15 矢筈・矢作 地名分析から古代の謎がすべて見えた!
付録・鹿島と杵島
青森県
青森市 矢作 (やはぎ) 近くに矢田前地名あり
青森市大字八重田
字矢作 (やさく) 情報なし(*かわかつ発見)
青森市大字八ツ役 字矢作. (やはぎ) 情報なし(*かわかつ発見)
弘前市糠坪 矢作(やはぎ)
「ぬかつぼ」はおそらく鉱物地名。糠=砂鉄・砂金
岩手県
一関市川崎町薄衣 矢作舘(やはぎだて)矢作前(やはぎまえ)
薄衣地名は中世葛西氏の居城跡。川崎は古代から北上川水系の砂鉄川と千厩川水運で発展した町。
http://ja-iwate.or.jp/camera/old/0012/index.html
大船渡市 矢作
(やはぎ) 矢作川 (やはぎがわ)
気仙川支川。2級河川。延長17.3km。陸前高田市北方、住田町との境界付近の山地の沢水を集め南流、板橋山地内付近からほぼ東流し気仙川へ合流。「矢作」の地名は坂上田村麻呂が東征のとき、この地で矢を作らせたことによるという伝説がある。
http://www.infoaomori.ne.jp/~teruis22/iwate%20no%20kawa/iwate%20no%20kawa.htm
陸前高田市 矢作町(やはぎちょう)
矢作川(やはぎがわ)
岩手県陸前高田市越戸内の「越戸内経塚」の説明文中には,「渥美産陶器壷が出土している」という表記があり,渥美半島の田原市越戸と,何らかの関連性があるのかも
http://sapporo.cool.ne.jp/kossy4u/author/zatsu_koshito.html
* 越戸内(おっとうち)地名は瀬戸内から作られたか?
瀬戸内海に関連した海の民による銘々だろうか?
宮城県
登米市石越町南郷 矢作
(やはぎ) 情報なし
柴田郡大河原町 矢作 (やさく)
情報なし
山形県
新庄市 旧矢作家住宅(きゅうやはぎけじゅうたく)
民話の里 古民家の名称
福島県
郡山市片平町 矢作(やはぎ)矢作山(やはぎやま)
郡山市には熱海、安積地名が山のようにある。
http://map.yahoo.co.jp/address?ac=07203a&type=static
茨城県
土浦市 矢作やはぎ)
隣接する日立に日鉱が、つくばに花崗岩集積地がある。砂鉄。
坂東市 矢作(やはぎ)下矢作(しもやはぎ)上矢作(かみやはぎ)
中矢作 (なかやはぎ)矢作新田(やはぎしんでん)
近くに一言主神社。利根川沿いの地名。
伊豆〜神奈川〜房総は大きく「海上郡」ととらえてさしつかえない。安積と隼人。のちに多氏。
千葉県 千葉市中央区 矢作町(やはぎちょう)
香取市 本矢作(もとやはぎ)本矢作新田(もとやはぎしんでん)
房総半島は石材がないと言われる。かわりに矢造部、玉造部、服部部、鍛冶部、土師部などの加工業の部民が多かった。印波国造は多氏。「いんば」は「いんなみ」で「いなみ」か。銚子周辺は古くから走水の海に突出した中継地で犬吠埼などの隼人地名やヤマトタケルと弟橘姫伝承がある。
もっとも重要なのは霞ヶ浦という巨大な水路が武蔵丘陵にまで入り込むこと。今は東京に組み込まれた葛飾地域の河川も利根川水系と言って良い。だから海人系神社の宝庫。
http://www.fukudaks.com/a/gokou/g-syuu.htm
神奈川県
小田原市 矢作
(やはぎ)
三浦市 矢作 (やはぎ)
神奈川〜伊豆の海岸線地帯を象徴する言葉に「渡島文化」がある。はるか対面する小笠原諸島が漁業中継基地となるためであろう。房総・鹿島などと同じく古代から海人文化が入り込んでいる西部の足柄地域特に金目川周辺は坂田金時で有名な鍛冶屋地域。東部は川崎製鉄で知られる鉄鋼産業が発達。主に中世武士にとっては重要な武器調達地となり争いの舞台ともなる。いわゆる坂東とはここから始まる。ヤジリに必要不可欠な鉄の時代から特に発展する。
