初恋日和
小さいころ、父親に連れられてきたその場所はひどく不恰好な島で、退屈して歩き回っているうちには迷子になっていた。
「とーさま?」
呼んでも仕事中の父が声を返すわけはなく、人のざわめきも聞こえない行き交う足音も聞こえない、そんな人気の無い場所に迷い込んで、他人がその声に気づく確率はとても低かった。
呼べば誰かが手を差し伸べ、泣けば必ず慰めてくれた。必ずそばに誰かしらの気配があった。誰もそばにいないことが正真正銘初めてだと気づいたは、その恐ろしさになくことも出来ずにしゃがみこんでしまう。恐ろしさに、涙が浮かんでは落ちていく。
「……なにしてんだ、お前」
そんなときに声をかけてくれた人物に、恋心を抱いたとしても仕方のないことだとは弁解する。触れてきた手が暖かかったとか、大きかったとか、父とはまた違う香りがしたとか一々大事な宝物として覚えていたこと、そのすべてを今すぐ忘れたかった。
「、あれが新しいCP9長官のスパンダムだ」
名前を呼ばれたは自分のこめかみを揉みつつ、年齢が一桁にもなっていなかった自分の記憶をまず疑った。迷子の自分に手を差し伸べ、ぶっきらぼうながらも間違いなく安全に送り届けてくれた恩人の男性。その顔を思い浮かべようとするのだが、どうにも目の前の男の顔とダブってしまう。
これは記憶違いだなと思い込もうとするのだが、スパンダムの特徴的な目の周りの隈がそれを許してはくれないようで、はちょっと泣きたくなった。
恩人の目の周りにも、まるで連れて行ってもらった動物園にいた、あのヒーローのパンダみたいな模様が確かにあったのだ。何と言う屈辱。
「どうした、」
の祖父は穏やかに孫娘の顔を覗き込むが、は血の気を引かせつつうすら笑うしかない。よりによって、神聖視していて初恋でもあった憧れの男性が、エニエス・ロビー、はては政府の要人になればなるほど知らない人はいないと言う「どじっ子スパンダム」だとは誰が想像しただろう。すら想像しなかった、こんなに特徴的な顔だと言うのに。
「……いいえ、お爺様。なんでもありません」
「具合が悪ければすぐに言うんだぞ?」
「はい、お爺様」
過保護気味な祖父に微笑んで見せると、好々爺とはこれだとばかりの笑顔をの祖父は向けてくる。その暖かさにほっと安堵の息をつくが、は目の前の問題を忘れてはいなかった。
「スパンダム」
祖父の呼び声に、階段につまずいて海兵の数人の服をつかんで道連れにしつつ花壇に頭から突っ込んだスパンダムが、土を叩き落しながら背筋を伸ばした。
は初恋の人の新しい一面に眩暈を覚えた。
滞りなく祖父とスパンダムの仕事上の面会は終わり、それの付き添いをしていたもその任を解かれる。付き添いといってものお小遣い稼ぎのようなもので、祖父の孫だというだけ見た目がそこそこ見られるものだから、いかつい男性人だけの場に華を添える簡単な仕事だ。
はそれを不満に思ったことなどないが、笑うのはずいぶん神経がいる。普段から愛想笑いが嫌いなにとって、簡単ながら一番嫌な時間だといえる数時間。
スパンダムは一礼をし、にも一礼をしてその場を後にする。気づくそぶりもないが、それも当たり前だろうとは自分を納得させる。いくらスパンダムが初恋の君であったことにショックは受けていても、そのスパンダムに気づいてもらえないことはやはり悲しい。成長した自分は確実に昔より大人びていると思うが、まだまだ子供の範疇のはず。面影がないわけはないだろう。
なのに、スパンダムは気づくそぶりもなく退室して行った。
「……、どうした、怖い顔をしておるぞ」
「気のせいです、お爺様」
鼻息も荒く言葉を返すと、は自分の役目は終わったのだからとさっさと歩き始める。祖父の後方にひっそりたたずんで微笑んでいる仕事は終わったのだ、
「」
声を掛けられても聞こえない振りでは走り出す。たたたっと軽い足音を立て、ヒールをものともせずに部屋を飛び出していった。
「……まったく」
そんな孫娘を見送った祖父は、自分の秘書をひっそりと飛ぶ。呼ばれた男性は一礼をして祖父の言葉に耳を傾け、また同じように静かにその場を後にした。
どこか張り詰めていた糸が切れたように、祖父は座っていた椅子に全体重を預け、天井を見上げる。
「分かりやすい二人じゃ。のう?」
いたずらっぽく微笑むと、今までの態度が嘘だったかのように軽やかに立ち上がり、祖父は背筋を正してその場から姿を消した。
「違うわよ、本当に違うんだからね。これはあれよ、おつかいなわけよ!」
は一人ぶつぶつと言葉を呟きながら、どうにか理由をつけようと早歩きをしながら頬を染める。
違うの違うの、とずっと呟きながら駆け抜けていく上司の孫娘を見ても、使用人たちは誰も文句を言わず、注意もしない。これが彼女特有の照れ隠しだというのが分かっていて微笑ましいのだ。
