火宅の人・檀一雄と柳川 
 
今年(2006)4月の末、思い切って古い蔵書の一部を処分した。 安い本でも、自分で買った本を廃棄するのは以前は勇気がいった。今回は、そういう事もなくあっさり処分した感じだった。 長い間机の横に積読状態で倒れそうになったり、もう何10年もの間ダンボールの中に入れっぱなしで、きっと再び読むこともないだろう、 しみったれたけちの見本みたいに、後生大事に保存しておいたものである
 結構な量の中に、気になるわけでもないが、1冊だけ なぜかもう一度読むかもしれないと手元に残して外から離したものがあった。もう長年の時間の経過で、表紙には自然由来のシミが出だし、 中のページは黄ばみが発生するくらい古いもので、いつどこの古本屋で買ったのかさえわからない。表紙には、”風浪の旅 檀一雄” と書いてある本だった
 棄てられないのは訳があった。私の遠い記憶の脳みその奥のどっかに、本 の中に故郷柳川の話が記してあることがひっかかって、保存されていたからである。”風浪”という言葉も、檀文学にご 理解のある方なら、放浪と放蕩の人といわれるほどだから、よく考えついたタイトルだと思われるかもしれない。実は、余計な話になっ てしまうが、柳川の近辺では、ごく普段に接する神社の名前で、大川市にもあるが、三橋町にもあり、”おふろさん”という名前で親し まれている。よくぞこの詩情味あふれるタイトルを、檀にとってはあっさり転用できたのでないかと想像される

 それから何日か経過した5月の16日、私は義父の7回忌で連れ合いの実家に帰省した。することもなしに、卓袱台の上に置いてあった 読売新聞の福岡版を手にとって眺めていた。するとこれって偶然とでも言うのか、不思議な記事が私の目に飛び込んできた。”天然の旅 情/人間・檀一雄”というコラムが、そこにあった。読んでみると、火宅の人の執筆にまつわる生存者の聞き書きを綴ったもので、5回連 載で執筆され、その最後の部分を見たようで(終わり=臼山某)と、記者の名前で結んであった。つまり連載記事の最終回を、偶然に手 に取り読んだというわけである
 行事が終わり自宅に帰ると、大急ぎで図書館にむかい前部の4回分を、コピーに取らせても らい読了した。今年は、檀一雄没後30年にあたり、能古島でこの21日花逢忌(かほうき)の記念の行事があることや人物紹介をかねた 記事だった。私にとっては檀文学は、相当にマニアックな部類の文学少年や少女が読む類の本だったと思っている。今では(過去でも) 若い人のどんな人が無頼派と言われるこの檀の本を読むだろう。
 編集長から、檀一雄のことを書きなさいよと指示されただろう 記者さんも、職業とはいえ驚いたに違いない。5回のコラムの中には、「火宅の人」の話はあるが、著作の内容にまでは言及されていない。 病気になった次男に、檀が畳の上で水泳の真似をするということが書かれていて、これは映画の中の重要部分で、観た人なら心に残って いるところだ。もちろん檀の作品は数多くあり私だって、その中の何作品を読んだといえるだろう。コラムは、檀にまつわる聞き書き 調査に終始し、結論的には「火宅の人」の著作が、大ヒットしその印税で残された家族が安心して暮らすことができるといって、喜ん であの世に旅立っていったというようなことで結んであった