新潟県
西蒲原郡弥彦村 矢作 (やはぎ)
弥彦神社。尾張氏。アメノホアカリ。隼人は愛知から糸魚川〜静岡構造線をぬけて入ったか?太平洋側で安曇と出会って情報を得、日本海へも進出。先導した尾張氏の要求が強くあったと思える。
燕市 吉田矢作(よしだやはぎ)
燕と言えば窯業。めがね。職人文化と日本海文化。古志は内陸への入り口である。良港があったからだろう。新潟は今でも大陸からの密航者がめざす地域。
石川県
石川郡野々市町 矢作(やはぎ)下矢作(しもやはぎ)上矢作(かみやはぎ)矢作橋(やはぎばし)
縄文の遺跡・真脇遺跡が有名な石川県も古くは古志の範疇と言える。古くから大陸からの渡来と安曇の進入があった。野々市町は手取川の流域にあり、背後に白山、北部に金沢市が隣接する扇状地にある。渡来がはいったために石川県では大陸の技術を受け継ぐ職能民が多かった。御経塚古墳をはじめとする古墳群の多くはここが古から渡来と海人文化を受け入れたことを教えている。石川から若狭はイルカの渡来地である。ここでも骨が多く出る。応神と気比大神の名前交換に神がみけつとして送ったイルカである。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~mj-home/qc33-kg-okyozuka.htm
山梨県西
八代郡市川三郷町 矢作(やはぎ)
笛吹市一宮町 上矢作(かみやはぎ)下矢作(しもやはぎ)
笛吹地名が示すようにいずれも矢作里神楽が行われる。里神楽伝承地を追うとほぼ矢作地名とも重なってくる。里神楽のルーツは九州大分〜高千穂〜熊本方面となる。南九州。
長野県
松本市 矢作(やさく)
下伊那郡根羽村 矢作川 (やはぎかわ)
あきらかに愛知の矢作川をさかのぼった尾張氏と隼人文化が伝わった場所。松本には有明山があり、高千穂の手力男命や思惟金を祭る有明神社がある。
根羽村は阿久遺跡、臥竜遺跡、天竜峡。伊那郡は天竜、矢作水系で海人族と漂泊民のメッカ。このルートは諏訪の阿蘇氏大祝の行った道。つまりフォッサマグナの地溝帯のど真ん中。
岐阜県
恵那市 上矢作町(かみやはぎちょう)奥矢作湖(おくやはぎこ)奥矢作橋 (おくやはぎばし) 矢作ダム(やはぎだむ)
恵那市矢作川上流の福岡町は「吹く丘」=鍛冶地名。八幡古墳。中山太鼓。ここも松本と同じ。
「えな」は胞衣であるから鹿児島頴娃や愛知衣の君、大阪大小橋命胞衣塚などと語源を同じくすると思われる。
愛知県
岡崎市 矢作町(やはぎちょう)矢作川(やはぎがわ)矢作橋(やはぎばし)
矢作川橋(やはぎかわばし)
秦梨町 矢作揃(読み不明)
碧南市 矢作川大橋(やはぎがわおおはし)
豊田市 矢作川 (やはぎがわ)
安城市 名豊矢作橋(めいほうやはぎばし)
西尾市 矢作古川(やはぎふるかわ)矢作川(やはぎがわ)
西尾市 矢作古川橋(やはぎふるかわばし)
西尾市国森町 矢作(やさく)
知多郡美浜町小野浦 矢作(やはぎ)
幡豆郡一色町 矢作古川 (やはぎふるかわ)
ここはすでにブログで解説済み。幡豆(はず)は鹿児島薩摩の隼人のシャーマン波豆と同名。「はず」は矢筈のはずにつながるか。波多氏辛嶋氏との関係。そのまま尾張氏との関係になるのかどうかはこれから。
大阪府
八尾市南町 矢作神社
(やさくじんじゃ)
ここでようやく物部氏登場。尾張氏と同族とも言われた物部氏の布津主をる祀る。物部氏一族矢作連の屋敷跡と言われる。矢作は「やつくり」とも。そのものずばりニギハヤヒの羽羽矢を作っていた?
