15 矢筈・矢作 地名分析から古代の謎がすべて見えた!
     付録・鹿島と杵島

青森県
     青森市        矢作 (やはぎ)  近くに矢田前地名あり
     青森市大字八重田 字矢作 (やさく)    情報なし(*かわかつ発見)
     青森市大字八ツ役 字矢作. (やはぎ)   情報なし(*かわかつ発見)
     弘前市糠坪     矢作(やはぎ)    
「ぬかつぼ」はおそらく鉱物地名。糠=砂鉄・砂金


 岩手県
     一関市川崎町薄衣 矢作舘(やはぎだて)矢作前(やはぎまえ) 
薄衣地名は中世葛西氏の居城跡。川崎は古代から北上川水系の砂鉄川と千厩川水運で発展した町。
         http://ja-iwate.or.jp/camera/old/0012/index.html

     大船渡市       矢作 (やはぎ) 矢作川 (やはぎがわ)
気仙川支川。2級河川。延長17.3km。陸前高田市北方、住田町との境界付近の山地の沢水を集め南流、板橋山地内付近からほぼ東流し気仙川へ合流。「矢作」の地名は坂上田村麻呂が東征のとき、この地で矢を作らせたことによるという伝説がある。
       http://www.infoaomori.ne.jp/~teruis22/iwate%20no%20kawa/iwate%20no%20kawa.htm
    
     陸前高田市      矢作町(やはぎちょう) 矢作川(やはぎがわ)
岩手県陸前高田市越戸内の「越戸内経塚」の説明文中には,「渥美産陶器壷が出土している」という表記があり,渥美半島の田原市越戸と,何らかの関連性があるのかも
       http://sapporo.cool.ne.jp/kossy4u/author/zatsu_koshito.html
   
   * 越戸内(おっとうち)地名は瀬戸内から作られたか?
        瀬戸内海に関連した海の民による銘々だろうか?


宮城県
      登米市石越町南郷 矢作 (やはぎ) 情報なし
     柴田郡大河原町   矢作 (やさく)   情報なし  
   

山形県
      新庄市      旧矢作家住宅(きゅうやはぎけじゅうたく) 民話の里 古民家の名称

福島県
      郡山市片平町   矢作(やはぎ)矢作山(やはぎやま)
  郡山市には熱海、安積地名が山のようにある。
       http://map.yahoo.co.jp/address?ac=07203a&type=static


茨城県
      土浦市        矢作やはぎ)
隣接する日立に日鉱が、つくばに花崗岩集積地がある。砂鉄。
      
      坂東市      矢作(やはぎ)下矢作(しもやはぎ)上矢作(かみやはぎ) 中矢作                (なかやはぎ)矢作新田(やはぎしんでん)
近くに一言主神社。利根川沿いの地名。
伊豆〜神奈川〜房総は大きく「海上郡」ととらえてさしつかえない。安積と隼人。のちに多氏。


千葉県   千葉市中央区    矢作町(やはぎちょう)
      香取市        本矢作(もとやはぎ)本矢作新田(もとやはぎしんでん)

房総半島は石材がないと言われる。かわりに矢造部、玉造部、服部部、鍛冶部、土師部などの加工業の部民が多かった。印波国造は多氏。「いんば」は「いんなみ」で「いなみ」か。銚子周辺は古くから走水の海に突出した中継地で犬吠埼などの隼人地名やヤマトタケルと弟橘姫伝承がある。
もっとも重要なのは霞ヶ浦という巨大な水路が武蔵丘陵にまで入り込むこと。今は東京に組み込まれた葛飾地域の河川も利根川水系と言って良い。だから海人系神社の宝庫。 
         http://www.fukudaks.com/a/gokou/g-syuu.htm

神奈川県
      小田原市       矢作 (やはぎ)
      三浦市         矢作 (やはぎ)
神奈川〜伊豆の海岸線地帯を象徴する言葉に「渡島文化」がある。はるか対面する小笠原諸島が漁業中継基地となるためであろう。房総・鹿島などと同じく古代から海人文化が入り込んでいる西部の足柄地域特に金目川周辺は坂田金時で有名な鍛冶屋地域。東部は川崎製鉄で知られる鉄鋼産業が発達。主に中世武士にとっては重要な武器調達地となり争いの舞台ともなる。いわゆる坂東とはここから始まる。ヤジリに必要不可欠な鉄の時代から特に発展する。


新潟県
      西蒲原郡弥彦村   矢作 (やはぎ)  
弥彦神社。尾張氏。アメノホアカリ。隼人は愛知から糸魚川〜静岡構造線をぬけて入ったか?太平洋側で安曇と出会って情報を得、日本海へも進出。先導した尾張氏の要求が強くあったと思える。

      燕市          吉田矢作(よしだやはぎ)
燕と言えば窯業。めがね。職人文化と日本海文化。古志は内陸への入り口である。良港があったからだろう。新潟は今でも大陸からの密航者がめざす地域。


石川県
      石川郡野々市町   矢作(やはぎ)下矢作(しもやはぎ)上矢作(かみやはぎ)矢作橋(やはぎばし)
縄文の遺跡・真脇遺跡が有名な石川県も古くは古志の範疇と言える。古くから大陸からの渡来と安曇の進入があった。野々市町は手取川の流域にあり、背後に白山、北部に金沢市が隣接する扇状地にある。渡来がはいったために石川県では大陸の技術を受け継ぐ職能民が多かった。御経塚古墳をはじめとする古墳群の多くはここが古から渡来と海人文化を受け入れたことを教えている。石川から若狭はイルカの渡来地である。ここでも骨が多く出る。応神と気比大神の名前交換に神がみけつとして送ったイルカである。
         http://www5e.biglobe.ne.jp/~mj-home/qc33-kg-okyozuka.htm

山梨県西
      八代郡市川三郷町 矢作(やはぎ)
      笛吹市一宮町    上矢作(かみやはぎ)下矢作(しもやはぎ)
笛吹地名が示すようにいずれも矢作里神楽が行われる。里神楽伝承地を追うとほぼ矢作地名とも重なってくる。里神楽のルーツは九州大分〜高千穂〜熊本方面となる。南九州。 


長野県
      松本市        矢作(やさく)             
      下伊那郡根羽村   矢作川 (やはぎかわ)
あきらかに愛知の矢作川をさかのぼった尾張氏と隼人文化が伝わった場所。松本には有明山があり、高千穂の手力男命や思惟金を祭る有明神社がある。 根羽村は阿久遺跡、臥竜遺跡、天竜峡。伊那郡は天竜、矢作水系で海人族と漂泊民のメッカ。このルートは諏訪の阿蘇氏大祝の行った道。つまりフォッサマグナの地溝帯のど真ん中。

岐阜県
      恵那市        上矢作町(かみやはぎちょう)奥矢作湖(おくやはぎこ)奥矢作橋                (おくやはぎばし) 矢作ダム(やはぎだむ)
恵那市矢作川上流の福岡町は「吹く丘」=鍛冶地名。八幡古墳。中山太鼓。ここも松本と同じ。
「えな」は胞衣であるから鹿児島頴娃や愛知衣の君、大阪大小橋命胞衣塚などと語源を同じくすると思われる。

