柳川テレビドラマ「飛ばまし 今」の思ひ出(柳川の三丁目の夕日時代)

 テレビドラマ「飛ばまし、今」を見た日は、ちょうど福岡にいた。福岡は、西鉄電車が柳川へ通じる始発の地になる。その日は、3月の期変わりの 最後の31日だった。私たちは、舞鶴公園の満開の桜の中で弁当持ち出しをして、春の訪れを堪能した。 私はすっかり酔いが回りいい気分になり、城の崩れかけた石垣の望楼に登って、下界を見下ろした。一面の桜花が、雲海のように広がり、わずかな枝の隙間から覗くと、人々がその下で楽しそうに花見に興じていた。私には、天上にいるような逆転世界に見えた。
 この晩は、テレビドラマ「飛ばまし、今」の再放映がある日だった。花見の席では、集まった親族達は、”みんなで見ようね〜”と言ってはくれたが、案の定ドラ マが始まり3分したら、手料理と花見酒の充足感で、全員テレビの前に白河夜船の深い夢の世界に入ってしまった。
 私は、その横で故郷柳川のドラマをみた。そこには、人の世の移ろいにつれて、変貌してゆく風景があった。過去の絆を捨てず、今に生きる人たちの営みも、みることができた。テレビドラマの中みを、簡単に紹介すると、写真修行に東京に出かけた老舗写真館のお嬢さんが、夢破れそうになり、ふるさとに帰ると、そこには昔のように懐かしい人々と幼馴染がいて、彼らに勇気付けられ再度東京に戻ってゆくと言う内容---、WEBページもNHK福岡放送の方にあるので、詳しく知りたい方は、そちらでご覧下さい。

 補追すると「飛ばまし、今」は、ご存知の通り題名からして、いわば柳川映像ドラマの3部作があるとすれば、その最後の第三部ともいえるようなも ので
  第1作の「廃市」が、没落したとはいえ、柳川の旧家のお嬢さんと東京から来た大学生、
  第2作の「東京日和」が、御花を中心に沖の端の六騎と東京から来た夫婦、
  第3作は、主場面が、三柱神社周辺でいわば柳川の下町、地元の幼な馴染の男女が主人公
 前2作が、ともに柳川では、城内(しろうち)地区と言われる幕藩時代の武家社会が背景に使用されて、ちょっとばかり上品な演出だった。3作目で、下町の庶民社会に おりてきたというところ。
  そういう私も、いい加減に花見の酒で、酔いが回っていた。船頭の弟子が、深みに棹を取られて、どんこ船から 川の中に、転落した場面を見たとたん、自分自身の頭の中が瞬間的に、水の中に落込んだような感覚に切り換わってしまった。 私が、”堀の水の中で泳いどるごたる” 奇妙な感覚にとらわれた。
 テレビの場面が、ドラマなのか古い記憶なのか、ごちゃまぜになり複合して進行して行った。子供時代の記憶が、思い出の本のページをめくるように、次々によみがえっては消えていった。
 せっかく、「飛ばまし 今」を見たおかげで、古い柳川の思ひ出を、よびさましてくれたので、記憶の影が少しでも途切れないうちに 文章化しておきたい。もう相当な記憶だから、間違いもあるだろう。識者のご指摘をお待ちしたい
【主人公の実家・冨重写真館周辺のこと】
 ドラマの始めに、写真館のひさしと看板がちょこっと見えた。この古い洋館は、その一部を見れば、地元の人は、どこのうちかたいがい分かる。西鉄柳川駅から 市内に向かって国道をゆくと、いやおう無しに運河に似た川下りコースの最初のイベント風景にでくわす。この川が、柳川を外部と隔てる 役目をしていた人工の川だ。そこにかかるコンクリの橋を”国道橋(こくどーばし)と呼んだ。橋を渡り、右に折れると、このお家がある。 熊本に今も残る日本写真史にその名前を残す”冨重写真所”の創業者の出自が、柳川なので、こちらもその関係があるのだろう。
 子供の頃の思い出(これ以後に記す話は、特に記載が無いときは、私の小学に上がる前から小学生の頃のことだと思ってもらいたい。大体 X0年も前の話だ)冨重写真館の前を通るときは、筑邦銀行の横の駐車場を曲がった。そこの隅に楠の巨木があって、 春先から初夏頃に楠の若葉が枝いっぱいに広がった。夏になると日陰を作り、影の中に入って木を見上げると、枝の間から、木くずが落下して 目に入ったりしたが、枝の間から見える青空が何とも言えず清々しく、木の神がいるのではないかとも思えたりもした。