「お嬢様、足元に段差がありますよ」
「ありがとう!」
「お嬢様、右にいかれると良いと思いますよ」
「ありがとう!」
「お嬢様、スパンダム様なら庭園を通って帰られるそうですよ」
「なんで私がそんなこと聞かなきゃならないの知らないわよ誰よそれもう貴方たち何言ってるのー!」
大騒ぎをしながら使用人たちの見守る中、の足は間違いなく右を曲がり庭園への道を走っていく。
モノを蹴倒さずにまぎれもなく行く先は庭園だというように、の足運びは安定していた。
耳もうなじも手も足も真っ赤に染まったを見送り、使用人たちは何事もなかったかのように仕事を再開した。
「オレ、結婚の申し込みをするに2000ベリー」
「私は突進しすぎて押し倒すに3000」
「あ、じゃあ僕は混乱して決闘を申し込むに1500」
「勝負ははったりよ。お嬢様なら猫をかぶりなおして、お友達からに5000」
「うーん、スパンダム様が大人の落ち着きを見せて何もかもまるっとすべてお断りに2500」
トトカルチョが当たり前のように繰り広げられていることを、暴走状態のは知らない。
「居たっ!」
思わず自分の口から出た言葉に、は慌てて口を閉じる。幸い声が届いていなかったらしいスパンダムは、気づいたそぶりもなく庭園の風景を眺めていた。
緑生い茂り、切りそろえられた木々に咲き乱れる季節の花々、薄っすら幸せそうに微笑んでいるように見えるスパンダムに、はほうっとため息を漏らす。
スパンダムの正装と髪の色が美しく、庭園にたたずむにはとても似合いだと思ったのだ。
彼が政府に名をとどろかすドジっ子だと言うことも忘れ、は初恋の君が間近にいる喜びに胸を震わせた。
恥ずかしくて名前を尋ねることも出来なかった。祖父や父の部下ではないことで、二度と会えないのだと泣き崩れた。自分のものにならないのだと分かると、ますます恋しくてほしくて泣き喚いたあの幼い日。
父や母に、人は簡単に誰かのものにはならないのだと聞くと、祖父の持つ権力がほしくなった。けれど静かにたしなめられ、権力にのみ固執する愚か者にならぬようにと、甘やかされるばかりだった日々から厳しい教育の日々へと周りの態度も変わっていった。
スパンダムの大人の色気を感じさせる落ち着いた黒のコート、そこに施されるきらびやかな刺繍、痛々しく顔に巻かれたベルト、花の香りがしそうな紫の波打つ髪。
それよりなにより、幼い頃のにとって大事だったのは大きな手の温かさと、彼の表情だった。不思議そうに、けれどちょっと面倒くさそうにしかめられたその顔は、の顔を見ての祖父の名前を口にしなかったのだ。権力ある者の孫娘を見る目ではなかったのだ。
「あ、あの!」
は思い切って声を上げると、スパンダムはすぐに表情を引き締め振り返る。そしての緊張しきった顔を見ると、途端にゆったりと余裕の笑みを浮かべた。
「これは。……さん、でしたかな?」
「はい、先ほどは」
言いながらはドレスの裾をつまみ、小さく腰を下げる。スパンダムもならうように会釈を返し、それで、と口を開いた。
「それでさん、私になにか?」
改めて聞かれるとどう切り出していいか分からない。それ以前に、は自分がなぜスパンダムを追いかけていたのかがわからないままだった。初恋の君だから、初対面の男性だから、珍しいマスクをつけているから、暇だから、パンダみたいな隈が気になって。
色々心の中で候補をあげてみるが、どれもスパンダムに直球で聞けるような話題ではない。
けれど目の前のスパンダムはの言葉を待っているし、徐々に不思議そうな表情へと変化しているのが見て取れた。は焦りだし、手に汗も握り始めてしまう。
ここでが使用人全員集合・お嬢様トトカルチョの内容を知っておけば、それだけはしないと心に誓えたとも言えるが、は何も知らずに混乱を極めていく。
「さん?」
ああ、スパンダムさんの声って耳に優しくて背筋がゾクゾクするな。
どこかに意識を半分持っていかれながら、はつるりと氷の上で滑るようにあっさりと言葉を口にした。
「貴方をお慕いしております」
「どうか、私を貴方の視界に入れてください」
「幼少の頃より、貴方が好きなのです」
小説の一説を口にしているような浮遊感を感じながら、は最後まで言い切った。
スパンダムの目が見開かれ、そしての心配でもするかのように目が細められていく様子をつぶさに見ながら、は自分の現在置かれている状況も忘れてスパンダムの表情に見入っていた。
「……さん、本気ですか?」
「私、スパンダムさんが好きなのです」
「……困りましたな」
スパンダムが小さくため息を吐く。そこでようやく、にも羞恥心が戻ってきた。
え、うそ、私今、今なに言った? え、あれ、もしかして今私……!?