愛知県
      岡崎市      矢作町(やはぎちょう)矢作川(やはぎがわ)矢作橋(やはぎばし)                矢作川橋(やはぎかわばし)
       秦梨町      矢作揃(読み不明)
      碧南市      矢作川大橋(やはぎがわおおはし)
      豊田市      矢作川 (やはぎがわ)
      安城市      名豊矢作橋(めいほうやはぎばし)
     西尾市      矢作古川(やはぎふるかわ)矢作川(やはぎがわ)
      西尾市      矢作古川橋(やはぎふるかわばし)
      西尾市国森町  矢作(やさく)           
      知多郡美浜町小野浦 矢作(やはぎ)
      幡豆郡一色町  矢作古川 (やはぎふるかわ)
ここはすでにブログで解説済み。幡豆(はず)は鹿児島薩摩の隼人のシャーマン波豆と同名。「はず」は矢筈のはずにつながるか。波多氏辛嶋氏との関係。そのまま尾張氏との関係になるのかどうかはこれから。

大阪府
      八尾市南町      矢作神社 (やさくじんじゃ)   
ここでようやく物部氏登場。尾張氏と同族とも言われた物部氏の布津主をる祀る。物部氏一族矢作連の屋敷跡と言われる。矢作は「やつくり」とも。そのものずばりニギハヤヒの羽羽矢を作っていた?
矢作連は布都怒志命の後裔。弓矢を造る伴造を統率する氏族。
11世紀、石清水八幡の掃部別宮となり、別宮八幡とも。つまり取り込まれた。
「竹細工は隼人の得意とする分野。但し三代実録にも掃部神の名が見えるが、当社の神ではないとの見方がある。阪合神社の神と考える方がいいのかも知れない。」
      http://kamnavi.jp/mn/osaka/monoyao.htm
弓作、弓場地名。銅鏡出土。
拝殿は饒速日命等の祭神としている他の神社(樟本三社、渋川神社)とは違うが本殿はやはりよく似ている。」「社前の銀杏の垂下物の皮には木に母乳の出を豊にする効能がある」母乳とは水銀。

以上から推測するに、物部氏は尾張氏と血族となるさいに南九州の熊襲・隼人を従えることになったと考えられる。これが正史の長髄彦であろうか?ここで八束脛という言葉を思い出す。「やつかはぎ」と「やはぎ」。羊太夫が連れていた小鬼的人物と熊本の鬼八(八は鉱物)。
おそらく熊襲・隼人=先住渡来+縄文の混合民=原日本人=鬼八=八束脛=水銀・鉱物採集民たちは最初多氏に、そして尾張氏に、ついで物部氏に、さらに応神朝日下部氏に、そこから波多氏に下げ渡され、最後に波多氏を取り込んだ葛野秦氏たちに仕えることになる。それが修験ネットワークの中へ組み込まれていった可能性がある。しかし彼らの為政者の中から選ばれた者は天孫と近縁の者がいたためか、高い地位に昇ったものがいたのだろう。岐阜の多氏のように、過去のえにしから新羅系天武天皇に協力し朝臣となるものが出たかも知れない。不明。


福岡県
      久留米市草野町 矢作(やはぎ)
ここが矢作地名の大元?田主丸に近く、筑紫国造家の本拠地・高良大社の麓にある。草野地名はここを治めた平家の武将から。装飾古墳のメッカ。筑紫国造家は新羅系。阿蘇多氏と同族。彼らが熊襲と隼人を最初に掌中にしたか?では邪馬台国は狗奴国に勝てたのであろうか?いや、大和にあった邪馬台国は蚊帳の外に置かれたのかも知れない。

佐賀県唐津市半田     矢作 (やはぎ)
ここが最初の上陸地か?
末羅国。魏志倭人伝、最初の上陸港。装飾古墳のメッカ。背振山の北側。水軍の発祥の地。すなわち倭人最初の上陸地と言ってかまうまい。



基礎資料提供=「ブログ自然体で興味を持ったことを・・・」http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds






矢作解説


矢作は「矢矧」表記が最も古く適切か?

「はぎ」は本来「作る」よりも「引く」行為を表現したと思われる。
従って矢矧表記こそが大元と言えよう。

これは矢がいかに古くから地名となっていたかという意味合いを持っている。
歴史上、弓矢を地名とする契機は何度もあったと想像できる。
古代、中世、近世に渡って弓矢は常にいくさの最前線で活躍した。ゆえに同じ「矢作」地名「やはぎ」表音地名でも、時代的なタイムラグは存在すると考えられる。

その中で「やつくり」表音はおそらく矢を作っていた場所という意味を強調するために名付けられたのだろう。
「やさく」の場合、「さく」は漢音であるから(「や」訓読み。音読みは「シ」)少し時代が下がるだろうと感じる。
「やはぎ」だけが「矢を引く」という行為を含んでいたと考え、「やはぎ」を中心に考察した。あしからず。

もっとも、時代を経ても、矢を作る場所は古代からあまり移動しない場合が多そうである。
なぜならヤジリや矢身、矢羽素材となる材料のすべてがそろう場所は限られてくるからだと考える。
技術者は移動してゆけるが、素材は移動しない。
その中で、やはり「矢矧」という意味合いは異質である。
本来、矢を引く行為そのものを表す「やはず」を地名にするということは、そこに矢を引く者どもがいたということになるはずであろう。


「矢筈」もまたそうである。「はず」もまた矢を射る行為をさすのではないか?
ならば矢矧と矢筈は同じ意味を持つ地名だと言って良いのではあるまいか?
次回はその矢筈分析である。

追補

三省堂「全訳読解古語辞典」によると「矢作」とは、一、矢の羽を作る行為を言うとあり、二、矢をつがえる行為ともある。
「矢筈」とは矢の尻にある溝を彫る行為とある。部位が違うがいずれも矢尻の部位を「作る」行為を指す言葉である。
しかし、「矢矧」表記の「引く」という旁には矢をつがえて弓を引く意味合いが含まれている。
「はぐ」とは「はく」から出ていると思える。「はく」とは武具を装着することである。従って、矢をはぐは、矢をつがえるとき尻の方に弦を引っかけることから転じて羽を作るとなったのではないか?
結論としていずれも現地で矢を作っていた(弓矢は現地で作ることが多い。引きはなつとすぐに足りなくなるからである)ことと、矢を用いる行為の両面を持っていたと判断することができるようである。

矢作地名だけでは隼人・熊襲との関係は早急には判断できない。次の矢筈分析との比較が必要だろう。

なお、「や」が「八」、「つがえる」が「束」、矧ぐが「脛」となると「八束脛」となる。
土蜘蛛や国樔の名称を八束脛とも言ったという紀の記事や、羊太夫のしもべである八束脛と熊本の矢を拾い集めていた鬼八の類似など、「矢をつがえる」という意味解釈ですべて同類と分析できるだろう。
小さくて、尾があって、穴から出てきた異人種。矢を作るための矢尻の鉄。鉱脈を探る一族で葛野秦氏の管理下にあった小子部・・・すべてが矢でつながりはしないか?

       2.矢作分析

本論  地名分析から何が見えたか?