矢作連は布都怒志命の後裔。弓矢を造る伴造を統率する氏族。
11世紀、石清水八幡の掃部別宮となり、別宮八幡とも。つまり取り込まれた。
「竹細工は隼人の得意とする分野。但し三代実録にも掃部神の名が見えるが、当社の神ではないとの見方がある。阪合神社の神と考える方がいいのかも知れない。」
http://kamnavi.jp/mn/osaka/monoyao.htm
弓作、弓場地名。銅鏡出土。
拝殿は饒速日命等の祭神としている他の神社(樟本三社、渋川神社)とは違うが本殿はやはりよく似ている。」「社前の銀杏の垂下物の皮には木に母乳の出を豊にする効能がある」母乳とは水銀。
以上から推測するに、物部氏は尾張氏と血族となるさいに南九州の熊襲・隼人を従えることになったと考えられる。これが正史の長髄彦であろうか?ここで八束脛という言葉を思い出す。「やつかはぎ」と「やはぎ」。羊太夫が連れていた小鬼的人物と熊本の鬼八(八は鉱物)。
おそらく熊襲・隼人=先住渡来+縄文の混合民=原日本人=鬼八=八束脛=水銀・鉱物採集民たちは最初多氏に、そして尾張氏に、ついで物部氏に、さらに応神朝日下部氏に、そこから波多氏に下げ渡され、最後に波多氏を取り込んだ葛野秦氏たちに仕えることになる。それが修験ネットワークの中へ組み込まれていった可能性がある。しかし彼らの為政者の中から選ばれた者は天孫と近縁の者がいたためか、高い地位に昇ったものがいたのだろう。岐阜の多氏のように、過去のえにしから新羅系天武天皇に協力し朝臣となるものが出たかも知れない。不明。
福岡県
久留米市草野町 矢作(やはぎ)
ここが矢作地名の大元?田主丸に近く、筑紫国造家の本拠地・高良大社の麓にある。草野地名はここを治めた平家の武将から。装飾古墳のメッカ。筑紫国造家は新羅系。阿蘇多氏と同族。彼らが熊襲と隼人を最初に掌中にしたか?では邪馬台国は狗奴国に勝てたのであろうか?いや、大和にあった邪馬台国は蚊帳の外に置かれたのかも知れない。
佐賀県唐津市半田 矢作
(やはぎ)
ここが最初の上陸地か?
末羅国。魏志倭人伝、最初の上陸港。装飾古墳のメッカ。背振山の北側。水軍の発祥の地。すなわち倭人最初の上陸地と言ってかまうまい。
基礎資料提供=「ブログ自然体で興味を持ったことを・・・」http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds
矢作解説
矢作は「矢矧」表記が最も古く適切か?
「はぎ」は本来「作る」よりも「引く」行為を表現したと思われる。
従って矢矧表記こそが大元と言えよう。
これは矢がいかに古くから地名となっていたかという意味合いを持っている。
歴史上、弓矢を地名とする契機は何度もあったと想像できる。
古代、中世、近世に渡って弓矢は常にいくさの最前線で活躍した。ゆえに同じ「矢作」地名「やはぎ」表音地名でも、時代的なタイムラグは存在すると考えられる。
その中で「やつくり」表音はおそらく矢を作っていた場所という意味を強調するために名付けられたのだろう。
「やさく」の場合、「さく」は漢音であるから(「や」訓読み。音読みは「シ」)少し時代が下がるだろうと感じる。
「やはぎ」だけが「矢を引く」という行為を含んでいたと考え、「やはぎ」を中心に考察した。あしからず。
もっとも、時代を経ても、矢を作る場所は古代からあまり移動しない場合が多そうである。
なぜならヤジリや矢身、矢羽素材となる材料のすべてがそろう場所は限られてくるからだと考える。
技術者は移動してゆけるが、素材は移動しない。
その中で、やはり「矢矧」という意味合いは異質である。
本来、矢を引く行為そのものを表す「やはず」を地名にするということは、そこに矢を引く者どもがいたということになるはずであろう。
「矢筈」もまたそうである。「はず」もまた矢を射る行為をさすのではないか?