 写真館の前の道を、先に進むと今度は三柱神社のある高畑公園に行く近道になる木橋があった。そこの手前だったと思う。川にどんこ舟を4,5 艙も横に並べて横木で固定し、その上に住居を建てた水上家屋があった。子供の目にも、今なら市営住宅の1軒分くらいもある立派なもので、 子供のいる家族が暮らしていた。岸の道路沿いから、住居へ入るには木の渡しが取り付けてあり、川に落ちないように手摺代用の綱が付けてあった。 子供たちは、こっそりこの渡しに乗ると、渡しもゆらゆら揺れ、家屋も静かに揺れて川の上に浮かんでいることが分かった。
 水上家屋の横道には、しだれ柳が茂り夏の間は、清涼の風景をかもし出していた。水上の家屋は、国道橋から眺めるとのどかな風物詩になり、子供も大人にとっても、格好の絵の題材になった。学校の絵の時間には、外に出かけてもよかったので、この周辺に私たちは出かけた。 水上家屋を描いた水彩画は、大人の絵も子供の絵でさえ、フランスの印象派の絵画を連想するようなできばえになった。 今でも、柳川のどこかに、水上家屋を描いた風景画は、きっと残されているだろう。
 この家は、私が中学生の頃、台風の被害で船が冠水して水没した後、取り壊されたように思う
【国道橋と観光川下りの始まり】
 私の小学の母校は、藤吉小学校だ。小学校に上がったころは、まだ交通量は、ほとんど無いといってよい。車なんか時折りしか走らなかった。 そのため通学路は、西鉄電車の踏切りを渡って、立花通りの大通りを直進して、国道橋の手前で左折して、今度は川沿いに沿った今で言う川下り のメインコースに沿って学校に行っていた。交通量が増加して、危険防止の裏道ができたのは、かなり後の小学4年生のときだった。
 主人公の仕事は、観光川下りの船頭兼案内人だが、当然そのころは、この職種は無い。それは、私が、小学の2年か3年かそれくらいの頃の出来事だ。
 昼頃のことだから、土曜日だったのだろう。学校がひけて私は、いつものように川沿いを下校していた。何の気なしに、国道橋のまんなか辺に立って川を眺めていた。そこから川向こう(冨重写真館の対岸になる方向)を見下ろすと、不思議な光景が見えた。大人数の人が集まり、川岸ににどんこ舟が、5,6艘つながれていた。船の上で、はっぴを着た大人と、白い装束の神官の人が数人集まりー神妙 なーきっと子供の目にもそう見えたのだろう、 行事が執り行われていた。
 船の四方に注連縄(しめ縄)が、張り巡らされ、その細綱に御幣と榊がぶら下がっていた。見ていると神主さんが、しきりに祝詞を唱え、周囲の人たちは、下を向いていた。私は、その行事が進行する様子を、何があっているのかも分からず、じっと見ていた。
 のちに、その行事は、は柳川観光川下りの最初の祈願祭だということがわかった
【最初頃の川下りの話】
 こんな話は、もうどなたも忘れてしまっているだろう。私は、通学路の横が、川下りの主コースになっていたからかもしれない。下校時は、川下りの風景を横目で見ながら、家路についていたのだから、最初の頃の川下りを、よく覚えている。今のように業者がたくさんあることも無く、始発地は、三柱神社の欄干橋を渡った松月楼の下が乗り場だった。
 そこから、水路伝いに市内をのんびり巡回していくのだが、始めから、そんなわけには行かなかった。テレビの中で、主人公が、すいすいと棹をこいで、遠来のお客に笑顔で柳川を紹介する場面があったとき、また、私の脳は、古い記憶に逆転してしまった。あの場面は、国道橋(YAHOO地図によると柳川橋と記載)から、藤吉の水門までのコースで、見晴らしが開け広い水路のような一番の見せ場になる場所だ。
 初期の川下りには、ここに大問題が起きていた。夏の頃はよいのだが、秋から冬にかけての渇水期は、水位が下がり、もう船は進むことができない。昭和26年と昭和28年の梅雨に発生した筑後川支流系の氾濫により、瀬高町から柳川にかけては、広範囲に大水害に見舞われた。このとき上流から流れ出した土砂が、この水路に大量に溜まって、川の両岸に山のように積もっていた。
 それがどれ位の量かというと、冬場の渇水期には、私たち小さな子供が、岸から向こう側へぴょ〜んと飛び跳ねて渡ることができたのである。きっと、その間隔は多分1m以下になっていたのだろう。この狭隘な水路を、どんこ船は進んでいたので、たまったものではない。おまけに、冬場にはこの土砂に、こもやそのほか雑草の枯れ草が、うっそうと生い茂り、川下りを楽しむ風情どころではなかった。