調査の前に念頭に置いたのは「矢筈」は「矢作」とは違って「形状」を表す場合が多いだろうという前提である。だからその地名発祥地は限定しにくいことになる。矢筈の形状とは英文字の「M」の形であるから、全国には単独でそういう山頂を持つ山はごまんとあるし、たとえなくても並び立つ二つの山がMに見えれば矢筈地名がついた可能性もあるだろう。
「M」と言ってもいろいろある。しかし古代の弓矢を調べると、矢筈の溝の形はMの真ん中の溝は比較的「U」や「⌒」の逆さまのようにゆるやかなお椀型となっているものが多い。それを山頂にあてはめるとこのような形状だろう。



これは調査の発端となった鹿児島県揖宿郡頴娃町の矢筈岳である。
またこの矢筈岳の隣には女岳という柔らかなシルエットの山が隣接する。遠景でながめるとこの二つが並んでいる様を「やはず」に見立てた可能性もある。



というのは、山の形状は見る場所によってまったく違うものであるから、頴娃でMに見えても、その裏側ではただのとがった一本の頂上にしか見えない場合が多いわけだ。そうなると向こう側ではこの山は矢筈岳とは呼ばれなかった可能性が高くなるのは当然である。にも関わらず、現在ではどこの誰に聞いても矢筈岳だという答えが返ってくる。長い年月の間にもっとも流布した名前に統一されたのだろう。それは言い換えると頴娃町に大多数が住み、ここに有力者がいたという証でもあるだろう。

ではその典拠を少しだけご紹介しよう・・・。


1事実、西暦700年に始まった隼人の乱を先導したという三人のシャーマンたちは頴娃にいた。

2そしてそこにはなぜか愛知県知多周辺の尾張一族と同じ「衣の君(えのきみ)」の伝承があるということ。

3神武天皇と最初に婚姻した姶良比売がここにいたこと。

4その兄である人物は大阪市の比売許曽信仰の中心地に祀られている大小橋命とよく似た名前の小橋の君であること。

5小橋の君は神武とともに大和に東征し、大いに神武を手助けしたことになっていること。

6尾張氏は熊野の高倉下(たかくらじ)命の末裔であること。

7同時に天孫ニニギノミコトの三人の子供のうち、アメノホアカリを祀ること。そのアメノホアカリは尾張氏の神であり、神武東征で大きく助けになったこと。(神武とは同時に応神でもある)

8その神社が尾張一の宮真澄田神社(なぜか有名な熱田神宮ではない)だけでなく、日本海側の新潟県矢作にある弥彦神社、天の橋立のある籠(この)神社などに広範囲に存在すること。

9その愛知県矢作川のすぐそばにはなぜか鹿児島の弥五郎どんを彷彿とさせる名前の小社・彌五謄殿があること。

10時代は異なるのかも知れないが、矢作川や天竜川〜伊那〜諏訪〜を抜けて千曲川、姫川などのいわゆるフォッサマグナを伝ってゆく地溝帯に沿って鉱物を採集しながら北上していった阿蘇の氏族がいたこと。

11それが岐阜に本拠を持った多臣品治という天武天皇の片腕となっていて、その子供が太安万侶であり、多朝臣と呼ばれた氏族だったこと。

12その多氏の出自はほかの氏族にはない神武天皇の子孫とされ、祖神を阿蘇国造家、筑紫国造家、大分の君らと同じ神八井耳命とすること。

13神八井耳の兄は肥君の祖神・日子八井耳で、弟は神沼川耳(綏靖天皇)、息子は阿蘇開闢の神であり、阿蘇神社の祭神でもある建磐龍命であること。

14それら阿蘇多氏の作る墳墓の多くが九州と東国に広がる装飾古墳であること。

15装飾古墳の絵柄の中におおくの「ゆき」(弓矢を入れる蓑(み))が描かれること。

16中には熊本県チブサン古墳のように人物が弓のような冠をかぶって天空の九つ太陽?を射落とそうとしている(中国少数民の伝承である射日神話)絵柄を持っていること。

17それは言い換えると中国江南以南に氾濫する、神仙思想(原始道教)の観念を絵柄に象徴させたものであり、天武天皇が得意としたという「天文遁甲」にそのままリンクするということ。

18応神天皇という倭の五王が、日本書紀では新羅遠征に行った神功皇后の胎中天皇と呼ばれる限りなく「半島渡来」の匂いがする天皇で、直接聖徳太子までつながる血筋を残したこと。

19その神功皇后は新羅系渡来人の血筋(アメノヒボコの子孫)であるのにも関わらず、なぜか第二の祖国とも言うべき新羅を征伐したと書かれたこと。

20応神が出てくる時代の直前に邪馬台国、狗奴国というシャーマンの連合国家同士の争いが起きていること。

21応神の前王朝と思われる景行天皇〜ヤマトタケル〜仲哀天皇の皇統が、日本書紀では仲哀が「神に殺された」という書き方で神功皇后と武内宿禰によって「かむやらい」=「王朝交代」されていること。

22その景行とヤマトタケルは熊襲や九州大分の土蜘蛛(土豪)を征伐していること。

23そのずっとあとになって応神の血筋から出たと考えられる武内宿禰の子孫たち・・・特に蘇我氏が乙巳の変(大化の改新)で誅殺されていること。

24その理由の一つに蘇我氏にとっては親族であり、まったく殺す必要のないはずの聖徳太子の子孫(山背皇子=上宮王家)たちを消し去ったと「えん罪」を掛けられていること。

25そのまたずっとあとに、百済を救おうとした天智天皇の皇子(大友皇子=弘文天皇)が、天智の弟であるのになぜか天智より年上としか見えない天武天皇(大海人皇子)によって誅殺されたこと。

26倭の五王の最後・武=雄略の時代に大和の先住氏族である葛城氏が滅ぼされたこと。

27その葛城氏と葛城襲津彦という「渡来」葛城家が二つ存在し、あきらかに「のっとり」があること。

28その葛城のとなりに蘇我氏がいたこと。

29蘇我氏と葛城襲津彦はともに武内宿禰の子孫であること。(新撰姓氏録)

30羽田氏、木氏、林氏、 平群氏、許勢氏、蘇我石川、若子氏、葛城襲津彦子孫はみな武内宿禰の子孫であること。

31雄略に滅ぼされた葛城氏は葛城一言主に象徴されること。

32その葛城氏と鴨氏は出雲のアジスキタカヒコネでつながること。

33アジスキタカヒコネは高鴨大神とも呼ばれ、義兄弟の八重事代主を祀るかんなぎとなったこと。

34そこから葛城鴨氏と名乗ったこと。

35摂津岸辺の吉志氏の中に難波吉士、草香部吉士、日鷹吉士、大国吉士などがあって、 『雄略紀十四年四月』大草香皇子(仁徳天皇の皇子)の名にちなみ、難波吉士日香香の子孫を大草香部吉士と言う姓を与えたこと。これが肥君猪手の子孫たちと同族。

36筑紫嶋郡(福岡県糸島郡)川辺里の肥君猪手系図が完本で記載され残っており、猪手の母は吉志氏の姫、嫁も吉志氏の姫であること。

37大阪摂津の岸辺に吉志部神社があり、難波の吉志氏の部下である吉志部の民たちが天皇の陵墓に埋葬する土器を焼いていたこと。

38 物部大連、大伴大連(おそらく中臣連も)たちが応神とはほとんど血のつながらない継体大王を擁立し、その時一緒に福井から枚方宮之阪の百済王氏が伴部としてついてきたこと。

39継体の子供である安閑天皇に子孫がないと「書かれている」こと。そして安閑が摂津三島の磐手の杜神社に末神として祀られていること(ここが中臣鎌足の墓ともいう阿武山古墳のある杜であること)。・・・中臣鎌足は安閑を祀る必要があった。なぜか?