ならば矢矧と矢筈は同じ意味を持つ地名だと言って良いのではあるまいか?
次回はその矢筈分析である。
追補
三省堂「全訳読解古語辞典」によると「矢作」とは、一、矢の羽を作る行為を言うとあり、二、矢をつがえる行為ともある。
「矢筈」とは矢の尻にある溝を彫る行為とある。部位が違うがいずれも矢尻の部位を「作る」行為を指す言葉である。
しかし、「矢矧」表記の「引く」という旁には矢をつがえて弓を引く意味合いが含まれている。
「はぐ」とは「はく」から出ていると思える。「はく」とは武具を装着することである。従って、矢をはぐは、矢をつがえるとき尻の方に弦を引っかけることから転じて羽を作るとなったのではないか?
結論としていずれも現地で矢を作っていた(弓矢は現地で作ることが多い。引きはなつとすぐに足りなくなるからである)ことと、矢を用いる行為の両面を持っていたと判断することができるようである。
矢作地名だけでは隼人・熊襲との関係は早急には判断できない。次の矢筈分析との比較が必要だろう。
なお、「や」が「八」、「つがえる」が「束」、矧ぐが「脛」となると「八束脛」となる。
土蜘蛛や国樔の名称を八束脛とも言ったという紀の記事や、羊太夫のしもべである八束脛と熊本の矢を拾い集めていた鬼八の類似など、「矢をつがえる」という意味解釈ですべて同類と分析できるだろう。
小さくて、尾があって、穴から出てきた異人種。矢を作るための矢尻の鉄。鉱脈を探る一族で葛野秦氏の管理下にあった小子部・・・すべてが矢でつながりはしないか?
2.矢作分析
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付録 鹿島と杵島
「きしま」と「かしま」
「杵島」「杵島岳」「杵島山」 きしま
佐賀県嬉野市 杵島山(きしまやま)
佐賀県杵島郡 白石町は黒曜石。いずれも活火山雲仙岳の温泉地帯。中国からの移住が多かった地域。肥前。吉志、肥君、唐津、松浦、呼子など外来文化の集積地帯で、伊万里焼窯も。古代の集落多数。縄文後期から弥生初期の先進地帯で、菜畑遺跡や吉野ヶ里も近い。邪馬台国比定地域に含まれる。
熊本県阿蘇市 杵島岳(きしまだけ) 草千里の後ろにそびえるのが杵島岳。阿蘇山塊の西端の立つ。鹿島とともに「あらふれる」の枕詞になった山。茨城県の鹿島地名の大元。多氏阿蘇氏の本拠地である手野(たの)に近い。湿地草原と古代牧か?外輪山に足刈鉱脈。
「城島」
大分県別府市 城島(きじま)城島高原(きじまこうげん) もともとは鬼島。鉱山師をここで見た地元民の命名だろうが、鉱脈は小さく、かわりにほどちかい久住山硫黄山の硫黄をとる権利を朝廷からもらっていた氏族がいた。硫黄は上古には薬石であったことがわかっている。近くに別府市の温泉の元になる活火山・鶴見岳があり、火男火売神社(ほのおほのめじんじゃ)。http://www.asahi-net.or.jp/~mv2s-kthr/turumi/view.htm
「木島」
宮城県牡鹿郡 女川町 木島(きじま)
新潟県新潟市 下木島(しもきじま) 上木島(かみきじま)
長岡市 寺泊 木島(きじま)
上越市 木島(きじま)
長野県長野市 青木島(あおきじま) 青木島町(あおきじままち) 青は銅鉱脈か?
