに歩いていたシルバとゼノは、お互いの雰囲気が食い違っていることに気づく。特にシルバの雰囲気が愉快でたまらないとばかりに揺らいで、ゼノは自分ばかり理解しおってとやっかみ半分で息子を見上げた。
「なにが見えた」
「オーラだな。触れた途端に見えた、結構でかいな」
「ほう、わしには分からんかったぞ」
「親父は布団に触っただけだろ?服だとか生身だったら多分はっきり見えた。……イルミが興味を引かれたのはあれが発端だな。今は中身ごと気になってるようだが」
シルバの煌く視線に、ゼノは悪い癖が出たと眉を上げる。けれど息子の恋人だろう娘に手を出すほど馬鹿ではないと理解しているので、軽い調子で頷いてみせる。
「ほうほう、それほどか」
「一般人と言うにはもったいない量だ」
「曾孫はすぐか」
「まだだろ。あれは手を出してない」
「つまらんのう、イルミはそこら辺奥手でいかん。わしに似たんじゃろうか」
ゼノの一言にシルバの足が止まる。ゼノもシルバと同じく足を止めるが、訝しげな言葉には即座に顔をしかめた。
「……親父に?」
「……なんじゃ、その目は」
しばし視線の応酬が繰り広げられたが、二人はすぐにまた歩き出した。
「まぁ、イルミがどうにかするじゃろ」
「仕事が出来ても女一人落とせんとな」
二人は肩をすくめてその場を後にした。
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