40阿武山古墳の被葬者の枕元には朱絹をはった大職冠(鎌足の役職名)にあたいする冠が置かれていたこと。

  41〜44は推移推測にすぎないが、
4138,39、40から考察して、継体は応神朝とは無縁で大和の旧勢力(百済派・天智天皇派)である物部、大伴、中臣の主流派から連れてこられ、子孫を生むと、子供たちも抹殺され、血筋をたたれただろうこと。そしていないと書かれた安閑の子供が武烈の皇子とされただろうこと。それは実は百済王の血を引く子供であろうこと。

42蘇我氏は応神の血脈である豊彦王の血を引いた新羅系氏族木氏、林臣との間の子供で、大伴金村の臣下であったはずだが、磐井の乱の平定失敗、しかし物部麁鹿火(あらかい)が成功したために権威失墜。大伴氏衰退後、子飼いだった蘇我氏が頭角を表し、今度は馬子の時代に守屋へ意趣返し。百済派は衰退。それを取り戻そうとしたのが中臣鎌足と中大江皇子=天智天皇=旧態百済派。

43天智はかつて百済王豊璋を人質にしていたと書かれるが、実は仲がいい百済と連携し、豊璋を通じて情報交換。

44新羅が唐と手を組むと豊璋は即時帰国し、王位に。結局敗北し日本へ。継体はこの百済王の血筋の可能性もあり。

45天文遁甲をよくした新羅系・大海人皇子が百済派天智の子孫を攻めて、多氏、犬養たち海人と大昔から海でつながりがあった同族である東国の多氏、海部が一致して反旗をひるがえし、そのとき先頭に立ったのが多臣品治であること。これが壬申の乱。

46ところが天武死後、後藤原不比等が台頭。天武の遺言を守るように見せながら、実は天智の娘だった持統を皇位に。

47その持統天皇が鵜野讃良姫だったころ、天武天皇は一通も和歌も送ってはいないばかりか、額田王と不倫していたこと。

48さらになぜかわざとらしく持統崩御後に天武の陵墓に遺骸を合葬したが、いつかその遺骸は盗人?によってばらばらに路傍にばらまかれたこと。新羅派残党の仕業か?

49持統の天皇位についた年月日、崩御の年月日がはっきり書かれていないこと。

50これらすべてが狗奴国・邪馬台国の対立からつながった中国江南・江北勢力の対立構造の代理戦争ではないか。結論はすべてここに帰結する。

以上は非常によくできた歴史大河ドラマだと言える。小説の題材として使わないですか。^^
もっとも誰もついて来られない可能性は高い。しかし着想は違っても、ほぼ同じような結論で、関裕二氏も書いている。方法はかなり違うが天智〜天武に変わった政権が持統でまたもとに戻ったことはまず間違いのないことである。隼人や熊襲を見てきてここに行き着く人間はそうはいないだろう。

付録 鹿島と杵島


「きしま」と「かしま」


「杵島」「杵島岳」「杵島山」 きしま


 佐賀県嬉野市  杵島山(きしまやま)
  佐賀県杵島郡  白石町は黒曜石。いずれも活火山雲仙岳の温泉地帯。中国からの移住が多かった地域。肥前。吉志、肥君、唐津、松浦、呼子など外来文化の集積地帯で、伊万里焼窯も。古代の集落多数。縄文後期から弥生初期の先進地帯で、菜畑遺跡や吉野ヶ里も近い。邪馬台国比定地域に含まれる。
  熊本県阿蘇市  杵島岳(きしまだけ) 草千里の後ろにそびえるのが杵島岳。阿蘇山塊の西端の立つ。鹿島とともに「あらふれる」の枕詞になった山。茨城県の鹿島地名の大元。多氏阿蘇氏の本拠地である手野(たの)に近い。湿地草原と古代牧か?外輪山に足刈鉱脈。


「城島」

  大分県別府市  城島(きじま)城島高原(きじまこうげん) もともとは鬼島。鉱山師をここで見た地元民の命名だろうが、鉱脈は小さく、かわりにほどちかい久住山硫黄山の硫黄をとる権利を朝廷からもらっていた氏族がいた。硫黄は上古には薬石であったことがわかっている。近くに別府市の温泉の元になる活火山・鶴見岳があり、火男火売神社(ほのおほのめじんじゃ)。http://www.asahi-net.or.jp/~mv2s-kthr/turumi/view.htm

「木島」

  宮城県牡鹿郡  女川町 木島(きじま)

  新潟県新潟市  下木島(しもきじま) 上木島(かみきじま)
     長岡市  寺泊 木島(きじま)
     上越市  木島(きじま)

  長野県長野市  青木島(あおきじま) 青木島町(あおきじままち) 青は銅鉱脈か?
    飯山市  下木島(しもきじま) 木島(きじま) 飯山の飯は産物=鉱脈を指す。多氏の地名。
    下高井郡 木島平村(きじまだいらむら)
         木島平村 上木島(かみきじま)上木島(かみきじま)  木島山(きじまやま)

  静岡県     庵原郡   富士川町 木島(きじま)

  愛知県東海市知多郡   南知多町 木島(きじま)

  島根県松江市   青木島(あおきじま)木島(きじま)
     大田市   無木島(むぎしま)

 岡山県笠岡市   北木島(きたぎしま) 北木島町(きたぎしまちょう)
     瀬戸内市  木島(きじま)

 香川県高松市   女木島(めぎじま) 男木島(おぎじま)
    坂出市   室木島(もろきじま)


 福岡県久留米市  城島町 青木島(あおきしま)

 佐賀県伊万里市  越木島(こしきじま)

 長崎県佐世保市  下樫木島(しもかたきじま) 上樫木島(かみかたきじま)
    平戸市   下枯木島(しもかれきしま) 上枯木島(かみかれきじま)
    対馬市   品木島(しなぎじま)
    北松浦郡  小値賀町 藪路木島(やぶろきしま)
          鹿町町 八木島(やぎじま)

 熊本県天草市   黒木島(くろきじま)
    芦北郡   芦北町 木島(きしま)

「鬼島」

  山梨県南巨摩郡   鰍沢町 鬼島(おにじま)

  静岡県藤枝市    鬼島(おにじま)

  和歌山県東牟婁郡那 智勝浦町 鬼島(おにしま)

  島根県松江市    鬼島(おにしま)

  長崎県佐世保市   餓鬼島(がきじま)

 熊本県上天草市   鬼島(きじま)

以上、基礎資料作成は「自然体で、興味を持ったことを・・・」ブログサイト甚七さん。なお「きねしま」などの読みは「かしま」「きしま」語源ではないので割愛しました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鹿島