飯山市 下木島(しもきじま) 木島(きじま) 飯山の飯は産物=鉱脈を指す。多氏の地名。
下高井郡 木島平村(きじまだいらむら)
木島平村 上木島(かみきじま)上木島(かみきじま) 木島山(きじまやま)
静岡県 庵原郡 富士川町 木島(きじま)
愛知県東海市知多郡 南知多町 木島(きじま)
島根県松江市 青木島(あおきじま)木島(きじま)
大田市 無木島(むぎしま)
岡山県笠岡市 北木島(きたぎしま) 北木島町(きたぎしまちょう)
瀬戸内市 木島(きじま)
香川県高松市 女木島(めぎじま) 男木島(おぎじま)
坂出市 室木島(もろきじま)
福岡県久留米市 城島町 青木島(あおきしま)
佐賀県伊万里市 越木島(こしきじま)
長崎県佐世保市 下樫木島(しもかたきじま) 上樫木島(かみかたきじま)
平戸市 下枯木島(しもかれきしま) 上枯木島(かみかれきじま)
対馬市 品木島(しなぎじま)
北松浦郡 小値賀町 藪路木島(やぶろきしま)
鹿町町 八木島(やぎじま)
熊本県天草市 黒木島(くろきじま)
芦北郡 芦北町 木島(きしま)
「鬼島」
山梨県南巨摩郡 鰍沢町 鬼島(おにじま)
静岡県藤枝市 鬼島(おにじま)
和歌山県東牟婁郡那 智勝浦町 鬼島(おにしま)
島根県松江市 鬼島(おにしま)
長崎県佐世保市 餓鬼島(がきじま)
熊本県上天草市 鬼島(きじま)
以上、基礎資料作成は「自然体で、興味を持ったことを・・・」ブログサイト甚七さん。なお「きねしま」などの読みは「かしま」「きしま」語源ではないので割愛しました。
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鹿島
茨城県鹿嶋市 鹿島神宮、坂合部、佐伯部、飛騨の匠などが記録に。神社、仏閣の建設のために建築資材や石材、塗料などのために各地から職人が入っている。もともとは海の中にあった砂州を神宮建設のために埋め立てた場所。2世紀頃まではには満潮時には海の底だった浜辺である。本格的な埋め立ては息栖神社が海中から現在地に移された頃と推測できる。岩手・宮城からつながる海岸の砂鉄による製鉄(武器製造)のために藤原氏が確保した場所だが、同時に北の蝦夷の侵攻を食い止めるための関所の意味合いもあった。その前は物部氏の砂鉄採集、製鉄基地であろう。ゆえにその場所を引き継いだ藤原氏としては、非業な最後だった物部守屋という製鉄の雄の怨霊を少し離れた香取に祀る必要があった。香取神宮から見て北東の鹿島には鬼門の意味合いもある。
「あられふるかしま」という和歌の定型句は阿蘇の杵島岳から。阿蘇多氏がここを管轄したしたためである。故郷の地名を持ち込んだのだろう。現在、杵島岳という山は見あたらない。埋め立てのために削り取られたのかも知れない。多氏の痕跡はこうして消えた。しかし山の多(にますみしりつひこ)神社周辺の都祁の近くに多氏坂合部氏がいることから、彼らが杵島地名を鹿島にもちこんだであろうことは動かしがたい。かわかつ
佐賀県鹿島市
熊本県嘉島
福島県相馬郡鹿島町 舟打鉱山
石川県鹿島郡鹿島町
鹿児島県薩摩郡鹿島村
(以上鹿島の項はかわかつ検索)
1〜1.5世紀に茨城の鹿島郡は海の中にあったことがわかっている。従って鹿島地名は水没が終わって地表が現れた以降になんらかのきっかけでつけられたはずである。それがおそらく鹿島神宮の建立によるクローズアップであるか、あるいはそれ以前に阿蘇方面から入った多氏、熊襲、隼人たちによってかは定かでない。
ただ、杵島が鹿島の語源になったのではないかと谷川健一は書いている。
以下の解説者は茨城県鹿島の地元民であるためか「かしま」地名に対し、相当地元びいきの偏った部分があるがあえてこちらのサイトから転載する。あまりに偏ると読む気がしなくなるものだ。
ただし、偏った部分はすべてこの方の名誉のためにもカットした。
くれぐれも申し上げておくが「便利だった」から使ったのである。いいところもある。 かわかつ
引用文差別表現の削除と編集はかわかつ
