「東京日和」柳川映画考
 「東京日和」は、奥さんを病気で無くしてしまった写真家(竹中直人)の話です。何気ない家庭の幸福で楽しかった年月の思い出です。奥さんの名前は、太陽の陽の字からとった陽子(中山美穂)さんといいました。気まぐれで、少しわがままな性格の持ち主のイメージです。写真家とは、かなり年が離れていて、そのせいかすごくやさしく愛していました。いさかいもしますが、それは二人には、レクレーションのようなものです。都内の電車が走る線路の近くに住み、子供がいなかったので、二人で食事に出たり、観劇に行ったり、郊外に遊びに出かけたりしていました。結婚8年目の記念で、7月7日を挟み3日間の柳川(福岡県)旅行に行こうと写真家が言い出します。二人にとって柳川は、新婚旅行の思い出の場所でした---
 映画の始まりに、短いイントロがあり水谷という女性(松たか子)から、訪問を問う電話が入ります。写真家は、ひまわりと食べ物の依頼をします。この”水谷”という名前が、この映画のキーワードになるようです。部屋の向うに隣の赤い屋根が見え、ベランダに白いテーブルが置かれ、そこに柳川で撮影した陽子さんのモノクロの写真と、陽子さんが好きだったコーヒーが置かれ、タバコの煙が線香のように上がっています。椅子には太ったきじ猫が眠っています。すぐに場面は陽子さんが同じ場所で、真っ白なシーツを物干し竿に楽しそうに干すモノクロの映像に変わります。 物語は、写真集の出版打ち合わせに集まったパーティで、陽子さんがこの女性の名前を”谷口”と間違えて、ささいな痴話けんかを起こし、しらけてしまう場面から始まります。この最初の3シーンがわかると、作品の意味の重要部分を理解したといっていいようです
 映画は、予備知識もなく一見すると、ホームドラマのようにも思えます。そのため映画の感想文に1回見ればよい作品とか、前後の繋がりがわかりにくいといった評論もあるのかもしれません
 この映画は、1回見て評論を書ける程単純でやわな作品ではないような気がします。注目すべきは、作品のロケーションが東京と柳川の2ヶ所で撮影されているように、ストーリー全体が、2面仕立てに設定され、前半部分と後半部分が相互にリンケージしていて、さらにショットの場面ごとに現在と過去が同一面に混在しており、それが自然の流れのようにに進行して行く複雑な構成で製作されているため、このような批評もあるのでしょう
 2回見て「ふん、ふん」と言った程度にストーリーの流れがわかるでしょう。3回目で、監督の意図が「なる程な〜」と理解し、5回見て「あー、やっぱりそうか」と納得するような映画ではないでしょうか。それでも、まだ私には解明できない部分も残っていますが、忙しい現代人にとって、たいていは時間も余裕もありませんから、初めて鑑賞される方はもう1回、既にご覧なられた方ももう1回思い出しにでも見ることができるように、多少なりとも鑑賞の手引きにでもなればと思い書評にしてみました。反対に、この映画を心の糧にされていて、全部知っているけど胸の奥に秘蔵しており、そんなことは人には言わないでほしい、解説なんか映像を壊すだけだから止めてほしいと言う意見がありましたら、どうぞご遠慮なくお申し出下さい
 撮影場所が、2ヶ所に区分されている意味は、東京が生活の場所(現実空間)であり、柳川に旅立つ先が過去の思い出(幻想空間)と言うことなのですね。そして全体の、最初と最後の短い女性編集者との会話部分だけが、真の現実世界ということになります。東京の暮らしも、全体から見れば過去の出来事ですから、この辺りにも、監督の腐心の撮影技術がみられます。都心の中央部で撮影されているにもかかわらず、東京駅前や日本橋、新橋といった普段人ごみで混雑している場所に雑踏が見られません。人の動きやざわめきも視界を狭く映し抑えられています。まるで昭和初期の絵葉書や写真集でも見ているようなノスタルジックで不思議な錯覚を覚えます。歩道には、なつかしい風鈴売りの屋台まで行き交い、それはすべてが思い出の中の話ということを言っているのでしょう
 痴話げんかのあと、陽子さんは、3日間の家出をします。写真家はあわをくらって探します。探しあぐねて帰宅すると、玄関に”いませんよ”と書いた張り紙があり、急いでドアを開けるとそこに陽子さんと、陽子さんをおばあちゃんと呼ぶ少年がいました。このドアが、現在と過去の狭間で入った中から先は過去の思い出(幻想空間)の集成です