 茨城県鹿嶋市     鹿島神宮、坂合部、佐伯部、飛騨の匠などが記録に。神社、仏閣の建設のために建築資材や石材、塗料などのために各地から職人が入っている。もともとは海の中にあった砂州を神宮建設のために埋め立てた場所。2世紀頃まではには満潮時には海の底だった浜辺である。本格的な埋め立ては息栖神社が海中から現在地に移された頃と推測できる。岩手・宮城からつながる海岸の砂鉄による製鉄(武器製造)のために藤原氏が確保した場所だが、同時に北の蝦夷の侵攻を食い止めるための関所の意味合いもあった。その前は物部氏の砂鉄採集、製鉄基地であろう。ゆえにその場所を引き継いだ藤原氏としては、非業な最後だった物部守屋という製鉄の雄の怨霊を少し離れた香取に祀る必要があった。香取神宮から見て北東の鹿島には鬼門の意味合いもある。
「あられふるかしま」という和歌の定型句は阿蘇の杵島岳から。阿蘇多氏がここを管轄したしたためである。故郷の地名を持ち込んだのだろう。現在、杵島岳という山は見あたらない。埋め立てのために削り取られたのかも知れない。多氏の痕跡はこうして消えた。しかし山の多(にますみしりつひこ)神社周辺の都祁の近くに多氏坂合部氏がいることから、彼らが杵島地名を鹿島にもちこんだであろうことは動かしがたい。かわかつ

 佐賀県鹿島市
 熊本県嘉島
 福島県相馬郡鹿島町 舟打鉱山
 石川県鹿島郡鹿島町
 鹿児島県薩摩郡鹿島村
(以上鹿島の項はかわかつ検索)

1〜1.5世紀に茨城の鹿島郡は海の中にあったことがわかっている。従って鹿島地名は水没が終わって地表が現れた以降になんらかのきっかけでつけられたはずである。それがおそらく鹿島神宮の建立によるクローズアップであるか、あるいはそれ以前に阿蘇方面から入った多氏、熊襲、隼人たちによってかは定かでない。
ただ、杵島が鹿島の語源になったのではないかと谷川健一は書いている。

以下の解説者は茨城県鹿島の地元民であるためか「かしま」地名に対し、相当地元びいきの偏った部分があるがあえてこちらのサイトから転載する。あまりに偏ると読む気がしなくなるものだ。
ただし、偏った部分はすべてこの方の名誉のためにもカットした。
くれぐれも申し上げておくが「便利だった」から使ったのである。いいところもある。       かわかつ

引用文差別表現の削除と編集はかわかつ

「鹿島神宮・鹿島臨海工業地帯を抱えるカシマ市は、茨城県の南の端の海に面したところ(利根川をはさんで千葉県銚子市)にあり、つい最近になって鹿島町・大野村の2町村が合併して市になりました。その際、市の名前を何にするかということで、鹿島市という名称が浮上しました。しかし、その名前はすでに佐賀県南部の人口4万人足らずの市で使われていたんです。それで、行政上の名前だけ鹿嶋市になったわけです。(削除)
(削除)「かしま」と言う地名は全国に6市町村あるようです。
佐賀県鹿島市、福島県相馬郡鹿島町、石川県鹿島郡鹿島町、島根県八束郡鹿島町、茨城県鹿嶋市、鹿児島県薩摩郡鹿島村(HP未)です。
さらに調べてみますと、時代はさまざまですが、古くは紀元前から、縄文・弥生時代、奈良・平安時代からなどめんめんと歴史を積み重ねてきた場所柄だったのです。(後略)
(前略)佐賀県の鹿島と茨城県の鹿島は上古において、無縁ではなかったはずです。
常陸風土記に「タケカシマノミコト?」が常陸の国を征服する話がでてきたと記憶しています。タケカシマノミコトはたしか本人もしくはその配下が筑紫出身で、杵島曲(キシマブリ)という歌をうたったとあったように記憶しています。
杵島というのは佐賀県の現鹿島市をふくむ郡名だと記憶します。
佐賀県の鹿島はこの杵島と縁のある地名のはずです。

そして、その2です。(ここから先が5月更新です。)
*杵島と鹿島
1)肥前国風土記の杵島郡の条に景行天皇の巡幸の時の話として、船の泊まったところが自然に島となった。
そこで天皇が「此の郡は、カシ(文字は?、[歌-欠+弋])嶋郡と謂ふべし」といった。杵島(キシマ)郡というのは訛りだという説話がのっています。
船の「かし」というのは船を留める水中に立てる杭のことです

2)常陸国風土記や肥前国風土記、万葉集によると「あられふる」という言葉が「鹿島」とともに「杵島」にかかる
枕詞となっています。

3)また常陸国風土記で建香島命が国栖をだましたという「杵島曲」について、肥前国風土記(逸文)では「杵島曲」は歌垣(カガイ)の歌としてでてきます。歌垣はテレビでもときどき紹介される中国中・南部の少数民族の民俗事例にある若い男女の出会いの場であり、ここで男女が歌を交換する場です。常陸国風土記では筑波山で男女が集うという記事があります

このように、「かしま」、「きしま」は関係が深いということがあります。

*佐賀県の鹿島市は杵島郡の隣の郡の藤津郡の地名で、風土記でも別の郡となっています。角川の地名辞典は「鹿島志」というのをひいて鹿島の地名のもとは、(茨城の鹿島神社を遷した)鹿島宮からとあります
これなら、最初にいわれた茨城からという説が正しいことになります。
しかし、同じ地名辞典に鹿島は古い地名でその最初は平安時代はじめの延喜式にみられる「鹿島馬牧」だそうです。
武神として鹿島神社の遷移は中世の武士の時代からと思われますので、鹿島志の鹿島神社が元というのには疑問があります。

以上、佐賀県の鹿島については
1)隣接の杵島は茨城の鹿島と関連が深い
2)しかし、鹿島の起源はあまり明確ではない
ということでししょうか


そもそも鹿島神宮は神話にみえる出雲を屈服させた“タケミカヅチノミコト”をまつる神社です。
上古はヤマト朝廷の東国・蝦夷征服のための神として“クロイタノミコト”や“タケカシマノミコト”を祖とする国造の一族である多氏がまつったものと、思われます。

鹿島神はヤマト朝廷の蝦夷征服とともに、東北で多数設立された鹿島神社、鹿島御子神神社が、延喜式に朝廷の祭る神社がとしてあげられており、これらの後裔として福島県や宮城県に鹿島神社鹿島御子神社がかなりあります。

福島県の鹿島町はそういう鹿島御子神神社があることか(ら *かわかつ加筆)でた町名だそうです。福島県には、いまではいわき市に併合された鹿島神社があることによってでた鹿島町もあったそうです。

