衣装:突然編



 唐突に訪れた始まりを、終わりを、私は嫌にすんなりと受け入れた。
 毛穴と言う毛穴から汗が吹き出しても、喉がからからに渇いて咳き込んでも、頭の中が熱くて焼け爛れてしまいそうになっても、瞼を開けても濁った世界しか感知できなくなっていても、体が痙攣し続けて思うとおりに動かなくても。
!」
 呼ぶ声がする。
 けれどその声の主が誰なのか、私は分からずにただ唇を開く。
 喉が渇いた、水を頂戴。
 その一言を叫んだはずなのに、私の喉は渇いた砂の流れる音しか出さなかった。
 ああ、だめだ。重い。
!」
 泣き叫ぶような水を含んだ絹を裂くような、重くてでも痛くて高い音がした。頬に触れてきたものが痛いほどに冷えた手だと分かったとき、私は嬉しくて気持ちが良くて安堵のため息を付いた。
『ああ、きもちいい……』
 瞼がどろりと溶け出して、体がずぶずぶとベッドの底へと沈んでいった。ああ、死ぬのだと唇を合わせた。せめて痛くないといい。この苦しみから早く解放されたいけれど、痛いのはいや。
、目を開けなさいッ!」
 最後に聞こえてきた声の主の、その名前を唐突に思い出した。冷えた手の持ち主も、きっとこの人。
 私は乾いた唇を舐めて、けれどそれが潤わないのを知ってベッドの中へと沈んでいきながら、その人に向かって手を伸ばした。さよなら、さよならの握手を。
「ぱ、く……の」
!?」
「…………だ」
 最後まで、名前を呼べた。
 知覚し認識した途端、加速度を増して私の身体はベッドの中へと沈んでいった。まるで底なし沼のような不快感がまとわり着いて、パクノダの手が私の手に触れたのかも分からなかった。
 ああ、でも、どうせこの底なし沼に沈んでしまうのならば、あの人が私の手を掴まなくて良かった。
 あの人は美しい人だから、身も心も美しい人だから。
 沈んで行きながらもどろりと溶けてしまった瞼の裏で、私はそっとパクノダの姿を思い出していた。美しい人、それ故に悲しい運命に飛び込んで行った人。
 一種の陶酔であり、パクノダにとって例えようもない侮辱だと分かっていながら、私は静かに同じ文句を口にした。何度も何度も口にして、その美しくて悲しい人にもう二度と会えないのが辛くてたまらなかった。美しくて悲しくてやさしくて愛しい人、あの女性。
 沈み込んでいく間隔が緩慢になって言ったかと思えば、そこでぶつりと意識が途絶えた。


「だから、はまた眠ったって言ってるんだよ」
「ついさっき目を覚ましたって言いに来たばかりだろうが!」
「それでも眠っちゃったんだよ、しょうがないだろ!」
 シャルナークとノブナガの叫び声に、シズクが黙らせようかとフランクリンに目配せをして、デメちゃんをしっかりと握りこむ。そのまっすぐで今にも飛び出しそうなシズクの両足を見て、フランクリンはゆっくりと首を横に振った。
「どうせ誰かが止めるだろ、やらせておけ」
「そういうもん?」
「ただの癇癪を止めてやる義理もない」
「ふーん」
 フランクリンの冷静な言葉に、シズクはデメちゃんを即座にしまう。今現在シャルナークとノブナガを観察しているのは、二人のほかには特にいない。それぞれ、本日宿泊の部屋に戻ったり、パクノダに言われて物を盗りに行ったり、倒れてしまったの看病に奔走したりしている最中だ。
「でも、やっぱりって体力ないんだね」
「ん?」
 シズクが言い合うノブナガたちを眺めながら、大分食い散らかされた巨大かぼちゃプリンをひと掬い口にする。フランクリンの視線に振り返らずに、もう一口かぼちゃプリンを口にして、唇を舐めた。
「だってさ、一般人なんだなーってすごく実感しちゃって」
は最初から一般人だろ。念も出来ないし、鍛えてもいない」
 フランクリンは言い合いの内容を、日頃の不満へとシフトしてきているシャルナークとノブナガに呆れながらも、シズクにならってかぼちゃのパイを口にする。租借しながら冷えてもおいしいなと首を捻り、に土産として持たせてやろうと何切れかを選り分けた。大きな手と指が細かい動きでパイを選んでいるのを、シズクはちらりと横目で見る。
「まぁ、そうだけど」
 かぼちゃのプリンに飽きたシズクは、今度はまた別の料理へと食指を伸ばす。全体的に食い散らかされてはいるものの、途中のハプニングによりそれなりの量がテーブルには残っている。勿体ないと呟きながらのつまみ食いに、フランクリンはコメントせずどこからかタッパーを探し出してきた。