 で、話を最初に戻そう。何でこんなことを書こ うかと思ったかというと、この新聞のコラムには、柳川のことがちょこっと出てくる。”御花”で食事をした話もあり、そこの鳥瞰写 真が大きく扱われていた。柳川と檀の係わり合いが、どういうものだったかということ知ろうと思うと、この”風浪の旅”が意外なほ ど役に立つということである。内容的にはあちこちの執筆依頼でしたためたり、書いておいたが利用しなかったものだとか、散文的な 短編の寄せ集めで、檀も思わず気を抜いて文芸作品と は違った本音を言ったり、ジョークめかした話だとか、子供時代の思い出みたいなことを気さくに書いている。
檀一雄は、 檀ふみのお父さんだってね〜、え、柳川にもいたらしいですよ、で〜、それから言葉に詰まった時にでも利用する価値がありそうであ る
では、その中から柳川の部分を、抽出してみよう。
白秋生家の話;檀のおじいさんのうちと白秋の 酒屋は隣同士で、沖端の大火の後、北原酒場の酒倉の焼け跡の敷地を1町歩(ヘクタール)も貸金のカタに接収してしまった。おじい さんは、沖端劇場という寄席(会社)を経営しており、活動大写真(映画)や芝居や新派の演劇などが上演されていた。
子供時代の話;檀の父親は、中学の教員をしていた。数えで5歳くらいまで東京の下谷で暮し、5から6歳まで福岡の鳥飼、7から 9歳まで久留米市の野中、その後10から16歳まで栃木県の足利と親の転勤のたびに、あちこち移動していた。10歳の時に母親の家出によ り3人の妹は、白秋生家の隣の祖父母の家に預けられていた。お正月が近づくと、檀自身も父親と一緒によく柳川に帰省していた。
帰省の交通の話;関東から鉄道で瀬高駅まできて、”軽便鉄道”というものに乗り換え柳川(正確には三橋)の三柱神社の前の柳川駅で降りていた。ここで言う軽便鉄道とは、一体なんでしょう。ほとんどの人は、ひょっとしてそれって国鉄佐賀線のことと思われるかもしれない、ブー、違います。駅の場所も違いますね。この鉄道は、もう忘れられてしまっている現在の国道443号線を戦前に走行していたもので、私の母の話によると、それはチンチン電車のような、かわいい小さな木製の電車だったらしい。電車の残骸が、昭和30年代中頃まで西鉄柳川駅の、車庫の西側に放置されていた。そこで降りると、今度はお抱え運転手のような人力車曳きがきて、沖端まで送迎していた。
お正月遊びの話;新正月が、終わる頃になると北風が強くなり、「コウモリ」と呼んだ凧揚げ合戦をした。凧糸に”チャン”というガラスの粉をご飯粒で練り合わせたものを糸に塗り、沖端の川を挟んで糸切り合戦に興じた。(え〜、これは話から、大正10年以降のことです)当時、柳川の町の子は、長崎のハタ合戦のようなことをやっていたのだ。(多分画像的には、”東京日和”で、陽子が橋の上から寂しげに眺めたあの川のことなのかもしれない)女の子は、ムクロジ(木の実)に穴をあけ、羽をつけて羽子板遊びに熱中した。足利に帰る頃になると、田圃では青竹と藁で作ったホンゲンギョ(旧正月7日だったか?)に火をつけ、焚き火を盛大に燃やし、うっぷんを晴らした。
ま、こんなことが書いてあり、要するに檀家は、元来ハイソな生活環境だったということで、放浪と放蕩もこうした下支えに依拠していたようなものなのだ。ありきたりの平凡人が、類似行動を起こしたところで所詮無理な話というこ とである。映画「火宅の人」で主要テ―マ部分をなす、松阪慶子演じる行きずりの女性トクコは、”風浪の旅”の中から巻頭を飾る―” 小値賀(おじか=五島列島の地名)の女”という短編小説を、切抜きしたものである

 檀一雄は、1976(昭和51) 年1月2日、九大病院で悪性肺腫瘍により63歳の生涯を終えた。 辞世の句は

  モガリ笛
     幾夜もがらせ
        花二逢はん


もがり笛とは、風が電線などにふれ てヒューヒュー鳴ることを、言うそうである。解釈は、若い時代は素直に”能古島に吹く寒風は、ひゅーひゅーと木々の間を、吹き抜 けていく。幾晩この風が吹いたら、春の花に逢えるのだろう”というように純粋に受け止めていた。年を食らってからはもう二つの 意味があるのではないかと思っている。”二”という漢数字に指定してあるところも、実に意味深なのだ。もう一つが、女性との夜の房 事のことで、花二とは、奥さんとほかに愛した女性のこと?もう一つが、腫瘍(ガン)の痛みで、苦しんでいる、この悲鳴を、何夜過ご したら、前妻やほかの女性に会うことができるのだろう---という解釈なのだが?
花逢忌とは、この句からきたようである。 句を刻んだ石碑が、能古島の海が見える場所に、糸島郡西の浦・小田の海辺を向いて立っている

 最後になるが、 「 火宅の人」を、読むと実際の檀がそうだったのかと誤解もされようが、はたしてそれが事実だったとしても、文筆家の誇大妄想的表現も あるだろうし、書いた本が売れるためには、読者へのサービスとして興味本位のオーバートークもあったものと思ったがよいだろう。 何よりも小説なのだから---。現実は、もっとすごかったのかもしれないけれど?それは戦後の、まだ男女同権の思想が固定しない時期 の小説だし、現今の女性上位?の時代、女性が子供を生む権利さえ放棄しかねないご時世には、受け入れられないものではないだろうか。
 この好対象例として最近見た映画に、T監督の”連弾”が、思い出される。主人公は、親から受け継いだ財産で宮様が暮らすような豪邸 に住んではいるものの、子供とキャッチボールもできない情けなし、家庭にいて炊事、洗濯、掃除を主婦のようにこなしている、妻は、 バリバリのキャリアウーマンで社会に出て浮気ばかりしている---、まさかT監督は、「火宅の人」の歴史的比較映画として、この作品を 製作したのではないのかと、思わず心の中で苦笑してしまった

檀一雄;1912(明冶45)年山梨県に生まれる、東京大学経済学部卒業、 佐藤春夫に師事
風浪の旅;1974(昭和49)年初版発行、山と渓谷社
火宅の人;1975(昭和50年)完成、1986( 昭和61年)映画化

【個人的な見解による記述です】

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