 東京での撮影は,写真家の当時の暮し振りや地位、写真撮影方法の裏話とか陽子さんの仕事先の人間模様などの話なんかが続きますから、ちょっとまどろしく感じる方もあるかもかもしれません、都会生活が動とするなら、これに対比する柳川旅行の静へ繋がる長いプロローグと解釈し、少し辛抱をしてみると後半の盛り上がりが、一層魅力的に感じられることでしょう
 追想の、最大の行事が柳川への旅行になります。その日は、写真家が陽子さんと結婚した因縁の記念日で、天空では織姫と牽牛がたった一夜の逢瀬を迎える日です。柳川は、天の川です。旅行には、確かに二人で出かけます。しかしそれは仮想空間の出来事で、現実には写真家だけの記憶の世界でしかありません。宿泊した思い出の部屋に案内したお女将にはそれがわかっていました。”思い出しました、あの時は確かに二人でしたね”と言って指をVの字にする場面がそれを表現しています。---結婚初夜の記憶が次つぎに甦ってきます。陽子さんは奥の縁側にすわり、写真家は真っ白なシーツの布団の上にはす向かいになり語らいます
『おれと一緒にいて楽しいかい?』(陽子さんは、なかなか答えません)
時間を置いて『そんなこと聞かないで』→『涙が、出てくる』もう、この瞬間は、陽子さんは現実空間の人ではなく、たった一夜の逢瀬をなつかしむ幻想の女性としての存在でしかありませんでした。映画では、陽子さんのうなじがズームアップされますが、それはこの世の世界とは思えないあやしい魅惑的な演出で、表現されています
 翌日、思い出の川下りを楽しみます。柳川は、二人にとってその日限りの”最後の楽園”です。『日本のベニスだね---』『前にも聞いたけど---』陽子さんは、新婚のように、かわいくはにかみ恥らいます。写真家は、反対にうれしそうにはしゃぎます。でも、陽子さんの後姿はなぜか寂しそう…
 やがて、船は河口の鄙びた村に到着します。そこは、竹中監督の心象ワールドが画く最終的夢幻空間です。現実には柳川の沖ノ端にある有明海に面する六騎(ろっきゅ)といれる平家落人の末裔が暮らす実在の場所です。”この世に生きるものの最後は、天地の狭間で運命に抗うことなく、自分の定めを受け入れる”といった平家落武者伝説が残る場所です。俯瞰して映し出される風景は、現実の景色なのに、この目にはあたかも宇宙にさまよう魂が目にするような幻覚世界として映像化されています。漁港に係留される船を繋ぐ刺し棒(ともえ柱)は、幻想世界の墓標の林立のようにも見えるでしょう。 二人は永遠の愛を記憶するように,お互いをカメラに収めます。写真家は、陽子さんを94歳のおばあさんと並ばせ撮影します。その背景にある古びた橋は、骨組みが不思議にクロスのようにも見えてきます。河口には、この世とあの世を結ぶ虹のような形の橋がかかっていました。左手の遠景にお寺の屋根が見えます。右から、リヤカーを引く夫婦が通り過ぎて行きます。この橋を渡れば彼岸です。すでに二人のタイムリミットが切れかかっていることを知らせているようです
 写真家は、髪が短いにもかかわらず、陽子さんを待たせ散髪がしたいと言い出します。陽子さんは、待ち時間に散歩にでも行くそぶりをして、床屋の小窓から、「じゃー、ちょっとね」とも「さようなら、お元気でね」とでもとれる手を振ります。これが写真家と一緒にいる最後のサインでした。写真家は、深い午睡に入ります。それが一夜の夢の出会いの最後のように
 目がさめて床屋のおじさんがいいます”どこにゆきなはったとじゃろか、ごんしゃんは〜〜?”写真家は、大慌てで今まで辿った道を引き返しますが、船着場に戻った時は、陽子さんはもう、幻想の船の中に、疲れて死んだように眠っていました---
映画は、このシーンを撮影するために作られた---小船は灰色の棺
 創造者は、時として突拍子もない発想をします。映画の会話には、時おり反対語が使用されます。初夜の対話もそうですし、編集の女性が、1枚の写真を手にとり、”いい写真ですね〜”というのに対し、写真家は、”うん、疲れて眠っているんだ”と答えます。それは陽子さんが船の中に横たわっているモノクロの写真です。何気なく見過ごすとそうも見えるかもしれません。この写真には撮影者の渾身の思いが込められていて、霊気の漂いさえ伝わってくるようです。生きているけど、実際は死んでいる---この表現を、監督はどれだけ考えたのでしょう。(最初の方の場面)に、写真家が読む本を注意して見ると北原白秋の『思ひ出』がでてきます。この本のたった一言を具象化したかったのですね