「だからお前は嫌なんだ! おれのことはロリコンとか言いやがったくせに、自分だってに鼻の下伸ばしてる変態野郎じゃねぇのかよ!」
「あ、あー! ノブナガそれひどい侮辱だよ! ノブナガよりこっちは年齢差が少ないんだから、少なくともロリコンじゃないに決まってるだろ! この民族限定ロリコン!」
「また言いやがったな! お前、ちっと生意気になりすぎてんじゃねぇか!?」
「へー! ノブナガごときに敬意を払わないだけで、生意気なんだ! それは知らなかった!」
 売り言葉に買い言葉と言うものか、普段それと思ってないまでも思いついたことを怒鳴りあう二人に、フランクリンの眉が寄る。シズクも料理をつつくのを止めて、そちらへと視線を向けた。
「やっぱり止める?」
 シズクがフォークを小さく振りながらフランクリンを振り仰ぐと、呆れて遠くを見ていたフランクリンが小さく笑みを漏らした。その大きな手でシズクの頭に触れると、食べとけと告げる。
「止めないの?」
「止め役が来たぞ」
 フランクリンが言い終わると同時に部屋の扉が静かに開き、コツコツとハイヒールが木目を叩く音が響く。
 気づいていないのは言い合いに夢中になっている二人だけで、フランクリンはパイをタッパーに詰める作業を再開する。シズクも先の展開を読んで、また料理を頬張りだした。
「騒ぐなら出て行ってもらえるかしら」
 言い合う二人の会話に割り込むこともなく、二人が息を吸った瞬間の発言に場が火急的すみやかに冷えていく。低い声を出したわけでもなく、ただ淡々と告げたパクノダはその反応にため息を漏らし、またハイヒールの音を響かせながら部屋を後にした。
 残された四人のうち二人は黙々と己のやりたいことを続け、言われたほうの二人は気まずそうに顔をしかめると、パクノダの出入りした扉へと視線を移した。
「……熱、どのくらい出てたんだ」
「高熱なのは確かだよ。体温計ないけど、触らなくても見るだけで分かるだろ?」
「まぁな」
 言葉が続かなかった二人は、沈黙を背負いながらも不安気に扉を見つめていた。


 ウボォーの希望であった吸血鬼の格好をした後、今度は一々皆でわいわい一通り騒いだ後に着替えるのではなく、よくあるファッションショーの様に次々と衣装を着てもらったらどうだろうと、数人が時計を見上げながら提案した。
 クロロはその提案を、次は自分の選んだ衣装を着るのだからと却下したいと言ったが、それこそ我が侭だとパクノダが却下を仕返す。それを何度か繰り返し、そう言えばが体力が持つかどうか分からないよねとコルトピが呟き、弱々しい動きで衣装を脱いだり着たりするのかとヒソカが笑い、それはエロいねとシズクがコメントし、あんたは考えが卑猥なんだよとマチがヒソカを見て顔をしかめ、が眠たそうに瞼を擦るという流れが起こり、即座にノブナガがヒソカからを遠ざけた。
 もちろん時間短縮のファッションショー形式が採用され、何も一度に全員の衣装を着なくてもいいんじゃないかと呟くウボォーとフィンクスの意見は、ものの見事に聞き流された。
、眠たいならそう言って良いんだからね」
「うん。まち、ありがとうございます」
「なにも無理して着ることなんてないから、眠たかったら言いな」
「はい」
 マチに肩を叩かれては微笑み、優しい言葉と態度に胸をあたたかくする。マチも触れた箇所からのあたたかいオーラを感じ、それがマチの頬を髪をくすぐる春風のようで、思わずその顔に笑みを浮かべていた。
「じゃあ、もう一度順番を言うから」
 パクノダが取り決めた順番を紙に書き記しながら話すのを、はマチから視線を移動させて聞き入る。
 マチはなんとなくの上げられたオールバックの前髪を撫でながら、聞くともなしに聞いていた。
「団長、シャル、フェイタンに私にフランクリン、とりあえずこれが前半のメンバーね」
「はい」
「それで後半がノブナガ、ヒソカ、マチ、コルトピにフィンクスにシズク」
「うん」
「身の危険や着られないと思ったら言ってちょうだい。喜んでもらいたくて選んだ服なんだし、今日はが主役のハロウィンだからね」
 聞き入っているの頬をパクノダが撫でると、くすぐったくて柔らかい感触には笑い声を漏らす。
「はい、ぱくのだ」
 気持ちの良い返事をするのだが、見た目は吸血鬼風の衣装に着られているオールバックの女性。あまり素直に返事をされても違和感と言うか、なんだか子供の相手をしているようでパクノダも笑みを浮かべてしまう。
 以前からその口調を理由に子供っぽいと思ってはいたが、これだと本当に子供のようだ。