 土砂を取り除こうという段になって、またまた大きな問題が、立ちはだかった。実は、この水路は、柳川にあるものと思われているだろう。ところが、この川には、流れの中央に見えない行政の境界線が走っていて、半分から手前が三橋町の管轄、川の半分向こう側が柳川市の管轄に分離されていた。そのため土木工事を行おうにも、どちらでその費用を持つのか繰り返しの議論があったようで、土砂除去の問題の解決には、何年かの経過があったと記憶している。
 土砂の除去が始まっても町の中の狭い川だから、海を浚渫するような大型船は、稼動することができない。かわいい小型の浚渫機材で、何ヶ月も掛けて少しずつ徐々に取り除かれていった。それは、中学生の頃だったったようだ。
 土砂が、完全に取り除かれて、今のように静謐な川下りを楽しむことができるようになった影には、こんな思ひ出が、隠されている…
【おにぎえとどろつくどんのこと】
  ”おにぎえ”とは、”大賑わい”のなまった方言だ。柳川の大賑わいは、春と秋の2回盛大ににぎわった。春の行事は、たぶん違う言葉で言ったと思うが、今は思い出せない。「飛ばまし、今」のテレビドラマの中でも、夏が過ぎ、やがて秋が訪れたとき、”おにぎえ”が始まり、”どろつくどん”の祭りが出た。
 私たちの子供の頃は、もちろんテレビは無い時代だ。ラジオだって、まだ無い家庭があった。お祭りは、その頃の人々にとっては、大変な娯楽だった。”おにぎえ”の時の三柱神社が、どんなものだったかをここで書いても、今はたぶん”その話は嘘でしょ!”と、言われるかもしれないが、本当の話だ。神社の本殿に通じる両側左右の参道には、ぎっしりと出店のテントが並んだ。入り口の太鼓橋の高めから眺めるその様子は、東京の浅草の仲見世の写真を連想すると、ほとんど同じくらいの混雑と思ってもらってよい。それくらいの出店が、店を連ねた。
 人々の参詣も尋常な混雑ではなかった。夕方仕事が引けた時刻頃から、人出は最高潮に達した。太鼓橋の上もぎっしり、出店のテントに挟まれた両側の通りは、近郊近在から集まった人ごみでぎゅーぎゅー詰めに埋めつくされた。分かりやすく言うなら、お正月の皇居の一般参賀を、もすこし詰め込んだものとでも表現したらよいのかもしれない。柳川一帯にこんなに人がいるのかといぶかしむ位、それ程の人出で賑わった。
 ”どろつくどん”は、このおにぎえの時に柳川を練り歩く山車(だし)のことだ。テレビドラマでは、静止した状態の舞台が演出してあった。今はそうなのだろう。その頃の”どろつくどん”の舞台は、実際は動く山車で、京都の夏の祇園祭のように、てっぺんに山鉾の尖塔が付いていた。山車だから、その下に木の車が付いていて、これを子供や若衆が引っ張り、立花通りを国道橋から西鉄の踏切りの間を、練り歩いた。(外の地区にも、あったらしいが自分はよその山車を見ていない)
 舞台では、動物や奇怪な妖怪などの姿が出ていた。この動物達は、山車の上に舞台が設営してあり、笛、鉦や太鼓の合わせて、ひょうきんにおどけたり、時には威嚇したりした。ドラマの中には、この表情が、実によく表現されていた。”どろつくどん”の意味も、この表音からきていると推測される。
 その様子は、私の子供時代の記憶にも、都会の賑やかなお祭りを髣髴させる程の華やかでドラマチックだった。私が大人になって、黒沢監督のさむらいの戦闘場面の映画を見た時、思わず”どろつくどん”がよみがえったことがある。旗指物をした侍たちが、馬に乗り土ぼこりを巻き上げて、怒涛のように押し寄せる場面だった。そのシーンが、子供の時、電車の踏切辺から見て、立花通りの向こうで賑わっていた祭りの記憶につながった。
 この盛大な”どろつくどん”のお祭りも、昭和30年代初頭に姿を消した。理由は、電線が町中の道路に縦横に張り巡らされ、尖塔が邪魔になり、山車を引くことができなくなったことに加え、交通事情が、市内を山車で練り歩くほどのんびりした時代ではなくなってきたからだと思われる。
 ”どろつくどん”お祭りは、日田市の夏の”おぎおん”祭に、その類似の名残りを見ることができる
【海苔(のり)養殖の思い出】
 祭りのあと、私はうとうとしてちょっと眠ったようだ。記憶が途切れてない。目が覚めると、ちょうど有明海の干潟のうつくしい夕日のシーンが出ていた。場面は、海苔の養殖の話に変わった。最新鋭ののり摘み機を搭載した海苔舟が出た時は、驚いた。海苔は、手で摘むものと錯覚していた。今ではそんなことを、するはずもない道理だ。映像で見る表面の有明海は、今も昔と同じような自然の姿を留めている。