急速に記憶が状況を洗い出そうとするが、混乱しすぎて回想すら上手くいかない。そんなの状態にも気づかず、困ったように唇をいじっているスパンダムがうつむいた顔をに向ける。その困惑しきった表情すらのハートを打ち抜くが、出てきたのは簡単な一言だった。
「気持ちは有難いですが」
その一言を呟くと、スパンダムは一礼をしての前から足を動かし、一度も振り返ることなく庭園を後にした。
残されたのは言われた一言が理解できず、硬直している。
そして、トトカルチョの結果を報告しに走り出した庭師だけだった。
「……、出てきなさい」
「いやですだめですわたしもうだめですこの世の終わりですスパンダム様スパンダム様私もう死んでしまうー!」
父の言葉にも耳を貸さず、は自分の部屋に鍵をかけて閉じこもる。
別に本日の対面までスパンダムを意識していなかったのだから、死んでしまうなどとは自身思っていない。けれど自分でも意識しないうちに積年の思いを伝えてしまい、かつお断りをされてしまったのだ。羞恥心で焼き焦げて死んでしまいそうな気にはなる。むしろいっそ誰か殺せと叫びたい衝動だけは押さえ込み、はベッドに突っ伏して泣き喚いた。
「もういやですいやですだれのお嫁にもいきません私は独身を貫きます政略結婚すら嫌ですもういやー!」
「、落ち着いて。なにがあったの?」
「お母様もこないでお父様と両想いなお母様には分かりませんもういやだいやー!!」
幼少時にはそうだったものの、大人びてきた昨今はこんな癇癪を起こさなかった娘に、父も母も困惑の表情を隠せない。けれど端々から聞こえる名前や言葉から、大まかなことは理解できた。使用人たちがこっそり教えてきた情報と照らし合わせると、思春期になっていたのだなぁと感慨深い気にすらなってくる。
「……、なにも男性はスパンダム様だけではないのよ? もっと素敵な方が」
「知りませんスパンダム様なんて私言ってないですわお母様のばかばかかばー!!」
「……かば」
「特に意味はないと思いますよ、奥様」
なにやらショックを受けている奥方に、執事はそっと修正を入れる。すぐに奥方は正気づいて声を掛け始めるが、は混乱していて手が付けられない。
使用人たちは、トトカルチョの結果として資金の分配をしていたが、執事に止められてしまった上に説教までされてしまったので、呆れ顔の執事監修の下「お嬢様ー」コールを開始した。
「お嬢様、きっとまた素敵な殿方に出会えますってー」
「そうそう、お嬢様を大切にしてくださる方が現れますよ」
「振られたからってなんですか! 恥ずかしながら、私はここ数年女性と手も握っておりません」
「お前の話は聞いていないだろうが。あー、お嬢様、そろそろお顔を見せてください。奥方様も倒れそうですよ」
「スパンダム様も、自分の一言でお嬢様がこんな風になっていると知れば、お仕事も出来なくなりますよ。好きな方の足を引っ張られるおつもりですか」
うわ、お前それ言いすぎ。
同僚が止めるより早く、トトカルチョでまるっと全てお断りされると断言した女性使用人は、きっぱりはっきりと扉の向こうに向かって声を上げた。
それと同時にぴたりと泣き声が止んでしまい、使用人一同は顔色を青白くさせて執事を振り返る。執事も渋面になって主人と奥方を見るが、二人とも困惑顔で娘の部屋を見つめていた。
そこへ、絨毯に足音を吸収されながらも一人の足音が近づいてきた。
「失礼。こちらはさんのお部屋ですかな?」
「さようですが、何か忘れ物でもされましたか?」
執事が即座に対応をするが、周囲の人間はぽかんと口を上げて話しかけてきた紳士を見つめる。
「……?」
手の甲で自分の涙を拭いながら、はベッドから顔を起こして扉を見る。なにやら静かになってしまったが、なにかあったのだろうか。
声は中まで聞こえてこないので、はただ様子を窺うことしか出来ない。
ぱくぱくと口を開けて紳士を見上げていた一人が、小さな声でその名前を呼んだ。呼ばれた紳士は、少々困り顔で笑みを浮かべるが、執事の質問に一つ頷いた。
「ええ、大事な一言を」
その言葉と表情を見て、執事は主人に一言頷いて扉をノックした。
「お嬢様」
そして一呼吸を置いて、言葉を続けた。
「スパンダム様がおいでです。開けてもよろしいですか?」
次の瞬間上がった悲鳴に、スパンダムは堪えきれずに吹き出した。
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