「鹿島神宮・鹿島臨海工業地帯を抱えるカシマ市は、茨城県の南の端の海に面したところ(利根川をはさんで千葉県銚子市)にあり、つい最近になって鹿島町・大野村の2町村が合併して市になりました。その際、市の名前を何にするかということで、鹿島市という名称が浮上しました。しかし、その名前はすでに佐賀県南部の人口4万人足らずの市で使われていたんです。それで、行政上の名前だけ鹿嶋市になったわけです。(削除)
(削除)「かしま」と言う地名は全国に6市町村あるようです。
佐賀県鹿島市、福島県相馬郡鹿島町、石川県鹿島郡鹿島町、島根県八束郡鹿島町、茨城県鹿嶋市、鹿児島県薩摩郡鹿島村(HP未)です。
さらに調べてみますと、時代はさまざまですが、古くは紀元前から、縄文・弥生時代、奈良・平安時代からなどめんめんと歴史を積み重ねてきた場所柄だったのです。(後略)
(前略)佐賀県の鹿島と茨城県の鹿島は上古において、無縁ではなかったはずです。
常陸風土記に「タケカシマノミコト?」が常陸の国を征服する話がでてきたと記憶しています。タケカシマノミコトはたしか本人もしくはその配下が筑紫出身で、杵島曲(キシマブリ)という歌をうたったとあったように記憶しています。
杵島というのは佐賀県の現鹿島市をふくむ郡名だと記憶します。
佐賀県の鹿島はこの杵島と縁のある地名のはずです。
そして、その2です。(ここから先が5月更新です。)
*杵島と鹿島
1)肥前国風土記の杵島郡の条に景行天皇の巡幸の時の話として、船の泊まったところが自然に島となった。
そこで天皇が「此の郡は、カシ(文字は?、[歌-欠+弋])嶋郡と謂ふべし」といった。杵島(キシマ)郡というのは訛りだという説話がのっています。
船の「かし」というのは船を留める水中に立てる杭のことです
2)常陸国風土記や肥前国風土記、万葉集によると「あられふる」という言葉が「鹿島」とともに「杵島」にかかる
枕詞となっています。
3)また常陸国風土記で建香島命が国栖をだましたという「杵島曲」について、肥前国風土記(逸文)では「杵島曲」は歌垣(カガイ)の歌としてでてきます。歌垣はテレビでもときどき紹介される中国中・南部の少数民族の民俗事例にある若い男女の出会いの場であり、ここで男女が歌を交換する場です。常陸国風土記では筑波山で男女が集うという記事があります
このように、「かしま」、「きしま」は関係が深いということがあります。
*佐賀県の鹿島市は杵島郡の隣の郡の藤津郡の地名で、風土記でも別の郡となっています。角川の地名辞典は「鹿島志」というのをひいて鹿島の地名のもとは、(茨城の鹿島神社を遷した)鹿島宮からとあります
これなら、最初にいわれた茨城からという説が正しいことになります。
しかし、同じ地名辞典に鹿島は古い地名でその最初は平安時代はじめの延喜式にみられる「鹿島馬牧」だそうです。
武神として鹿島神社の遷移は中世の武士の時代からと思われますので、鹿島志の鹿島神社が元というのには疑問があります。
以上、佐賀県の鹿島については
1)隣接の杵島は茨城の鹿島と関連が深い
2)しかし、鹿島の起源はあまり明確ではない
ということでししょうか
そもそも鹿島神宮は神話にみえる出雲を屈服させた“タケミカヅチノミコト”をまつる神社です。
上古はヤマト朝廷の東国・蝦夷征服のための神として“クロイタノミコト”や“タケカシマノミコト”を祖とする国造の一族である多氏がまつったものと、思われます。
鹿島神はヤマト朝廷の蝦夷征服とともに、東北で多数設立された鹿島神社、鹿島御子神神社が、延喜式に朝廷の祭る神社がとしてあげられており、これらの後裔として福島県や宮城県に鹿島神社鹿島御子神社がかなりあります。
福島県の鹿島町はそういう鹿島御子神神社があることか(ら *かわかつ加筆)でた町名だそうです。福島県には、いまではいわき市に併合された鹿島神社があることによってでた鹿島町もあったそうです。
宮城県の鹿島台町もそうした地名でしょう。
ところが、大化改新・奈良時代くらいには中臣氏が祭祀をうばい、中臣氏からでた藤原氏との関係がふかまり、奈良の春日神社に遷り藤原氏の祖先神とともにまつられます。
中世には武神として各地に遷移します。
鹿児島県の鹿島村はこうした鹿島神社があったことにより、なづけられたそうです。