 現実には、ニュース等で報道されているとおり、水質汚濁が進行し、人工構築物ができ海流の循環を妨げたり、水産資源の枯渇もいわれてから久しく、周辺域の住民の方たちの生活環境は、確実によい方向に進化しているとは思えない。
 ドラマの船頭の家庭は、こうした柳川の海苔事業で生計を立てる家の設定だった。昔ながらの伝統を継承せざるをえない父親、事業を継承し改革を望む主人公の弟の次男、この当たりに、柳川が現実に抱える社会問題が、表現されていた。ここのおやじは、隅っこにいて、無口で目立たず、寂しさを漂わせる人物として演出されていた。
 けれど、このお父さんにも、若い頃に金回りがよくて、華やかな過去があった。それは、私が中学に上がったばかりの頃だ。私は、親戚に郵便局に勤める人がいて、冬場の繁忙期に、郵便局のアルバイトに呼ばれていた。
 だから、この話はよく覚えている。私のその頃のバイトの日給は、3日働らいても1000円を越えなかった。一日頑張っても320円しか貰えず、4日目で、やっと1000円越えた時のうれしかったこと、そんな時代のことだ。ところが、柳川には、大人の仕事で一日働けば、日給を5000円も1万円も出すという仕事があった。
 それは、真冬の12月から1月にかけて有明海に船で出て、海苔摘みをするというものだった。それも真夜中から夜明けという厳しい作業だ。海苔摘みに人手が足らず、破格の高額報酬で、作業員を募集した。近所の元気な人たちは、男も女も有明海の海苔摘みの仕事に出かけた。テレビの中に、海苔網を、巻揚機でロールのように巻き上げる場面があった。
 その頃の有明海には、海面全体を覆うくらい一面に海苔ひびが立てられた。そこに海苔網を広げ海苔が付着したら、全部手作業でつんでいた。海草の海苔は、寒中によく成長するようで、厳寒の夜は、一晩で、網がしなるばかりに付着したと言うことだ。そんな厳しい仕事だから、人手が足らず、特別高額の報償で人を募り、作業をした。
 海苔はとってもとっても採れ続けて、柳川から大牟田にかけての有明海の沿岸には、北海道や東北のニシン御殿、さんま御殿にもひけをとらない”海苔御殿”があちこちに建築された。
 次男が激しくお父さんを叱責した場面では、きっと哀愁のにじんだこの父親の脳裏には、その頃の思い出がしていたことだろう。
 当時、有明海で大量に採取された有明海苔は、九州内では消費できず、関東方面に移出されてもいた。すでに東京湾では、水質の汚染で、海苔の採取が激減していた。有明海の海苔は、著名な浅草海苔に変化して、東京名物になっていた
 
 あえて書くとするなら、限られた時間と、製作費用の中で、地方発信のドラマとしては、盛りだくさんの内容を、よく集約して編集されていたと思う。風景や祭りの撮影にも映像美があり、柳川出身でない関係者の製作作品にしては、ストーリーにも勘違いやうそが無くよかった。
 少し不足していた部分として、いろんな意味の解説が、よく行き届いていなかったのではないだろうか。一例を挙げると、本来なら、タイトルは、”飛ばまし、今一度”とすべきところを、なぜ”飛ばまし、今”で切ったのか。3月31日に再放映した理由とか、主人公は、なぜカメラを持って柳川の風景を、写したのか。 簡単な解説を、新聞記事などに記載しておいたら、もっと見る機会が増えていただろう。なにしろ、現代人は忙しく、なかなか考えない。
(そんな人なら、見ないでもよい、という時代ではないような気がする)
 競合作品も目白押しに、次つぎに出てくる。簡単なやさしさで、来春の再々放映の可能性もあるものと期待している。出演者の誰でもよいから、過去に名前が知れ、今忘れられた俳優さんの一人でも、加わっていれば、ひょっとしてタイトル通り発展して、もっと締まった作品になったかもしれない---(未完)
 


豊饒の海、有明海 懐かしいだけの思ひ出
昭和2,30年代の有明海の潮干狩り 潮干狩りの後の記念撮影
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30.AUG.2007
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