 撮影は、やっぱりここにいたのか、よかったといわんばかりに陽子さんを映し出してゆきます。注意してみると、髪の付近には旅行パンフレットと白い(ハンカチ?)がベールのようにも見え、組んだ手先には白い小さな野花がブーケのように配置されていますが、それは手には握られていません。花嫁衣裳とも死装束のようにもみえるのは二人の結婚生活が、生から死への変化を意味するのでしょう。そして先程までの二人の旅行はほんのひと時の「思ひ出」に過ぎないということを言っているのかもしれません。船にはござが敷かれ、真中には1本の黒い線が走っています。陽子さんは、左端寄りに横たわり足先だけが黒線を少しはみ出しています。黒線は、この世とあの世の境界で、足先は若くして亡くなった陽子さんの未練を表わしているのだと思います。まさに小船は、灰色をして水の上に浮かんでいます
  柳川旅行が終わり、帰京して映画は、最終段階を迎えます。冒頭の水谷という女性との会話が現実と懐旧が目まぐるしく入り組み、前後の関係がリンクしない場面も見られます。それは、写真家の記憶の世界に、錯乱が生じたでき事と理解した方がわかりやすいでしょう。見る側からするとあれ、間違えたのかなとも思える誤解が生じ、この当たりが前後の繋がりが分りにくいように感じるのかもしれません。
 水谷さんと話している最中に、陽子さんは交通事故に会います。それは古い記憶の世界です。棚には、柳川旅行から持ち帰った灰色の船の中にあった旅行パンフレットが置かれ、旅の終わりを印象付けてはいます。しかし、彼女が手にした船の中に眠る陽子さんのモノクロの写真には、それが欠落しています。パンフだけが、船から離れて写真家と帰ってきたのでした。
 いよいよ画面は、最後の核心部分に入ります。写真家は、冒頭で陽子さんがぐずった台所に立ち、そこの壁に貼られたガスの張り紙の片隅に押された管理者のゴム印を思わず発見します。その印は”谷口”の名前のスタンプが小さく押してありました。陽子さんは、台所でこのスタンプを、いつも何気なしに見ていたのです。写真家は、陽子さんが名前を間違えた理由は、単なる錯覚だった事実がわかり自責の念にかられたように、必死で涙をこらえ「無意識のうちに、ある言葉がこびりついている・・・」と言いながら、涙があふれてくるのを抑えることができませんでした。
 つまるところ、映画の全編がこのようなちょっとした”錯覚”の出来事だったということですね。〜〜やれやれ長編の解説で、読まれる方もくたびれたかと思いますが、実は映画はこれで終了するのではありません。今まで無表情勝ちだった陽子さんが、初めて本心の明るい笑顔で再登場するのが本当のエンディングです。それは、どうぞ映画の中でご鑑賞ください
 映画の中には、監督のアイデアなのでしょう。このストーリーを無言のうちに暗示する、様々なアイテムが配置されています。古い本(北原白秋の『思ひ出』、国木田独歩の『運命』)、猫、花、縫ぐるみ、空き缶、ドルメンのよう巨石、郵便物、ポスター---などです。この他に、もっと細ごましたのも出てきて何らかの意味をなしていると思われますが、それらがどの部分に使用され何の意味をなしているのか、ご覧になって自分なりに、探し考えてみるのも面白いかもしれません。『思ひ出』と『運命』は、映画そのものですね。語るに如かずです。文中、何か所か解説を入れましたが、どうぞ機会があれば探して考えてみるのも、映画鑑賞の面白い話題になるかと思われます
 また映像にもモスグリーンと赤色の2色を主体にした配色にも気配りがなされ、全編にわたる爛漫と咲くひまわりの花が配置され”死”というテ-マが、あまり感じさせられない作風にも好感がもてます。効果音に流れる、大貫妙子さんの”ひまわり”の美しい編曲も甘く切なく、ときには物悲しく、実によくこの映画を盛り上げています

 出演キャスト
  陽子(妻)=中山美穂
  島津巳喜男(写真家)=竹中直人
  編集社の女性=松たか子
  御花の女将=藤村志保
  女医=石川真希
  旅行会社の社長=三浦友和
  スナックのママ=中島みゆき
  散髪屋のおじさん=村上冬樹
  厳木駅々長=荒木経惟

 作品は,ビデオやDVDで見ることができます

水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である(うら)

柳川映画「東京日和」に関する詳細情報&質問

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