宮城県の鹿島台町もそうした地名でしょう。

ところが、大化改新・奈良時代くらいには中臣氏が祭祀をうばい、中臣氏からでた藤原氏との関係がふかまり、奈良の春日神社に遷り藤原氏の祖先神とともにまつられます。

中世には武神として各地に遷移します。
鹿児島県の鹿島村はこうした鹿島神社があったことにより、なづけられたそうです。
佐賀県の鹿島市についてこの説があることを紹介しました。石川県に(いまの鹿島町とはべつに)こういう鹿島神社があったことによりなずけられた鹿島村が加賀、能登にあったそうです。
全国にこうした町村がもっとかつてはあったものとおもわれます。いまでも各市町村に鹿島神社がある地区に鹿島という地名があります。(これは事実。鹿島地名には茨城以前以後があることをまず把握しておかねばならない。)
石川県の鹿島町は鹿島神社とは関係ないようです。鹿島町は鹿島郡にあります。この郡はその昔は能登郡と能登の中心で、鹿島郷というのがありました。鎌倉時代までに郷名をとって鹿島郡といわれるようになりました。鹿島郡には鹿西町というのもあります。

ところで、カシマという地名の自治体に熊本県に嘉島町というのがあります。
加島という地名・島名もあります。鹿島神社とは別の地名でしょう。(「別」なのではなく、ここから移動した人々によって茨城以前の鹿島、杵島は各地に命名されてくのだろうと考えるのが歴史研究の基本。)

島根県の八束郡鹿島町は全く別の成り立ちです。これは昭和31年に鹿島町が合併で成立する際、町域が旧郡(明治29年以前)の秋鹿郡と島根郡にわたるので名づけられた合成地名です。」
(こういうことはちゃんと書いているのはいいことである かわかつ)
http://homepage1.nifty.com/hankai/backnum1/mag4.htm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



まず鹿島と杵島は杵島が先だろう。
古代の古い地名はまず西から東へ伝播したと見て言い。

景行天皇が「かしま」と名付けたという、いわゆる「地名説話」というものの類例が『豊後国風土記』には山のように出てくるわけだが、そのほとんどはダジャレのような名付け方であることはよく知られていることで、あまり信憑性を求められない。和名抄なども信憑性は疑わしい。後世の付会と一般的に思われている。

それよりも「鹿島馬牧」というものがあったことが重要である。
熊本県阿蘇の湿地草原である草千里は、阿蘇杵島岳の真下に広がる馬牧だったところで、今も放牧が行われている。温暖な九州にあって気候冷涼な高地で、牧草が育てやすい、馬牧には絶好のシチュエーションである。
阿蘇は活火山で、当然硫黄も採れるが、なにより阿蘇ピンク石という当時高価な石棺材料が全国ここだけで採集できた。ウスミがかったピンク色の花崗岩は、大和でも珍重されたことは非常に著名な事実である。
対面する九重連山の硫黄山からは記録にもあるように硫黄が採られていた。
これらは朝廷にとって、特に四位以上の貴族、皇室にとって非常に必要な高級ブランドだったわけだ。

ピンク石はその色がほかになく、特に女性にとっては垂涎の墓石用材であったろう。
硫黄は薬石八石のうちのひとつで、中国南部派生の道教、風水の上でも不老長生の妙薬と考えられていた。
要するに阿蘇・九重ははるか大和の貴種にとって必要欠くべからざる資源の宝庫だったことに相違ない。

と言うことは、当然、金に糸目をつけず山師たちが派遣されたはず。
彼らの職様は、何も知らされていない一般の農民にから見れば理解を超えていた。いつの間にか大挙して押し寄せ、知らないうちに山上で火を焚き、夜ごと山を掘り返し、あまつさえ、目的以外の鉱物が出ればそれも掘り返し、場合によってはその場で鍛冶屋と化した可能性もある。

おそらく目的物以外の鉱物も貴重品であろうから、朝廷は返って喜び、金や鉄、銅でも出ようモノなら、あるいは貴族にまで出世したかも知れない。事実そういう例はたくさん続日本紀に書かれている。
あるいは、秘密裏に海外へと売りさばく者もいたかも知れない。いや、いたであろう。

この異形の者どもを、古くは全国的に「鬼」と呼んだことは民俗学では既成の事実。
各地に鬼原、鬼谷、鬼島地名があり、それが奈良時代以降、「良字」を用いる指示があって鬼の文字が差し替えられていったと考えられる。たとえば杵島、城原、城島という風に・・・。

いわゆる「吉原」が元「芦原」=あしはら=悪し原だったことと同じである。

この「鬼島」だったことを、日本書紀は景行天皇が名付けたという「権威」に差し替えたのではあるまいか?

従って、杵島地名は「かし」でなく、当初「きし」だったと考えたい。

まして、その後、茨城の鹿嶋に神宮を建立し、そこを東国の本拠とした藤原氏にとって、すでに先に入っていた鉱物管理氏族の熊本出身阿蘇一族や佐伯氏あたりが、故郷をしのんで名付けた鉱物地名であることが世間では通り相場だったはずの杵島山の地名を、そのまま使ったはずはない。
げんの悪い名前だ、これでは砂鉄鍛冶をしていることが丸わかりではないか・・・とばかり、「かしま」に読み替えた可能性は高いだろう。

実際、鹿島は砂鉄の山地である。縄文海進が回復した2世紀頃には手つかずの砂鉄あふれる砂州だったはず。まして東国。当時の未開地である。そこにいたのは未開の粛慎。ほかにいたとしても九州の倭人、海人、隼人が漁業基地にしていたくらいだろう。矢尻を作るのに鉄を使ったと言っても、剣や農具に比べれば微々たる使用量である。鹿島神宮に行くと多くの剣が飾られている。またヤマトタケルも筑波山から鹿島、そして釜石方面に砂鉄鉱脈を探しに行こうとした可能性があるくらいだ。

いや、実を言うとヤマトタケルが尾張氏の祭神であり、熱田神宮に草薙の剣という出雲の神剣があるのも、おそらく製鉄を象徴する可能性があるのである。そう、尾張氏は熊野から出た。熊野灘もまたクロム砂鉄の採れる場所。
だから彼らの祀るアメノホアカリという神名も、あるいは「火明」が製鉄の高炉の炎を象徴している可能性が非常に高いと言われている。

尾張氏など、あとの時代まで長らえた地方氏族のほとんどは、当初、物部氏に従事しているが、その親方だった物部氏なきあとは、どうしたってあとの権力に追従しなければ生き残れないはず。つまりアメノホアカリが熱田で、ニギハヤヒの名前もくっついている理由はそこなのだ。それは彼らができれば消したくない、自分たちが古い、もとから列島にいた氏族なのだというステータスであるから、尾張氏くらい強い力を持てたら、朝廷に主張し得たのではないか?しかも藤原氏の大元は物部氏とほとんど同族的祭祀者であるだろう中臣氏。かつての大王の祖神ならむげに断れない。そのかわり時折、神宝である草薙剣を持ち出させて人質ならぬ、質草にして帰順の度合いを確かめているのだろう。

従って鹿島は杵島、その語源は山師のいる山という意味の鬼島であろうと想像する次第である。
すべてを確かめにいったわけではないが、谷川健一や若尾五雄と言った「物質民俗学」の著書を見たり、九州の鉱山を実際に回ったものとしては容易に割り出せる内容だ。いかがであろうか?