佐賀県の鹿島市についてこの説があることを紹介しました。石川県に(いまの鹿島町とはべつに)こういう鹿島神社があったことによりなずけられた鹿島村が加賀、能登にあったそうです。
全国にこうした町村がもっとかつてはあったものとおもわれます。いまでも各市町村に鹿島神社がある地区に鹿島という地名があります。(これは事実。鹿島地名には茨城以前以後があることをまず把握しておかねばならない。)
石川県の鹿島町は鹿島神社とは関係ないようです。鹿島町は鹿島郡にあります。この郡はその昔は能登郡と能登の中心で、鹿島郷というのがありました。鎌倉時代までに郷名をとって鹿島郡といわれるようになりました。鹿島郡には鹿西町というのもあります。
ところで、カシマという地名の自治体に熊本県に嘉島町というのがあります。
加島という地名・島名もあります。鹿島神社とは別の地名でしょう。(「別」なのではなく、ここから移動した人々によって茨城以前の鹿島、杵島は各地に命名されてくのだろうと考えるのが歴史研究の基本。)
島根県の八束郡鹿島町は全く別の成り立ちです。これは昭和31年に鹿島町が合併で成立する際、町域が旧郡(明治29年以前)の秋鹿郡と島根郡にわたるので名づけられた合成地名です。」
(こういうことはちゃんと書いているのはいいことである かわかつ)
http://homepage1.nifty.com/hankai/backnum1/mag4.htm
まず鹿島と杵島は杵島が先だろう。
古代の古い地名はまず西から東へ伝播したと見て言い。
景行天皇が「かしま」と名付けたという、いわゆる「地名説話」というものの類例が『豊後国風土記』には山のように出てくるわけだが、そのほとんどはダジャレのような名付け方であることはよく知られていることで、あまり信憑性を求められない。和名抄なども信憑性は疑わしい。後世の付会と一般的に思われている。
それよりも「鹿島馬牧」というものがあったことが重要である。
熊本県阿蘇の湿地草原である草千里は、阿蘇杵島岳の真下に広がる馬牧だったところで、今も放牧が行われている。温暖な九州にあって気候冷涼な高地で、牧草が育てやすい、馬牧には絶好のシチュエーションである。
阿蘇は活火山で、当然硫黄も採れるが、なにより阿蘇ピンク石という当時高価な石棺材料が全国ここだけで採集できた。ウスミがかったピンク色の花崗岩は、大和でも珍重されたことは非常に著名な事実である。
対面する九重連山の硫黄山からは記録にもあるように硫黄が採られていた。
これらは朝廷にとって、特に四位以上の貴族、皇室にとって非常に必要な高級ブランドだったわけだ。
ピンク石はその色がほかになく、特に女性にとっては垂涎の墓石用材であったろう。
硫黄は薬石八石のうちのひとつで、中国南部派生の道教、風水の上でも不老長生の妙薬と考えられていた。
要するに阿蘇・九重ははるか大和の貴種にとって必要欠くべからざる資源の宝庫だったことに相違ない。
と言うことは、当然、金に糸目をつけず山師たちが派遣されたはず。
彼らの職様は、何も知らされていない一般の農民にから見れば理解を超えていた。いつの間にか大挙して押し寄せ、知らないうちに山上で火を焚き、夜ごと山を掘り返し、あまつさえ、目的以外の鉱物が出ればそれも掘り返し、場合によってはその場で鍛冶屋と化した可能性もある。
おそらく目的物以外の鉱物も貴重品であろうから、朝廷は返って喜び、金や鉄、銅でも出ようモノなら、あるいは貴族にまで出世したかも知れない。事実そういう例はたくさん続日本紀に書かれている。
あるいは、秘密裏に海外へと売りさばく者もいたかも知れない。いや、いたであろう。
この異形の者どもを、古くは全国的に「鬼」と呼んだことは民俗学では既成の事実。
各地に鬼原、鬼谷、鬼島地名があり、それが奈良時代以降、「良字」を用いる指示があって鬼の文字が差し替えられていったと考えられる。たとえば杵島、城原、城島という風に・・・。
いわゆる「吉原」が元「芦原」=あしはら=悪し原だったことと同じである。
この「鬼島」だったことを、日本書紀は景行天皇が名付けたという「権威」に差し替えたのではあるまいか?
