映画『廃市』に関する素朴な疑問

ストリーに関するもの
@時代的には、いつ頃と考えたらいいのでしょうか
   よく聞かれますが、回答は困難です。小説の話ですから、でも青年A=江口を、福永自身と想定し
   ますと東京大学を卒業したのが、1938(昭和16)年ですから、この話の1年前は、1937(昭和15)年
   になります。小説が掲載されたのは、昭和34(1959)年の夏で41歳の時の作品です。大林監督に
   よって映像化されたのは、1983(昭和58)年のことです。映画で、実際見る柳川の風景は昭和58
   年当時になりますね
A卒論を書くといって、なぜ2ヶ月近くもよそに行く必要があるんですか
   ええ、私もほんとに不思議に思いました。普通だったら、卒論くらい自分の家か、図書館ぐらいで
   書けばいいのにと思い勝です。単なるストーリー上の話かなと思っていました。これが違うんです
   ね。原作者の福永武彦が行った東京大学の卒業論文は、普通で400字詰原稿用紙で100枚が
   基本、そのため早い人は3年生の終わり頃から1年がかりで用意する人、また富裕層の出身者が
   多いため夏休みに別荘にこもり書き上げる人、どこか静かな場所に出掛けて書き上げる人など様
   々だそうです。ちなみに修士論文は150から200枚、博士論文は,300から500枚を書き上げること
   になるそうです。それもドイツ語とかフランス語とかの原語で書かなければいけないものもあるそう
   です
B登場人物は、誰が誰を愛したのでしょう
   ロマネスクの光と影と,もうひとつのテーマが御承知のようにミステリー仕立に創作されていることで
   す。そのため登場人物の関係が分かっているようでも,謎めいて不思議に考えさせられるということ
   になります。しかし、本線は郁代と直之は,結婚していますからこちらでしょう。ただし,これは個人見
   解で、見る人の考え方でいろいろ違ってくると思われます
   また,原作は、女性雑誌に最初に発表された昭和30年代を,考えると,戦前の抑圧された女性が男女
   平等の思想のもとに、誰が誰を愛してもいいという自由恋愛を,それとなく伝えた作品ということもい
   えるでしょう

C映画の中に書き上げた卒論が出てきますが
   文机の上に置いてありましたね。あれは表紙に「エドガー・アランポーにおけるケルト的崩壊感覚」
   と記してあります。福永の卒論は、”ロートレアモンの「コルドロールの歌」考”(原文フランス語)だそ
   うです。小説の中では、卒論は完成に至らななかったけれども、目鼻はついていた、とだけ記されて
   います
Dナレーションを読んでいる声は、誰なんでしょう
   大林監督自身です。また室内楽のような音楽の作曲も監督自身の手になるものです
E船舞台では、何が演じられていたのでしょうか
  
「御所桜堀川夜討」の『弁慶上使の段』です。ついでですが、実際の船舞台は、毎年5月3,4,5日の
   3日間それと7月21,22,23日の3日間行われています。場所は,白秋生家と御花の中間くらいの水路
   です
出演者に関するもの
@ヒロインは、適役だったんでしょうか?
   原作と監督の演技役割の適材配置からと思われます。
A姉さんの郁代役はお母さんと2役をやっているんでしょうか?
   13回忌の写真の中の顔がそうですね。姉役の根岸季衣さんが死んだお母さんになっていました。
B少年A=江口を好演した俳優は今どうなっているのでしょう
   青年は、福永の理想像でもありました。明るくて、清潔で透明感がありヤングイノセンスにあふれる
   大学生は、病気がちだった福永にとってのヴェニスの美少年に近いものだったに違いありません。
   大林監督もきっと適役探しに苦労したことでしょう。この作品が初出演で、名前は山下規介(やまし
   たきすけ)です。その後の履歴は、HPで名前検索すると出てきます
映像に関するもの
@江口少年が降りた台形の駅舎は、どこなんでしょう
   旧国鉄佐賀線の筑後柳河駅です。実際は柳川でなく、隣の三橋町矢ヶ部にありました。走行して
   いたのは、電車でなくキハ40というディゼルカーです。佐賀線は、昭和62年3月に廃線になり、今は
   乗車することはできません