「とりあえず、楽しみを奪って悪いんだけど先に衣装を見て、時間配分を考えましょう」
「はい。きる、たのしみ、いぱい」
 鼻歌でも歌いだしそうなは微笑ましいが、どことなくその横顔が疲れを滲ませて色が悪い気がする。パクノダはマチに目配せし、先ほどまで騒いでいたメンバーへと視線を向ける。
 に着せる衣装の最終選考に入っているメンバーは集中しているが、決まったメンバーやすでに二人はのんびりとしたものだった。食事をつまみながら会話をし、今度は何を盗ろうかと話に花を咲かせている。
 では衣装チェックと参りましょうかとパクノダが前半メンバーを呼び、衣装の提出を求める。
 特に異論なく提出されたそれを、環に加わってきたシズクも交えて女性陣だけで検分し始めた。
 ではクロロの希望衣装はと取り出されたそれは、どこからどう見ても胸を強調し腰の括れを露わにしお尻の線をくっきりと浮かび上がらせ、肩を出し腕を出し足を出している小悪魔な女性の衣装にしか見えなかった。
「どこの商売なのさ」
「うーわー、イメクラ?」
「男で好きな人間は多いって聞いたけど、団長まで……」
「……ちち、しり、ふともも」
 マチが呆れシズクが笑い、パクノダが頭を抱えるがは広げられた衣装に呆然と見入る。
 確かに魔王には悪魔が付き従っているのだろう。男性も女性も悪魔は付き従っているのだろう。しかし、しかしこれはちょっとボンキュッボーンを期待している衣装ではないのですか、とはその衣装の際どさに笑いや引いてしまうよりも、呆然とその衣装を見つめてしまう。それと同時に、自分が今まで挑戦してみなかった分野に好奇心が湧いてきた。
 間違ってもボンキュッボーンな体ではないが、こんな機会でもなければこんな奇抜な衣装は人前で着られないだろうと思うと、は落ち着きなく周りの人の顔色を窺いだす。
 クロロは早速女性陣からお説教を食らっているが、他の男性メンバーは大半が面白がっている様子。着てみなよとシャルナークが薦めてきたかと思うと、フランクリンがそれに待ったをかける。かと思えばコルトピが着てみればと顔を覗き込んできて、ノブナガがコルトピの発言を呆れた声で却下する。
 漫才のような一連のやり取りに、は好奇心を押さえ切れない半笑い顔で衣装を手に取った。
「あれ、着るのかい?」
 ヒソカが意外そうに聞いてくるが、は堪えきれない好奇心に笑みを浮かべながら頷いた。
「ちち、しり、ふともも、ない。けれど、きるない、いてないよ」
「へぇ、抵抗はないのかい」
「ぱくのだ、まち、しずく、きるかわいい、おもう」
 ヒソカの言葉にクロロを取り囲んでいる女性三人組を見て、は楽しそうに笑い声を漏らす。衣装を広げて胸に当て、似合うかなと軽く着ている自分を想像してみるが、の脳内では再生が出来なかった。
 そんな様子にヒソカは自分を止めにきたシャルナークに笑いかけ、彼が一歩引いたところでに向き直った。
「着てみなよ、君が着たいならさ」
「うん、いてくる」
「着てくるの? あ、じゃあ止めない」
 ヒソカとの会話に正気を取り戻したシャルナークは、あっさりとその手を振ってを見送った。次の衣装はこっちだからと、ついでに自分の衣装袋もきちんと手渡すちゃっかり具合に、は楽しみでまた笑う。
「ちょっと、勝手なことするんじゃないよ!」
 事態に気づいたマチが声を上げるが、は誰に邪魔されることなく着替え部屋へと行ってしまう。それをヒソカとシャルナークが見送り、女性陣を止める作業に回っていた幾人かが声を上げた。
が着るって言ってんだからいいだろ」
「よけい悪ぃ。、戻って来い!」
「好奇心は押さえられなかたか。も奇特な奴ね」
 フィンクスの言葉にノブナガが噛み付くが、フェイタンは我関せずと酒を飲む。ウボォーがもうちょっと同じ格好でいたかったなと笑うのが聞こえ、ボノレノフは同じ格好も面白かったかなとシスター衣装になったを思い返した。
「ぱくのだー! これ、きる、やりかた、ふめい!」
「今行くわ」
「オレが行こう」
「あんたは行くな」
 平然との元へいこうとするクロロを、ノブナガが頭を振りながらも全力で捕まえる。不思議そうに首をかしげてくるクロロを見ると、下心ではなく純粋に不思議がっているのが伝わってきて、ノブナガは頭痛を覚えた。
「ノブナガ、なぜ止める?」
「女の着替えに入っていくのは、マナー違反じゃねぇのかよ」
「オレが持ってきた衣装だぞ?」
「際どいの持ってきて威張るな」