従って、杵島地名は「かし」でなく、当初「きし」だったと考えたい。
まして、その後、茨城の鹿嶋に神宮を建立し、そこを東国の本拠とした藤原氏にとって、すでに先に入っていた鉱物管理氏族の熊本出身阿蘇一族や佐伯氏あたりが、故郷をしのんで名付けた鉱物地名であることが世間では通り相場だったはずの杵島山の地名を、そのまま使ったはずはない。
げんの悪い名前だ、これでは砂鉄鍛冶をしていることが丸わかりではないか・・・とばかり、「かしま」に読み替えた可能性は高いだろう。
実際、鹿島は砂鉄の山地である。縄文海進が回復した2世紀頃には手つかずの砂鉄あふれる砂州だったはず。まして東国。当時の未開地である。そこにいたのは未開の粛慎。ほかにいたとしても九州の倭人、海人、隼人が漁業基地にしていたくらいだろう。矢尻を作るのに鉄を使ったと言っても、剣や農具に比べれば微々たる使用量である。鹿島神宮に行くと多くの剣が飾られている。またヤマトタケルも筑波山から鹿島、そして釜石方面に砂鉄鉱脈を探しに行こうとした可能性があるくらいだ。
いや、実を言うとヤマトタケルが尾張氏の祭神であり、熱田神宮に草薙の剣という出雲の神剣があるのも、おそらく製鉄を象徴する可能性があるのである。そう、尾張氏は熊野から出た。熊野灘もまたクロム砂鉄の採れる場所。
だから彼らの祀るアメノホアカリという神名も、あるいは「火明」が製鉄の高炉の炎を象徴している可能性が非常に高いと言われている。
尾張氏など、あとの時代まで長らえた地方氏族のほとんどは、当初、物部氏に従事しているが、その親方だった物部氏なきあとは、どうしたってあとの権力に追従しなければ生き残れないはず。つまりアメノホアカリが熱田で、ニギハヤヒの名前もくっついている理由はそこなのだ。それは彼らができれば消したくない、自分たちが古い、もとから列島にいた氏族なのだというステータスであるから、尾張氏くらい強い力を持てたら、朝廷に主張し得たのではないか?しかも藤原氏の大元は物部氏とほとんど同族的祭祀者であるだろう中臣氏。かつての大王の祖神ならむげに断れない。そのかわり時折、神宝である草薙剣を持ち出させて人質ならぬ、質草にして帰順の度合いを確かめているのだろう。
従って鹿島は杵島、その語源は山師のいる山という意味の鬼島であろうと想像する次第である。
すべてを確かめにいったわけではないが、谷川健一や若尾五雄と言った「物質民俗学」の著書を見たり、九州の鉱山を実際に回ったものとしては容易に割り出せる内容だ。いかがであろうか?
記事アップ 2007年6月6日
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社会的諸問題に配慮し一部解説をカットしています。
結論
1 矢筈地名・矢作地名は地域の有数の河川沿いにあり、
多くは海岸の良港から内陸の鉄産地に集中。
2 隼人あるいは熊襲、そして尾張氏に関わった場所である。
3 多氏に関係した場所でもある。
4 特に矢筈は漁港、漁業基地、砂鉄の出る浜が多かった。
5 従って尾張氏、隼人、熊襲、多氏が製鉄に関わった氏族であると証明できる。
6 比較的であるが、原発などのコウキケンドの施設が散見できた。
以上。 2007年6月9日 かわかつ著・編集