記事アップ 2007年6月6日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

社会的諸問題に配慮し一部解説をカットしています。
 

1 矢筈分析

北海道磯谷郡  蘭越町  矢筈の沢川 (やはずのさわがわ) 資料なし。北海道地名は新しいのでおそらく二股の川。

青森県下北郡  風間浦村 矢筈山(やはずやま) 近くに佐井村(全国的に海人地名)。良港。全国海人族が大好きな二見岩あり。布海苔養殖発祥の地。遺跡なし?
      西津軽郡 鰺ヶ沢町 一ツ森町矢筈(やはず) 松前藩とアイヌの攻防がここで。倭王武上奏文中の「毛人」の集落か。

 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/japan/ainu.htm

岩手県大船渡市 矢筈山(やはずやま) 南部鉄器。久慈砂鉄鍋産地。砂鉄産地。鋳物業。三陸海岸の岩礁地帯。良港。海人の漁業基地。住田地名あり。矢作のある陸前高田に近い。海釣りのメッカ。

      岩手郡  雫石町 矢筈(やはず) 矢筈橋(やはずばし)
砂鉄のメッカ阿武隈山地中央部、秋田との県境。イワナ・ヤマメ、ほかになにやら郷土芸能。「しずくいしまち」?海辺ではなさそう。温泉がたくさんある。釜石製鉄所に砂鉄を。旧石器遺跡多数。石英産地。新日鐵釜石の直接ゆうろ法はたたら製鉄の応用で発祥の地。http://www.pref.iwate.jp/~hp0315/gabogabo_home/encyclopedia/garbo/GG02/machi39.html
など

宮城県宮城郡  七ケ浜町 矢筈島(やはずじま) 多賀城市に隣接し七ヶ浜町は多賀城にもあり。海人族。漁業。鉱物地名は韮山=伊豆の韮山と同じ。塩竃に隣接。モシオ。九十九里浜、三陸海岸、熊野灘と並ぶ太平洋側の砂鉄産地。日本海文化と深い関係。http://www2u.biglobe.ne.jp/~todachan/ikennsho.htm

           松島町 幡谷矢筈森(やはずもり) 日本三景。奇岩のメッカ。母の胎内のような入り組んだ石灰岩の島。幡谷(はたや)地区には鹿渡地名。坂の一里松遺跡。砂鉄、木炭。
http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/gen-setu2001/oogai/oogai-gensetu.htm

秋田県鹿角市  矢筈山(やはずやま)  菱鉄鋼産地。尾去沢。 http://ruin.seiiki.com/Rhodochrosite03.html
l
      横手市  十文字町谷地新田 矢筈(やはず) 大分県三重町、秋田県湯沢市、秋田県平鹿郡などについで土谷、麻生姓=鉱山師氏姓が多い。http://www.tsuchiya.com/zenkoku/sinbun/0005.html
砂鉄。
http://www.tohoku.meti.go.jp/kikaku/report/sangyokanko/chapter4.pdf#search=
'%E6%A8%AA%E6%89%8B%E5%B8%82%20%E5%8D%81%E6%96%87%E5%AD%97%E7%94%
BA%20%E7%A0%82%E9%89%84'  

  PDFにつき注意


 山形県新庄市  本合海 矢筈沢(???)矢筈山(???)江戸時代は新庄藩が置かれ、戸沢氏6万石の城下町である。羽州街道の宿場町でもあり、市南部の本合海(もとあいかい)集落は最上川水運の主要積出港だった。磐根街道が開削される明治時代初頭までは、庄内町清川まで道がなかったため、本合海河港からの舟運が唯一の交通手段であった。民話の宝庫。
葛麓地名、かつろく、とは山の麓。従って葛(かつ)とは山の意味でもあるらしい。海人族。船着き場。松尾芭蕉。奥の細道http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%84%E5%B8%82


 福島県二本松市 矢筈森(やはずもり) 耶麻郡猪苗代町に安達太良山。「あだたら」は「たたら」からの命名だろうか。「いなわしろ」は「伊那+和白」か? 猪苗代湖は、旧硫黄鉱山の廃鉱口からの強酸性の地下水や沼尻鉱山と中ノ沢温泉の強酸性の源泉が長瀬川を通じて流入するために、湖岸付近以外では、湖水のpHは5程度の酸性を示しており、また、鉄イオンやアルミニウムイオンの濃度が高いことから長瀬川からの流入水が猪苗代湖で中和される過程でこれらのイオンと有機性汚濁成分やりんが吸着、結合して湖底に沈殿するという自然の浄化機構を持っています。http://www.ht-net21.ne.jp/~kosuikyo/inawashiroko.html

ほかに鉄山、薬師岳が著名。また裏磐梯山ふもとに五色沼。鉱物によって色がさまざま。沼が平から亜硫酸ガス=活火山=硫黄・硝石。くろがね小屋。猪苗代湖は白鳥来訪地
http://www.geocities.jp/kanagawasanpo/touhoku/rkikou/sub02b.html

鉱物氏族・上毛野氏の本拠。いわき市小名浜字隼人地名有り。大熊町砂出遺跡。熊襲事件。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E8%AC%8E

神社庁がこういうことを書く県は珍しい?http://www.fukushima-jinjacho.or.jp/shinwa/shinwa_14.html

県名の由来
明治9年に、当時の若松県、磐前(いわさき)県、福島県が合併して、現在とほぼ同じ姿の福島県 が誕生しました。 「福島」の名称は、そのころの県庁所在地だった福島町から取ったものですが、文禄2年(1593 年)ごろ、木村吉清によって、福島城として使われたのが初めてだといわれています。 なお、詳細な由来は不明とされています。(「福島県史」「図説福島市史」より)(2)
信夫(しのぶ)郡は昔、見渡す限りの湖で真ん中に信夫山(しのぶやま)があった。
この山には吾妻 おろしが吹きつけていたため、吹島(ふくしま)と呼ばれるようになった。その後、長い歳月を経て、湖が干上がり陸地ができ、次々と集落が生まれた。吹島は風が吹きつ けることをきらって、吹を福とし、福島と呼ぶようになった。(「伊達風土記」より)(3)福島の中心街一帯はかつて信夫(しのだ=安倍晴明関連?)の里の杉目(すぎのめ=杉の木服部?)郷と呼ばれた地域にあたり、目の前に阿武隈川をのぞんだ土地。ここに応永20年(1413年)ころ、当時の伊達盆地の支配者である伊達持 宗が杉目城(大仏城=だいぶつじょう)を築き、福島が町になる転機をつくった。 伊達氏はこのあと、独眼竜政宗の時代に、中通りと会津の全域を支配するまでに育ったものの、 天正18年(1590年)天下を握った豊臣秀吉に追われ、さらに北方の土地へと移っていく。 新しく中通りと会津の支配者となったのは秀吉の信任厚い蒲生氏郷(がもううじさと)である。氏郷 は会津黒川城を本拠とし、伊達盆地の杉目城をその支城としていたが、城の名を縁起のいいものに するため、黒川を若松に、杉目を福島にしたと伝えられている。福島の名は福にあやかったものの ようである。(「ふるさと再発見20」より)
http://homepage2.nifty.com/iitoma/shiryoushitu/kenmei-yurai.html

福島県=吹く島=吹く=熊襲=製鉄がここでつながった。

     耶麻郡  北塩原村 矢筈山(やはずやま) また耶麻郡。山都村有り。塩川=カルシウム=岩塩か?鉱物に多く含まれる。恵比寿喜多えびすきた地名。恵比寿が来たから喜多方。
      伊達郡  国見町 泉田矢筈山(やはずやま)国見町は揖宿郡国見岳と同じ地名。伊達と安達太良は関連か?