 ノブナガの一言でクロロが不満そうに軽く眉をしかめる。が着てみたいと言うならいいじゃないかと言い返してくるが、ノブナガはノブナガでパク達に怒られただろうがと静かに叱る。
「ハロウィンはこう言う衣装が一般的じゃないのか?」
 心底不思議だ不満だと顔に書いた言葉に、ノブナガは深い深いため息を吐き出した。
「あれ、本気で思ってるのかな?」
「団長はいつでも本気だろ」
 コルトピの一言に、ウボォーは酒を飲みながら平然と返す。そっかと納得したコルトピが頷いたが、フランクリンは何とはなしに頭痛が迫ってきている感覚を覚えた。

「ちょっとのど渇いたな。おい、なんか飲むかー!」
 ノブナガがクロロを椅子に座らせると、近くにあった飲み物を一気に煽る。そのまま着替えているだろうと、着替えを手伝うために行ったパクノダと、いつの間にか部屋に向かったマチとシズクに声をかける。返事は四人とも飲み物を希望するということで、適当に四つ中身の入ったグラスをノブナガは部屋の前に置いた。
 そして少しの時間が経ったとき、フィンクスとシャルナークが小さな声を上げる。
 なんだと幾人かが視線を向けると、気まずそうに二人は視線をそらす。ますますなんだと視線を強くするが、フィンクスとシャルナーク二人は顔を見合わせ、心底どうしようと途方にくれた顔で引きつった笑みを浮かべた。
「団員用の罰ゲームジュース、この場からなくなってるんだけど」
 シャルナークが言い終わると同時、着替えているはずの部屋からパクノダの叫び声が聞こえてきた。
!?」
 切羽詰ったその声と続くマチの低い声、シズクの不思議そうな呟きがかすかに聞こえ、フィンクスは自分の額を叩きながら、やっちまったと小さく呟く。
「……材料は」
 低く低く地を這うようなノブナガの声に、シャルナークが冷や汗をかきながら引きつった笑顔を浮かべる。
「えーっと、団員なら軽い神経麻痺する程度なんだけど」
「材料はなに入れたね」
「あーっと、ほらよ、前にシズクが団長に間違って飲まそうとしたやつなんだけどよ」
 フェイタンの言葉にはフィンクスが答え、思い当たる前回の騒ぎを全員が思い出した。さすがのクロロも天井を仰ぐ。うっかりひと舐め舌に乗せただけでしばらく両腕の痺れが消えない程度だったが、これが常人ならばどうなるだろう。
「あれ、団長のときは常人の致死量じゃなかったっけ」
「今回は一応半分くらいにセーブしておいたんだけど、面白くて色々混ぜてるから」
 コルトピの恐ろしい言葉に、シャルナークはすぐに訂正を入れる。けれど付け加えられた言葉が恐ろしくて、ノブナガは無言で着替え部屋へと走っていった。
「あー……っと」
 その場にいる全員の視線に晒されたフィンクスは、誰と目を合わすことも出来ずに床を見つめだした。

「絞める。大丈夫、殺しはしないよ。マジ切れはご法度だからね」
 マチはパクノダやシズクと一緒にの看病に取り掛かり、男性陣に必要なものを盗ってくるよう指示を出す。クロロもこの時はマチの怒りを止めることなく、シャルナークとフィンクスの引きつった表情に冷めた視線を向けていた。
「団長、ちょっとこいつら使うよ」
「好きなだけ」
 熱で朦朧とするが着ていたクロロの選んだ服はパジャマに取って代わり、シャルナークとフィンクスは解毒剤を作れと迫られて残りの時間を消化した。
「み、みず……ぱく、の、だ」
「お水ね、飲める?」
 眠りながらも水を求めてさ迷うその手を、パクノダはしっかりと握り締める。病人用の飲み物の器をわざわざ盗ってこさせたパクノダは、その細い口をの口に差し入れた。吸う力もないのか、流し込まれる水を弱々しく嚥下するに、パクノダは原因二人への怒りを募らせた。
 のオーラは見る影もなく薄くなり、空気圧が違うことで辛うじてそこに存在していることが窺える程度。触れていてもその程度なのだから、が弱っていることは確実だった。体温計も振り切れる勢いで熱が上がり、楽しいパーティーは一変してしまった。
 それでも時折瞬きするは、パクノダや他の人間の名前を呼び、水を差し出すと薄っすらと笑ってくる。
「二人とももうすぐ解毒剤が出来るから、安心してだって」
 様子を見に行っていたシズクが、ドアを開けるなり報告したその内容に、氷を砕いていたマチもパクノダと顔を見合わせて笑みを見せる。
「ったく、世話がやけるよ」
 口ではそう言いながらも、安堵した色合いの強い穏やかなその表情に、パクノダとシズクも笑みを浮かべた。



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