A貝原家は?
   柳川から一町越した瀬高町にあるそうです
B安子が江口と連れだっれ行った、あの立派な墓所は本物なのでしょうか
   ほんものです。川下りの時目にする、名物赤レンガの並倉のオーナーY醤油屋さんとこのものです
C柳川の川の色は、どうしてあんなに緑色をしているんですか
   ええ、映像で見る川の色は深い緑色やちょっとにごった感じの色が多かったですね。実際は,そう
   でもありません。昭和30年の初頭は,今では天然記念物になっているベンジョコ(正式名;紅たなご)
   が群泳し、清流でしか取れない手ながえびが住むほどでした。人びとは、汲水場(キミズ)で,米をと
   ぎ,一部は飲み水にさえ使用していました。

   昭和58年ごろは,環境汚染が
進行していた時代で,窒素などの富栄養分が流入し、ああいう深緑の
   水色になっていたものと思われます。また筑後川の上流に水害防止のダムが建設され、水量を調
   節しているせいもあるようです
Dこの他の映像に出た,柳川の名所案内をお願いいたします

   立花の殿様屋敷の白なまこ壁、うなぎの蒸篭蒸の本吉屋などが目に付きましたね
映画に関する余談

@福永武彦が、どうして北原白秋にあこがれていたと分るんですか
   奥さんが、彼の死後書き残しています。「思ひ出」と「水の構図」をいつも枕頭の書にしていたそうで
   す。なお福永武彦は、幼ないときに上京してから、ただの一度も九州を訪れたこととは無かったとの
   こと。「廃市」は、彼の完全な空想の産物です。
   東大の先輩、堀辰雄に師事しました

Aビスコンティの「ヴェニスに死す」と「廃市」の単的な相似点を、教えてください
   これ、全部言うと次に映画を見る楽しみも薄れますから2点だけ、まずロマネスク調のさわり、水上
   の船舞台の照明は、ヴェニスでは、芸人たちが演じるホテルの中庭の照明の明かり、分りやいの
   は、老指揮者が古い通路を美少年を探して追いかけるシーン、柱の影とか壁のわきに顔をちょっと
   みせる部分が、「廃市」では安子と江口を駅頭で見送る姿を三郎少年が、駅舎の鉄柱の影からジー
   と見つめるシーンが相似しています。あとは、ご自身が映画をみた時に探してみてください

B「水の構図」とは,なんでしょう
    白秋最晩年の,昭和18年に出版された写真集です。愛弟子の田中善徳が、写真の撮影を担当
    し,それに白秋自ら文章を書き添えました。映画の中では,江口青年が帰省する船の上から眺め
    る水藻や水紋、水に映るひかりの加減が「水の構図」をイメージしています。
    白秋は,この翌年に54歳で亡くなりました

C大林監督が、この作品を、2週間で完成させたって、本当なんでしょうか
    う、う〜ん、難しい、柳川での,撮影日数が2週間だったようです。この当たりが誤解されて書かれ
    たものと思います。事前調査やフィルムの調整など合わせたら、結構な時間が必要だったと思わ
    れます。この緻密な作品を完成させた昭和58年,大林監督46歳油がのった盛りの作品です

D柳川のどんな方が,この映画にかかわったのでしょう
    フィルム コーディネーター担当は,田中博道(はくどう),この人は映画の中では行商の魚屋さんの
    役でも出演しています。現在は,柳川の市民劇団の脚本家で演出家をされています。またステール
    は,柳川に古くからあった写真館の高椋成和が,担当しています(現時点で,判明している分です)

E原作本には、nowhereで読んでほしい、映画の中では空想世界とか言い訳めいていませんか
    いいえ、それは柳川に対する創造者たちのやさしさだと思います。柳川を利用し、実際には柳川で
    はないというのは、そこで生活するものにとっては愉快なことではありません。けれど明治の白秋
    以来、「廃市」は消すことのできない柳川の代名詞のようなものです。確かに”廃”という漢字の持
    つイメージは、よくありません。でも、もう白秋にも福永にも寛大になりましょう。それが現代の柳川
    人に残された,心の鷹揚さではないでしょうか
   
映画のイメージを壊さない程度に,撮影現場をご紹介いたします
国鉄柳川駅跡 汲水場 殿の蔵 水天宮船舞台

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お断り;氏名の敬称は,”監督”という言葉以外略させていただきました