新潟県三条市  下矢筈沢(しもやはずざわ)上矢筈沢(かみやはずざわ)
      三条市  矢筈岳(やはずだけ)
      五泉市  矢筈岳(やはずたけ)
●7月7日、新潟県相川町に、佐渡金山四百年祭記念イベントに出席するために佐渡金山や奉行所にゆかりがある人の子孫40人以上が大集合した。1618年から13年間、佐渡奉行だった竹村九郎衛門や親子2代で奉行を務めた萩原彦次郎・源八郎父子の子孫ら。ほかにも金山鉱脈開発にあたった山師の味方但馬、奉行所の下級役人で「丹下左膳」の作者、林不忘の子孫などが集まる
●新潟県西蒲分水町国上の酒呑(しゅてん)童子神社で、例祭が行われた。同町は伝説の美男子、酒呑童子が修行した地とされている      http://homepage2.nifty.com/iitoma/PASTNEWS/topics/maturi/2niigata.html

古志と出雲文化との関係、四隅突出型古墳など  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei15.htm#(1)越後(えちご)国

 福井県三方郡  美浜町 矢筈(やはず) 矢筈山(やはずやま) 町名は弥美(みみ)の「み」と砂浜の「はま」から。美浜原発。神功皇后を祀る上宮神社あり。武内宿禰も合祠。対面は金屋碕。上宮から先は原発のあるために一般人は入れない。しかし村落はあり、舟でしかいけない。北西郷村、西西郷村、耳村、山東村!!が合併して三方郡美浜町に。

隣接するの遠敷町(おにゅう=水銀・東大寺お水取りに湧水を運ぶ町)は旧三方郡であった。敦賀の国。丹生湾。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%B5%9C%E7%94%BA_(%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C)

吉田郡に永平寺。吉田・・・芦田、芦田、足田、悪し田。・・・湿地帯や荒れ地、鉱山につく地名。転じて良し田。美・・・久美浜、美浜、各地に原発あり。熊襲、隼人、蝦夷、恵比寿・・・・・・・・・・・・検索中断。以下略。極めて危険。

これ以上の検索は無意味で危険度が高くなるゆえ、自主的に中止する。かわかつ



長野県飯田市  矢筈山(やはずやま) 矢筈トンネル(やはずとんねる)
      下伊那郡 泰阜村 矢筈川(やはずがわ)
           喬木村 矢筈砂防ダム(やはずさぼうだむ)

岐阜県中津川市 飯沼 矢筈 (やはず)

静岡県伊東市  矢筈台(やはづだい)矢筈山(やはずやま)

愛知県北設楽郡 設楽町 津具 大矢筈(おおやはず)

滋賀県大津市  矢筈ヶ岳(やはずがだけ)

和歌山県有田郡 有田川町 矢筈山(やはずやま)
       日高郡 日高川町 矢筈岳(やはずだけ)

鳥取県東伯郡  琴浦町 矢筈ヶ山(やはずがせん)矢筈川(やはずがわ)
     仁多郡  奥出雲町 矢筈山(やはずやま)

岡山県津山市  矢筈山(やはずやま)

山口県防府市  矢筈ヶ岳(やはずがだけ)矢筈森林公園(やはずしんりんこうえん)
           上右田 矢筈(やはず)

徳島県阿南市  矢筈山(やはずやま)
      三好市  矢筈山(やはずやま)
      海部郡  牟岐町 矢筈山(やはずやま)

香川県さぬき市 矢筈山(やはずやま)

愛媛県上浮穴郡 久万高原町 矢筈岩(やはずいわ)

高知県安芸郡  北川村 矢筈谷川(やはずだにがわ)
      吾川郡  仁淀川町 矢筈トンネル(やはずとんねる)矢筈峠(やはずとう)

 福岡県北九州市 門司区 矢筈町(やはずまち) 矢筈山(やはずやま)

佐賀県武雄市  矢筈 (やはず) 矢筈ダム (やはずだむ)

長崎県長崎市  矢筈 (やはず) 矢筈岳 (やはずだけ)
     西海市  矢筈島 (やはずしま)

熊本県天草市  矢筈嶽 (やはずだけ) 矢筈岳 (やはずだけ)
      上益城郡 山都町  矢筈岳 (やはずだけ)
      球磨郡  球磨村  矢筈越 (やはずごえ)
      天草郡  苓北町  矢筈岳 (やはずだけ)

大分県東国東郡 姫島村  矢筈岳 (やはずだけ)

宮崎県東諸県郡 綾町   矢筈岳 (やはずだけ)
      西臼杵郡 日之影町 矢筈岳 (やはずだけ)

鹿児島県鹿屋市 沖矢筈島(おきやはずじま)矢筈島(やはずじま)
       出水市 矢筈岳 (やはずだけ) 矢筈峠 (やはずとうげ)
    薩摩川内市 矢筈野(やはずの)
       日置市 矢筈岳(やはずだけ)
      鹿児島郡 三島村  矢筈山(やはずやま)
       揖宿郡 頴娃町  矢筈岳(やはずだけ)
       熊毛郡 上屋久町一湊 矢筈岳(やはずだけ)矢筈崎(やはずざき) 屋久島の地名。一湊松山遺跡出土品 一湊川によって開けた沖積低地および砂丘地にある。矢筈岬と一湊湾が形成する天然の良港に恵まれ,背後には「布引きの滝」が流れるなど,生活に必要な水を容易に求められる立地条件の整った場所である。九州における縄文時代前期を代表する曽畑式土器が,大量に出土した特徴ある遺跡として注目されている。この土器は,屋久島から遠く離れた熊本県宇土市にある曽畑貝塚が標識遺跡で,一般的に底の丸い深鉢が多く,壺,碗などもある。外側のほぼ全面と内側の口縁部の一部に細いへら状,もしくは棒状の道具を使って文様を描いている。
 曽畑式土器が発見されている地域は,朝鮮半島南部の釜山市にある東三洞(とうさんとう)貝塚から九州全域,さらに沖縄県など,南北950キロにも及ぶ。そのため,朝鮮半島と西北九州縄文人との活発な交流が考えられている。
(「教科書にのらない鹿児島の遺跡 37」 県立埋蔵文化財センター)
http://www.edu.pref.kagoshima.jp/er/kyouzai/ruins/kagoshima-iseki-top.files/kakuiseki/kaku-isekinew.htm


論説集の目次に戻る

前のページに戻る


結論

1 矢筈地名・矢作地名は地域の有数の河川沿いにあり、
多くは海岸の良港から内陸の鉄産地に集中。

2 隼人あるいは熊襲、そして尾張氏に関わった場所である。

3 多氏に関係した場所でもある。

4 特に矢筈は漁港、漁業基地、砂鉄の出る浜が多かった。

5 従って尾張氏、隼人、熊襲、多氏が製鉄に関わった氏族であると証明できる。

6 比較的であるが、原発などのコウキケンドの施設が散見できた。

以上。   2007年6月9日 かわかつ著・編集